文字数 3,593文字

 やっとの思いで冥界の森を抜けることができた。森の切れ間を見たとき、わたしはどんな風に喜んでいたのかな。集中力がちょっと切れて大きな声で喜んだところまでは覚えてるけど……そこから先の記憶はなぜか吹っ飛んでいた。でもまぁ、無事に森を抜けることができたから良しとしますか。ハデスがいると言われている城までは、あとは道なりに進んでいけばいいだけ……のはずなんだけど、その道中に変な人たちに絡まれないといいなぁ……。わたしは陰鬱な気分になりつつも、あともう少しだと自分を奮い立たせ、ハデスの居城へ向けて歩き出した。大丈夫……だよね。

 つい数分前。わたしは自分に向けて大丈夫だよねと言い聞かせた。ほんとに数分前。それがこうも見事に打ち砕かれようとは……。なんでかって? そりゃあもう……目の前には疲れ切った表情で書類の山とにらめっこをしている女性がいるんだもん。目の下にクマをつくってて、もう何日も眠っていないようだった。そんな目で睨まれたら……きっとわたしは足がすくんで動けなくなってしまいそうな迫力があった。でも、ここを通らないとハデスという人物に会うことができない……。
 森の終わりから城までの道のりは驚くほどなにもなく、むしろ警戒をしてて損をしたくらい。このままならすんなり会えるかもなんて思って、鼻歌交じりに城へ入ってどこからともなく女性の声がするから立ち寄ってみたら……この光景だったってわけ。
「はぁ……もう、これも不十分。これも不十分。はぁ……この仕事いつ終わるの……?」
 大きな溜息に込められていたのは、絶望というものなのかもしれない。特にこの女性が吐く溜息は今まで聞いたものが可愛く聞こえるくらいに禍々しかった。女性が書類を見て溜息を吐きながらトレーへ、また一枚取って溜息を吐いてはトレーへを繰り返している。どうやら書類に不備があり、その不備が積もり積もって山が形成されているようだった。デスクの左側の山がなくなったかと思えば、反対側の右側には立派な山が形成されている。また新しい書類の山を左側に置いて目を通して溜息を吐いていく……。それを延々を繰り返していく度に女性の背後からなにか黒いものが見えた気がしたけど……気のせいよね。
「もう……ここを直してって言ったのになんで直ってないのよ……もう……いたたたたた」
 女性は急にお腹を抱えながら悲鳴をあげた。もう見てられない。わたしは苦しんでる女性の介助をするため、恐怖心を捨てて近寄った。えっと、カバンの中になにか役に立つものはないかな……。
「あなたは……誰ですか? いたたたたた……あぁ……また薬を飲まなくては……」
 女性はデスクの引き出しから大きな瓶に入った薬を取り出し、ざらざらと適当数を掌に取り出してから一気に口に含んだ。わたしは未開封の水を手渡すと、女性はこくこくと頷きながら薬を流し込んだ。
「はぁ……助かりました。さっき、水を飲み終えてしまったのを忘れてました。ところで……」
 一息ついた女性にわたしは名前を名乗ると、その女性はさっきまでの険しいからふっと柔らかい笑顔を浮かべた。
「助かりました。私はオルプネーと申します。ここで書類の整理をしていました……はぁ」
 書類という言葉を口にした途端、オルプネーと名乗った女性の顔には暗雲が立ち込め始めた。やってもやっても終わらない書類の整理……確かにこれはお腹がきりきりしそうね。こんな辛そうな状況をなんとかできないかとかんがえたわたしは、オルプネーさんに勇気を振り絞って提案をしてみた。何か手伝えることはないか……と。
 すると、オルプネーさんは驚き首を横に振りながら目に涙を浮かべ泣き始めた。え、わたし何か言っちゃいけないこと言っちゃったの?? 気を悪くしたと思いわたしは何度も謝ると、オルプネーさんは今度は首を横に振り、涙を拭いながら口を開いた。
「ううん。ここにきて、誰かに手伝ってもらったことなかったから……嬉しくて」
 それでも止まらない涙を拭いながら、わたしを見るオルプネーさんは本当に困っているというのが目に見えていた。少しでもオルプネーさんの役に立つなら……。
「そうしたら……お願いしてもいいかしら? この書類全部にサインをもらってきてほしいの。もらってきて欲しい人物の名前はこの書類の右上にあるわ。それと、この冥界は入り組んでるから……これと、これを持っていって」
 オルプネーさんはデスクの引き出しから、城内が描かれた地図とぼんやりと発光する球体を取り出し、わたしの掌にそっとのせた。
「もし、道に迷ったらその球体をかざせば地図に書かれている赤い丸のところへ瞬間移動できるわ。たぶん、わたしの予想が外れていなければその書類の主はその近辺にいると思うから」
 わたしはうんと頷き、地図を広げて目当ての人物がいるであろう場所に向かった。その背後、また苦しそうな声を出しているオルプネーさん……。少しでもその苦しみが和らげることができるよう、頑張らなきゃ!


 オルプネーさんのいる部屋を出てしばらく、書類作成主がいるであろう場所の近くまで来ていた。ふと何かの気配に顔を上げて辺りを見回した。けど、その気配はわたしが顔を上げたのと同時にどこかに消えてしまい、感じることができなかった。おかしいな……確かにさっき、何かを感じたんだけどな……おかしいなと思いながら再び地図に視点を落とそうとしたとき、わたしは城内の内装に驚いた。
 等間隔に置かれたろうそく、そしてその間にいる不気味な鳥のような彫像。きれいに並んでいるかと思えば、今度は誰が描いたかわからない化け物の絵画が飾られていたり、しおれた花が生けられていたりとどういう趣味なのかがわかってしまうようなものばかりだった。迂闊に触らないよう、城内の散策に戻ると少しだけ開いた扉から暖色系の光が漏れているのに気が付いた。位置も印付近と重なり、わたしは音を立てないようにゆっくりと扉を開けた。中では体を丸めながら気持ちよさそうに寝息を立てている犬耳の少女と、乱雑に置かれた本、ぱちぱちと音を出しながら部屋を暖めている暖炉があった。扉から漏れていたのは暖炉の光だったのかと納得したわたしは、足音を立てないように犬耳の少女に近付いた。すーすーと規則正しい寝息と嬉しそうに緩んだ口元から、きっと幸せな夢を見ているんだろうなと思い、わたしは暖炉の近くにあったシーツを犬耳の少女にそっとかけた。むにゅむにゅと口を動かしながら、寝言を言う姿にわたしは起こすかを迷ったけど、ここは意を決し犬耳の少女に手を伸ばしたとききいという音と共に扉が開かれ誰かが入ってきた。
「ガルム~。お茶にしましょ~。あら、どなたさまかしら~?」
 非常にゆったりとした口調で、わたしに質問をする少女。わたしは臆せずに経緯を説明すると、その少女はにこっと笑いながら頷いた。
「あぁ~。あの書類ですねぇ~。じゃあ、起こしますね~。そ~れぇ~~」
 勢いのない蹴りでガルムの体を揺らすと、目を擦りながらむくりと起き上がった。やがて何か食べ物の匂いを感じたのか、ガルムは急にしゃきっとした様子で立つとどこだどこだと探し始めた。その様子にわたしが驚いていると、ゆったりとした口調の少女は「いつものことです~」と言い、抱えたお菓子やお茶をテーブルの上にどさりと置くとガルムを呼びつけた。
「ガルム~。お茶にしましょ~。今日はもう一人一緒だから、きっと楽しいわよ~」
「あ、モルモー! わーい! お茶にしよー! って、あれ? お姉さん誰?」
 はしゃぐガルムの横で、わたしは簡単に経緯を話すとガルムはああと言いながら手を叩いた。書類を見せると完全に思い出したといわんばかりの顔になり、オルプネーさんにお願いされた箇所を指さしながら書類の不備を訂正していった。
「おっし! これで完璧だ!! まさかオルプネーさんからのお使いだったなんて……ごめんねぇ」
 わたしは首を横に振り、これは自分から進んでやったことだからと伝えるとガルムは涙を流しながらわたしの手をぎゅっと握った。
「うぅぅう……いい子だねぇ……いい子だねぇ……オルプネーさんを支えてあげてね……うぅ」
「でぇも~、ガルムがしっかりすればいいお話なのよね~」
「あう……それを言われると痛いものが……」
 しばらく二人と話をしたあと、切りのいいところでわたしはまだお使いの途中といって書類を抱えて扉に手をかけた。ガルムは名残惜しそうに、モルモーと呼ばれた少女は自分で持ってきたクッキーを食べながらわたしに手を振った。
「お使いが終わったらぁ、一緒にお茶しましょ~ね~」
 わたしも二人に手を振り、暖炉のある部屋を後にした。これで、オルプネーさんのお使いの一つをクリア。次の依頼内容を確認し、わたしは地図を広げながら次の依頼人のもとへと小走りで向かった。
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