鶏冠男(とさかおとこ)
文字数 1,999文字
「お父さんと付き合う前の話なんだけど、高校時代にね、大好きな先輩がいたのよ」
微笑む母の手にあるのは、両親が新婚時代に旅先で買ったという夫婦湯呑の片割れだ。中身が芋焼酎のお湯割りというところが母らしい。
「お父さんの命日に、そんな話してもいいの?」
仏前には、芋焼酎入りの夫婦湯呑のもう片方が供えられていた。
母はもう酔っている。
まあ、楽しそうだから良しとするか。ごめんよ、お父さん。
苦笑いする父の顔が思い浮かんだ。
「どんな人?」
「鶏みたいな髪型で、ぶっかぶかの学ラン着て、学校サボってバイク乗り回して煙草吸ってるような人」
そんな髪型ならきっとノーヘルに違いない。
「嘘でしょ?」
母はニヤついた目つきだけで答えた。
「信じらんない」
堅物の見本のようだった父とは真逆のタイプだ。
「これ美味しいね。お酒が進んじゃう」
つまみは、わたしが秋田で買って来たいぶりがっこだった。
「あなた、吞んでる?」
「お母さん、ペースが早過ぎ」
しかも、母のお湯割りは、わたしのものよりも格段に濃い。
「偶々 見ちゃったの。その先輩と一緒に走ってたバイクが猫を轢き逃げするのを」
「最悪じゃん」
「猫に駆け寄ったけど、酷い有り様でね。手が出せなかった。そしたら、そこに先輩が戻って来て、猫を抱き上げて行っちゃった」
「え、その猫、どうしたの?」
「気づいたら、校舎の裏にお墓ができてた」
「げ。それってどうよ」
「駄目だね、そんなことしちゃ。でもね、それは問題じゃなかったんだ」
言いたいことは分かる。そんな場面に正論を持ち込んでも無粋でしかない。
「それから先輩のことが頭から離れなくなっちゃって。でもめったに学校に来ない人だし」
聞きながらいぶりがっこを齧 り、焼酎を少しだけ口に含んだ。
「ある時、先輩が喫茶店に入るのを見たの。商店街の外れにあった古い喫茶店」
「暴走族の溜まり場?」
母はゆっくりと首を横に振った。
「恐る恐る中に入って吃驚 よ」
煙草の煙が充満した店内には、バッハが流れていたという。
「先輩は一人、煙草吸いながら文庫本を読んでた。学ラン着て、どう見ても高校生なのにさ、大らかな時代だわよね」
近づいた母を、先輩は一瞬だけ見て、またすぐに視線を本に戻した。
「座ってもいいですか」
返事はなく、母は勝手に向かいに座った。
先輩の前には、もう湯気も立っていない珈琲があったそうだ。水を持って来てくれたマスターに同じものを、と頼んだ。それが、母が初めて飲んだブラック珈琲だったという。
「何読んでるのかきいても返事はないし。何を言えば反応してもらえるか、必死に考えたのよ。で、わたしにも一本下さいって」
「それはまた、思い切ったことを」
「先輩も驚いたみたいだったけど、本をテーブルに置いて、ポケットから出した煙草を無言で差し出してくれたわ」
先輩が灯したマッチの火に、煙草を咥えた母が顔を近づけた。先端が炎に触れ、反射的に吸い込んだ母は盛大にむせ込んだ。先輩はすぐに母から煙草を取り上げて、灰皿で揉み消した。それが母にとって生涯唯一の煙草だそうだ。
「煙草は二度とごめんって思った。珈琲も吐きそうだったけど、砂糖やミルクを入れたら負けだと思って必死に飲み干したの」
「馬鹿だねぇ、よくやるよ」
「自分でもそう思う」
笑いながら、母は自分の湯呑に焼酎だけを注ぎ足した。
「もう一度、何を読んでるんですかってきいたら、やっぱり黙ったまんまだったけど、今度は背表紙を見せてくれたの」
人間失格だったそうだ。
「またまた吃驚 よ」
「どういう風の吹き回しでそうなってたわけ?」
事情は後に分かったらしい。その数日前にバイク仲間が事故で死んだ。それを機に先輩はバイクに乗るのをやめたのだと。
「かといって何をすればいいのかも分からなくて、その頃は過渡期みたいな時期だったんだろうね」
その後、先輩は髪型を鶏よりも人間に近づけ、煙草もやめたのだそうだ。
「で?」
「何?」
「それからどうしたの?」
「どうもしないわ。それだけよ」
「何よ、それ。私は何を聞かされてたわけ?」
「次はあんたが昔の男の話でもしなさいよ」
「何でよ。やだよ」
それが母と笑い合った最後になった。
翌朝、母が目を覚ますことはなかった。就寝中のくも膜下出血という診断だった。わたしが泊まった朝だったことがせめてもの救いだ。父を亡くしてから一人暮らしだった母を、一人のまま逝かせることはなかったと思うことができた。
母が逝って丸三年。実家の整理に手を付け始めたのは、つい最近のことだ。
押入れの奥から、見覚えのない古いアルバムを引っ張り出した。ページをめくる度に、びりびりと剥がれる音がする。
そこに鶏頭の先輩がいた。時を経るに連れて髪型が人間らしくなっていき、やがて見慣れた父の容貌に変貌していく様を目の当たりにした時、暫し言葉を失った。そしてその後は、こみ上げる笑いと涙を抑えることができなかった。
了
微笑む母の手にあるのは、両親が新婚時代に旅先で買ったという夫婦湯呑の片割れだ。中身が芋焼酎のお湯割りというところが母らしい。
「お父さんの命日に、そんな話してもいいの?」
仏前には、芋焼酎入りの夫婦湯呑のもう片方が供えられていた。
母はもう酔っている。
まあ、楽しそうだから良しとするか。ごめんよ、お父さん。
苦笑いする父の顔が思い浮かんだ。
「どんな人?」
「鶏みたいな髪型で、ぶっかぶかの学ラン着て、学校サボってバイク乗り回して煙草吸ってるような人」
そんな髪型ならきっとノーヘルに違いない。
「嘘でしょ?」
母はニヤついた目つきだけで答えた。
「信じらんない」
堅物の見本のようだった父とは真逆のタイプだ。
「これ美味しいね。お酒が進んじゃう」
つまみは、わたしが秋田で買って来たいぶりがっこだった。
「あなた、吞んでる?」
「お母さん、ペースが早過ぎ」
しかも、母のお湯割りは、わたしのものよりも格段に濃い。
「
「最悪じゃん」
「猫に駆け寄ったけど、酷い有り様でね。手が出せなかった。そしたら、そこに先輩が戻って来て、猫を抱き上げて行っちゃった」
「え、その猫、どうしたの?」
「気づいたら、校舎の裏にお墓ができてた」
「げ。それってどうよ」
「駄目だね、そんなことしちゃ。でもね、それは問題じゃなかったんだ」
言いたいことは分かる。そんな場面に正論を持ち込んでも無粋でしかない。
「それから先輩のことが頭から離れなくなっちゃって。でもめったに学校に来ない人だし」
聞きながらいぶりがっこを
「ある時、先輩が喫茶店に入るのを見たの。商店街の外れにあった古い喫茶店」
「暴走族の溜まり場?」
母はゆっくりと首を横に振った。
「恐る恐る中に入って
煙草の煙が充満した店内には、バッハが流れていたという。
「先輩は一人、煙草吸いながら文庫本を読んでた。学ラン着て、どう見ても高校生なのにさ、大らかな時代だわよね」
近づいた母を、先輩は一瞬だけ見て、またすぐに視線を本に戻した。
「座ってもいいですか」
返事はなく、母は勝手に向かいに座った。
先輩の前には、もう湯気も立っていない珈琲があったそうだ。水を持って来てくれたマスターに同じものを、と頼んだ。それが、母が初めて飲んだブラック珈琲だったという。
「何読んでるのかきいても返事はないし。何を言えば反応してもらえるか、必死に考えたのよ。で、わたしにも一本下さいって」
「それはまた、思い切ったことを」
「先輩も驚いたみたいだったけど、本をテーブルに置いて、ポケットから出した煙草を無言で差し出してくれたわ」
先輩が灯したマッチの火に、煙草を咥えた母が顔を近づけた。先端が炎に触れ、反射的に吸い込んだ母は盛大にむせ込んだ。先輩はすぐに母から煙草を取り上げて、灰皿で揉み消した。それが母にとって生涯唯一の煙草だそうだ。
「煙草は二度とごめんって思った。珈琲も吐きそうだったけど、砂糖やミルクを入れたら負けだと思って必死に飲み干したの」
「馬鹿だねぇ、よくやるよ」
「自分でもそう思う」
笑いながら、母は自分の湯呑に焼酎だけを注ぎ足した。
「もう一度、何を読んでるんですかってきいたら、やっぱり黙ったまんまだったけど、今度は背表紙を見せてくれたの」
人間失格だったそうだ。
「またまた
「どういう風の吹き回しでそうなってたわけ?」
事情は後に分かったらしい。その数日前にバイク仲間が事故で死んだ。それを機に先輩はバイクに乗るのをやめたのだと。
「かといって何をすればいいのかも分からなくて、その頃は過渡期みたいな時期だったんだろうね」
その後、先輩は髪型を鶏よりも人間に近づけ、煙草もやめたのだそうだ。
「で?」
「何?」
「それからどうしたの?」
「どうもしないわ。それだけよ」
「何よ、それ。私は何を聞かされてたわけ?」
「次はあんたが昔の男の話でもしなさいよ」
「何でよ。やだよ」
それが母と笑い合った最後になった。
翌朝、母が目を覚ますことはなかった。就寝中のくも膜下出血という診断だった。わたしが泊まった朝だったことがせめてもの救いだ。父を亡くしてから一人暮らしだった母を、一人のまま逝かせることはなかったと思うことができた。
母が逝って丸三年。実家の整理に手を付け始めたのは、つい最近のことだ。
押入れの奥から、見覚えのない古いアルバムを引っ張り出した。ページをめくる度に、びりびりと剥がれる音がする。
そこに鶏頭の先輩がいた。時を経るに連れて髪型が人間らしくなっていき、やがて見慣れた父の容貌に変貌していく様を目の当たりにした時、暫し言葉を失った。そしてその後は、こみ上げる笑いと涙を抑えることができなかった。
了