第19話 地名も消えた猪膝宿

文字数 1,146文字

 猪膝(いのひざ)宿は、人の記憶から無くなってしまうかもしれない。宿場らしきものをナビで探し、国道三二二号線上にある現地近くに着いた。山際の道路で何もない。農家のおばさんに尋ねると「右鋭角に曲がると、それらしき細道があるよ」と言う。
 神社前に車を留め、暫らく歩くと、朽ち欠けた、落下した看板に猪膝建設と書いてある。更に進むと、新しく作られた広場がある。事前にネットで調べた「中村一族の会」が立てたという宿場図の看板がある。六年前に雑木林買い整備し、古い宿場の説明や中村一族の石碑を建てた。説明板に、「大庄屋が「猪膝」から「中村」へ代替わりした」と記載してある。
 その隣には「南構口」の標識と湧き水の井戸もある。確かに、山道を歩いて二十キロ、疲れて喉も渇いた旅人を、無料の井戸水が迎えている。この場面は、他の宿場入り口でも見たことがある。構口を見た私は「ここに幻の商いの宿場が、賑やかに八百メートル存在していたのだ」と想像することが出来た。足を進める毎に、宿場の面影がいまだに残る家並みが、次々と、その雄姿を現してくる。「江戸時代に栄えた宿場の遺構に間違いない」と確信させる風景である。末裔の人々は、今も住み続けられている。しかし、商いの店は消滅し、住処の役目を慎ましく果たしているのである。
 宿場の中程で、お寺に入って行く中年女性がいた。尋ねると「そこのお家が、昔の大庄屋だった中村さんです」と言い、「訪ねてみたらどうですか」と優しく肩を押すように勧める。
 呼び鈴を押すが留守だった。斜め向いに、中村商店がポツンと、通りに一軒だけ商いをしている。今日は日曜で休業。家は土蔵造りで、庭も昔の金持ちの風格がある。時代変遷で、経済が逼迫したのか、補修まで手が回らず、崩れそうなのが寂しい。
 犬を散歩中の老年男性に出会った。宿場の昔話を尋ねると、目を輝かして詳しく幼少時を回顧してくれた。「家の屋号は黒田屋といい、両替業をしていたと伝え聞いています。ほとんど屋号で、お互いを呼び合っていた」。「猪膝という昔からの地名が猪国に変わった。地元に有力者がいなかったため、行政で歴史的宿場地名を切り捨て去られた。残念で仕方がない」と憤る。「大庄屋は中村さんで、藩主が来た時だけ滞在し、通る立派な御成門を持っている。藩主か泊まった家柄です」と誉める。
「最近、土地に住んだこともないNM産業という会社が、家紋が同じとかで、中村一族と言って、猪膝宿場の宣伝をしている。縁もゆかりもない人で、地元の人と混同されそうで、地の人は困惑している」と胸の内を語る。
 猪膝宿は、歴史の匂いが残っている町並である。もっと田川市が、積極的に歴史的遺跡を保存する心が必要である。補助がなければ、人々は離散し、村が消えてしまうだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み