第1話

文字数 3,183文字

 「お疲れさまでした」
 仕事が一段落したタイミングで時間を確認すると、もう定時の時間を過ぎていた。まだ帰っていない社員たちはいるが、ここで空気を呼んでも仕方がない。俺はそそくさと退勤した。一日みっちり働いた分の疲労感で体が重い。もう若くはない体の節々が悲鳴を上げている。特に腰が痛い。冬の寒さは体を蝕むようだ。ため息をつきながら、エレベータで地下に向かった。
 駐車場。そこで車に乗り込んだ。エンジンをつけるとかミラーの調整とか、そういうのよりも先に、まず俺はタバコに火をつけた。深く息を吐き出す。それこそ、タバコの煙以外の何かも出ていくかのように。疲れた自分を偽ろうともせず、吐息なのか細い声なのか、自分でもよく分からない何かを口から吐き出しながら、首を回す。
 しばらく車で一人になりたかったが、ここで油を売っても仕方がない。俺は親父に、意味がないと知りつつも一言連絡を入れ、車を走らせた。
 平凡なサラリーマンになりもう数十年経つ。人生百年時代と言われているが、もし仮に俺が100歳まで生きられるとすれば、今は丁度折り返し地点だ。もう相当長いこと生きたような気がする。もう五十年生きなければならないのかと思うと、気が滅入る。長生きなんてしたくない。そんな思春期的なことを思えるほど若くはないし、気が付いたら長く生きてしまったが、しかし、生にしがみついていたくはないというのが俺の本音だ。願わくば、脳の血管が切れる、みたいにぽっくり死にたいものだ。特に、今の親父を見ているとそう思う。
 車を走らせること数十分。目的地に着いた。都内の一等地にそびえたつ白を基調とした外装の豪華な一軒家。俺の生涯年収をもってしてもこの家を建てることが出来るだろうか、それくらいの家だが、その実、俺の親父の家なのだ。家に入る前にスマホを確認した。やはり親父からの返信は来ていないし、俺のメッセージに既読すらついていなかった。合鍵を使って中に入る。明るい外装とは裏腹に、中には明かりがついておらず、真っ暗な闇が続いている。しかしその廊下の突き当りのリビングから、微かに明かりが漏れている。
 「来たぞー」
 そう言いながらリビングに入ると、親父がカーペットの上で寝転がっていた。いや、それは寝転がっているというよりも、倒れていると表現する方が正しいと思われるような姿だった。
 「おお、きたかあ」
 弱々しく返事が返ってくる。最初は何を言っているのか全く分からないくらい、くぐもった弱々しい声だったが、最近では俺の耳が慣れて来たのか、少し分かるようになった。全く嬉しいことではないが、一々聞き返す手間が省けるだけその方がましではあるだろう。
 俺が部屋に入ってきても、親父は一切その場から動かない。いや、動けないのだ。
 恐らく今日一日、ほとんどここから、いや、この体制から動くことなく過ごしていたことだろう。こんな状態で俺に返信などできるはずもない。寝たきりではないのが不幸中の幸いなのかもしれないが、いっそそうなってくれた方が楽であるようにも思える。
 死んでいるように、という比喩が、まるで比喩ではないかのような親父を前に、俺は淡々とやることを進める。まず親父のおむつを替えてやらなければならない。こんな状態で、一々トイレなど行けるはずもないのだ。在りし日は、きっと俺が親父におむつを替えてもらっていたことだろう。数十年経って、その立場が逆転するとは思ってもいなかった。ズボンを脱がした時の、不愉快な悪臭に顔を顰めながら、てきぱきとやることを済ませる。その後は料理だ。夕食を作ってやり、親父に食べさせる。食事が済めばゴミをかたずけ、家の外に出す。当初は風呂にも入れていたが、今ではそこまで面倒見てられないので、週に一回、俺が休みの日にしか風呂に入れていない。今日は入れなくてもいい日だ。
 文字にすれば簡単なことだが、実際にこれをこなすのは相当な体力がいる。時間もかかる。仕事よりも疲れる。特に親父の体を起こしてやるのは相当体に負担がくる。俺だって、別に十全の体というわけではないのだ。そんな体で痩せこけているとはいえ大きい親父の体を持ち上げるのは、容易ではない。
 ごみを出し、親父に一言「じゃあ帰るから」と告げ、家を出た。親父は「おお」と呻き声を漏らすだけだった。
 お礼すらないのかよ、とは思うが、小さいことに気を立てても仕方がない。俺は妻に連絡を入れ、再び車を走らせた。
 真っ直ぐ帰路につく。車を運転するのさえ億劫だ。とはいえ帰らなければならない。
 今日も疲れた。
 仕事もそうだが、やはり親父のことが俺に疲労感を与える。
 親父はパーキンソン病だった。そう診断されたのは二年くらい前のことだろうか。母さん、親父からすれば自分の妻を亡くし、明らかに元気がなかったので病院に連れて行ったところそう診断された。親父は、入院を勧めてもかたくなにそれを拒否した。多分、自分の財産が気がかり、或いはまだ自分は元気だという自尊心があるのだろう。実際最初はなんともなかった。普段通り、と言えば嘘になるが、しかしパーキンソン病と診断された時に色々と思考を巡った嫌な想像よりも、親父は元気だった。けれど、当然と言うべきか、親父の体は日に日に悪くなっていった。特にこの数か月で、見違えるように死に近づいたように見える。
 けれど親父は、やはり頑なに入院を拒否した。そうなると、俺が世話をしなければならなくなる。俺だって自分の生活がある。仕事もあるし、家族もある。俺としてはさっさと入院してほしいが、当の本人がその気ではないのだからどうしようもない。医者も医者で、患者の意思を尊重して云々と口上を並べて説得しようとしない。たしかに患者の意思は大切だ。じゃあ、俺の意思はなかったことにされてもいいのだろうか。そんなはずがない。
 最近は喧嘩がちになり、ストレスばかりが溜まっていく。
 どうしようもない日々だ。
 信号待ちをしている時、ふと、妻から返信が来ていることに気が付いた。その内容までは確認する時間がなかったが、それに気づけただけで自分の表情が少し弛緩したように思えた。
 自宅に帰った。親父の家と比較すると貧相に思えるが、何年ものローンを組んで買った我が家だ。家の中に入ると当たり前のように明かりがついていた。
 「おかえりー」
 リビングの方から妻の声がする。
 「ただいま」
 リビングに入ると、妻はこたつに入りながらテレビを見ていた。
 「ご飯温めるよ」
 そう言って、妻は台所に向かった。
 「ありがとう」
 俺は服を着替えて、こたつに入った。ぼんやりとテレビを眺める。テレビからは音楽番組が流されていた。それだけで俺は、若干顔を顰めてしまう。けれど、妻が見ていたのなら態々チャンネルを変えるほどではないか、と思い、自分のスマホに視線を向けた。
 妻が夕食を運んできた。
 「お父さんどんな感じ?」
 「どうしようもないなあ、あれは」
 吐き捨てるように俺入った。一応、それでもいただきますと小声で手を合わせ、夕食にありつく。妻はそんな俺を見ながら、苦笑いしていた。
 音楽番組に視線を向ける。俺は音楽があまり好きではない。こんなものを見ても、何も面白くない。じゃあどんな番組ならすき好んでみるのかと言われれば、それも分からない。ため息が口をついた。
 すると、その番組で、一人の女性歌手が視界からインタビューを受けていた。その歌手は、もう大御所の域に達している有名なアーティストで、俺にも見覚えがあった。
 嫌と言うほどには、見覚えがあった。
 その顔を見た瞬間、俺は咄嗟にチャンネルを変えていた。テレビには、一変してバラエティー番組が流れている。ふと、妻の表情を見ると、妻はバツが悪いといった感じの顔をしていた。
 俺はテレビから、視線を逸らした。
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