第9話 小さな木の実 2

文字数 2,889文字

 困った私は行動を起こした。久々に訪れた三沢邸。亜紀さんは驚きもしなかった。亜紀さんはなんでもお見通しだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。それなのに……
 三沢君がいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢君の家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつもはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
 動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
 睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。
 私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……三沢君は会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢君は?」
「失恋した」
「男に?」
 懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、治に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ治を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」

 中学3年の夏、三沢君を捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
 三沢君は、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢君が名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」
 思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
 感情の失禁。私はおかしい。三沢君は私を抱き寄せた。憐んで。
「いい匂いだ。ミサワのシャンプー。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと治に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
 三沢氏が義父になる……
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない?」
「怖いよ。知ってるだろ?」
「違う。母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
 亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」

 町内会の子供会。私は彼と覗きにいった。大きな公園で模擬店、三沢氏はカレーをよそっていた。三沢氏がごはんを、あの子がカレーをかける。私に気づくと三沢氏は会員ではない私と彼にもカレーをよそってくれた。彼は少女を見てショックを受けていた。写真を見せられていた私も……町内の人たちは大人も子供も少女に好意的だった。少女は活発でクイズにも答えて景品をもらった。最後に三沢氏と少女は歌を歌った。歌詞カードが配られ子供たちはともに合唱した。きれいなメロディ、きれいな高音の声と魅力的な低音、ああ、この低音は三沢君とそっくりだ。
 歌は過去を蘇らせる。私は鮮明に思い出した。この歌は小学校6年のときに音楽会で歌った。三沢君は伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。三沢君は初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢君は妹も生まれたが寂しかっただろう。治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった。そんなことを父親は知らないのだろう。

小さな木の実
作詞 海野洋司
作曲 G.ビゼー

ちいさな手のひらに ひとつ
古ぼけた木の実 にぎりしめ
ちいさなあしあとが ひとつ
草原の中を 馳けてゆく
パパとふたりで 拾った
大切な木の実 にぎりしめ
ことしまた 秋の丘を
少年はひとり 馳けてゆく

ちいさな心に いつでも
しあわせな秋は あふれてる
風と 良く晴れた空と
あたたかい パパの思い出と
坊や 強く生きるんだ
広いこの世界 お前のもの
ことしまた 秋がくると
木の実はささやく パパの言葉


 三沢氏と少女の歌に大人たちは感動した。歌詞に感動した。歌詞の少年は、坊やはあの少女のことだと皆が思った。三沢氏は少女のパパなのだ。

 三沢氏が私のところへ来た。少女は遊んでいる。仲間に囲まれて。
「家に来たそうだね。英幸に会った……」
「三沢君が聞いたらショックを受けるわ。小さな木の実。少年は、坊やは三沢君のことよ。この歌は父と息子の絆を歌ってるの。知らないでしょ? 三沢君はこの歌を歌いながら泣いていた。母に捨てられ、父親の愛を欲しがっていた。三沢君は言ってた。僕にパパはいないって。パパは彩のパパだって。私の父に懐いてたわ。三沢君、かわいそうな三沢君……」
 私は泣き出した。私の感情はどうなっているのだろう?
「ありがとう。そんなに息子のことを思ってくれて」
「三沢君が伴奏したのに音楽会にも来ないで、運動会にも1度も来なかった……」
「他人の子供会に出てる。カレー売ってる。ひどい父親だと思うよ。英幸は許さない。許さなくていい……」
「……あなたが好きです」
「いきなり、何を言うか」
「ほんとですね。あなたも三沢君も好き」
「困った娘だな。彼が見てるよ」
「迷ってるの。プロポーズされた。どうすればいい?」
「1度失敗した男に聞くな」
「亜紀さんに言うんでしょ? 香に告白されたって。亜紀さんはモテるパパで喜ぶかしら? 亜紀さんは、最高ね。亜紀さんは……」
「最愛の女だ」
「三沢君は幸せです。亜紀さんがおかあさんで」

 
 
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