第7章 無明の闇

エピソード文字数 13,100文字



 六月も初旬に入るとそろそろ雨季が終わる。夏至の祭りドルメテも近づいていた。
 ドルメテの発祥は定かではないが、高温乾季の雨乞いがもとになっているのは確かとされている。東から月の女神シリンデと雨の竜クホーンを迎え、豊穣を願う。そんな趣旨の祭りだ。
 毎年、斎宮院の斎司長が月の女神の役を担い、神和師九人がクホーンを演じる。月の女神は王宮から、クホーンは斎宮院を出発して街を練り歩き、ピスカージェンの中央広場で出会い、舞うことになっていた。
「それは賑やかですよ。お練り行列は国中から見物に来ますし、芝居小屋もあちこちに建つんです。楽師もたくさん集まります。」
 新しくルシャデール付きの侍女となったソニヤが言った。
 噂通り、メヴリダは先週アビュー家を辞めていた。代わりに来たソニヤは四十近いが、これまでにも貴族やお金持ちの子供の乳母をしてきた女だった。
「ずっといてほしいと言われたんですが、若旦那様の赤ちゃんまでお世話をするのは、この年になるとちょっと荷が重いですからね。」
 来た翌日、彼女はルシャデールにそう話した。
 赤ん坊は走り回って屋敷の外へ出たり、癇癪(かんしゃく)おこして壺を投げることはしないがな、とカズックが後でつぶやいていた
「御寮様はお祭りを見にいかれるんですか?」ソニヤはルシャデールを夜着に着替えさせながらたずねた。
「ううん、興味ない」
 まあ、と、ソニヤは、ちょっと驚いたようだ。たいていの子供は祭りが好きだからだ。
 もちろん、ルシャデールだってピスカージェンに来て初めての祭りだ。心ひかれないわけではないが、他に気がかりなことがあった。
「御前様のお許しがあれば、私でよければご一緒しますが」
「いや、いいよ。おまえたち召使は行くのかい?」
 私たちはお屋敷の仕事がありますから、とソニヤは言い置いて、でも、と続けた。
「仕事がひけてからは、ケシェクスに行ったり、街の方へ飲みに行ったりするのではないでしょうか。今までいたお屋敷ではそうでしたわ」
「ケシェクスって?」
「ドルメテの五日間、あちこちの広場で、夕暮れ頃からダンスがあるんですよ。それがケシェクスです。毎年五月くらいになると、若い人はダンスの相手を探すのに大変な騒ぎなんですよ」
 フェルガナの社会は若い男女の交際には厳しい。娘の父親の許可が必要だし、交際できても二人きりで会うなどできない。会う時は必ずもう一人、乳母や弟などがついてくる。服の上からであっても、体に触れるなど言語道断。
 だが、ケシェクスだけは例外だった。自由にダンスの相手を選んでいい。門限もなし。
 そのためか、ピスカージェンでは秋ごろに結婚する男女が多い。たいていは、祭りの後、娘がみごもっていることに気づいた親が、あわてて結婚させる、というケースだ。
「他に御用はございませんか?」
「うん」
 彼女は最後にろうそくを消すと下がっていった。
 残ったルシャデールはアニスのことを考えていた。この前ドルメンで決行の日や必要な道具のことを相談してから一週間が過ぎている。
 マルメ茸とヌマアサガオの煎じ汁さえうまく効けば、アニスのユフェリ行きはうまくいくだろう。心配することはない。
 気がかりというのは、ここ何日かアニスの様子が微妙に変わってきたように感じることだ。表面的には目立った変化はない。顔を合わせれば、にこっと笑ってくれるし、話すそぶりもこれまでと同じだ。だが、彼の方から漂ってくるのは不安、怯え、後ろめたさ、そんな暗い感情だ。
(ユフェリ行きが不安、という程度ならいいけど)
 ルシャデールは寝返りを打った。


 ドルメンには土瓶や楕円(だえん)形の携帯こんろのラペム、燃料にする炭団が持ち込まれていた。これらはみんなアニスが用意した。土瓶やラペムは、使っていない道具をしまいこんでいる倉にあったのを借用してきた。倉の正面扉は鍵がかかっていたから、高窓によじのぼって侵入したという。炭団は薪小屋にあったのを失敬した。
「こそ泥の修行をしているみたいだね」
 ルシャデールに言われてアニスは困ったような顔で応えた。
 遠くから植え込みを刈っている音が聞こえる。フェルガナの六月は暑い。ドルメンの中は幾分涼しいとはいえ、カズックは身を扇ぐように太いしっぽを動かしていた。
「決行するのは祭りの三日目にしよう。朝食の後ぐらいからカズックが煎じ始める。昼過ぎは私が見に来るよ。夕食の時にはいったん屋敷の中に戻らなきゃならないから、またカズックが一人で見張る。夜、八時頃には煎じ終わるんじゃないかな。」
「十分だ。ただ一つ問題がある」カズックが言った。
「何?」
「おれの飯は? あたるのか?」
「私が入る時に、厨房の方へ行けば何かもらえるだろ」
「ちゃんと交代に来るんだろうな?」カズックは念を押す。
「もちろんだよ。何疑ってるのさ」
 カズックなら二、三日ご飯をもらえなくても大丈夫そうだけど。女の人たちにすり寄ったりして、自分で調達できそうだ。アニスは二人の様子を笑みを浮かべて見ていた。それからふっと、シャムに言われたことを思い出して顔が陰った。

 昨夜、寝る前にシャムが部屋に来たのだ。彼の話によると、アニスとルシャデールのことは『ちょっとした噂』になっているようだ。大方はほほえましく見守っているが、批判的な目を向けている者もいるという。筆頭はもちろんクランだ。
「あいつは次の侍従の座を狙ってるって噂だぞ」
「そうみたいだね」
「何かされたのか?」
 ううん、と、アニスは否定した。この間、クランに脅されたことは、シャムにも知られたくなかった。
「あいつ根性悪いから、そのうち何されるかわかんねえぞ。気をつけろよ」
 それに、御寮様と遊ぶんなら、さぼっていると思われないようにしろ。シャムはそうつけ加えた。アニスがルシャデールとこっそり何かやっていることが、使用人の中にも広まっているようだ。
 
「どうしたの、考え込んで?」黙り込んだアニスにルシャデールはたずねた。最近、アニスは黙り込むことが多い。「何か心配?」
「いえ……どうしてこんなに、よくしてくれるんですか?」
「え?」
「僕なんかのために。御寮様はこのお屋敷のお嬢様で、全然身分が違うのに、心配してくれた上に、向こうの世界に連れて行って下さるなんて」
「別に心配なんかしてないよ。うーん、そう、暇だからかな」
ルシャデールは笑ったが、アニスの真摯な瞳に捕らえられ、黙った。彼女のように世間ずれもしていなければ、ひねこびてもいない。アニスの星空のような純粋さは、柔らかくふわりと彼女を負かす。
 最初から持たなかった子と、途中で失った子。アニスならわかってくれるような気がしていた。何を? 答えはない。胸をかきむしられるような焦り、痛み、苛立ち。でも、それをうまく言葉にできない。
「優しいですね、御寮様は。」
 初めて言われた言葉だった。だが、かえって心が波立つ。
「かわいそうだから」ぶすっとした不機嫌な顔でルシャデールは答えた。「親なしっ子で、身寄りもなくて。ビエンディクとかに怒られたりしながら、一日中コマネズミみたいに働いて、疲れ果てて、きっと夜はぼろきれみたいに眠るんだろう? 雨が降っても雨宿りするところすらなく、道路の端で寝てたら蹴飛ばされて。畑から盗んできた泥だらけのジャガイモをそのままかじって、ろくでもないガキと石を投げられて……」
 途中から自分の話になっていた。
 アニスもそれに気がついたようだ。哀しげに彼女を見つめた。
「御寮様」
 アニスはルシャデールの手を取った。気がつかぬうちにきつくにぎりしめていた手をゆっくりと少年はほどいていき、両手に挟んでぽんぽんと軽くまじないのように叩く。それだけのことなのに、不思議と少女の心は()いでいく。
「ごめんなさい、つらいこと思い出させて」
 別に彼が思い出させたわけではない。しかし、謝罪の言葉を受け取ることで、苛立ちをアニスが吸い取ってくれたような気がした。彼の手は暖かかった。
「もし、ユフェリへ行くのがうまくいかなくても、僕はいいと思っています。もちろん、父さんたちには会いたいけど、それより、こんな風に親切にしてくれたのがとても嬉しいから」
 そう言ってアニスはまだ仕事があるからと、屋敷の方へ駆けていった。
「けなげで素直な坊やだ」
「嫌味かい」
「つくづく可愛くない奴だな」カズックはつぶやいてドルメンから出て行った。
  
 その夜、アニスの部屋にふらりとカズックが入ってきた。屋根裏の窓から外を見ていたアニスは振り返り、笑みを浮かべた。
「カズック」
「なんだ、風流に星見か」
「お祈りしていた」
「何をだ? 父さん母さんに会えるようにか?」
「御寮様が幸せになりますように、って」
「……あいつは不幸に見えるか?」
「うん……真っ暗な夜の海をひとりで飛んでいる鵺鳥(ぬえどり)みたいだ。真っ暗な中を休むところもなく、ただ飛んでいくような。」
「でも、おまえの手なら止まりそうだぞ、鵺鳥でもなんでも。狼だって手なずけられないか?」
「狼は無理だよ」
 アニスは笑った。でも、小鳥やリスなどの小動物なら、できそうだ。村にいた頃、よくやっていた。それから彼は言いづらそうに口を開いた
「……僕……バシル親方とか……何人かに言われたんだ。あまり御寮様と親しくするなって。御寮様と僕は身分が違うから」
「親方はおまえがかわいいから、厄介な目にあわせたくないのさ。しかし、ルシャデールの立場で考えてみたらどうだ? おまえがあいつから離れてしまったら?」
「どうってことないよ、きっと。カズックだっているし、御前様だっている。それにソニヤさんも」
「おれは人間じゃない」カズックはつぶやいた。「だから、いるうちには入らないんだ」
「そうなの?」
「坊や、あいつはしょっちゅう、ユフェリに入っていくが、本来はこのカデリで生きていかなきゃならないんだ。」
「そうだね」
「こっちの世界で、いろんな人間と交わりながら、成長していかなきゃならない。なのに、あいつはそれを拒んでいる。使用人連中はもちろん、親父であるトリスタンにも、よそに家族がいることを知ってからは、閉ざしてしまった。おまえが今、一番あいつの近くにいるんだ。あいつを一人ぼっちにしてもいいのか?」
「それは……嫌だけど」
「大人の言うことは経験に基づいて、理想に近づく最短距離を示しているのさ。ま、世間一般の理想ってやつも、ろくでもないことが多いけどな。考えてみる価値はある。バシルの親爺にはおまえが使用人として分をわきまえているのが、正しいんだろうさ。あの親爺はおまえをかわいがっているからな。おまえにとってはどうだ? どっちが、何が正しい?」
 アニスは考え込んだまま答えなかった。
「せいぜい見捨てないでやってくれ」
カズックはそう言い残してアニスの部屋を出て行った。

   ※      ※       ※

真っ暗な中にいた。
闇の外から声が聞こえる。
むっとする箱の中は覚えがある。
もっとも古い記憶、衣装箱の中

退屈でうたたねしていたら、声で目覚めた
あれは母の声
心配になってそっと手と頭で衣装箱の(ふた)を持ち上げる
知らない男の人が母の首を絞めている

怖くなって(のぞ)くのをやめて、蓋をした。
オマエナンカ、イナケレバイイ
昼間言われた言葉がよみがえる。
オマエノセイデ、アノヒトハカエッテコナイ!
オマエナンカ! オマエナンカ!
ドコカヘイッテシマエ!

「かあさん!」
 ルシャデールは飛び起きた。
 静かで温かな闇の中。アビュー屋敷の自分の部屋にいるのだと、思い出すのに少し時間が必要だった。
 昔から何度も見る夢だった。母さんは私のことなんか振り向いてくれない。餓えて冷えた心だけがいつも残る。両腕で自身を抱くように、腕をさすった。
 黒々とした闇。
 暗く乾いたものが満ちてくる。いっそ何もかもなくなってしまえばいい。私も消えてしまえばいい。
 人は死ぬことはない。苦しかろうと、楽しかろうと、魂は想いを抱いたまま、生き続けるのだ。永遠に。
 永遠。恐ろしい言葉だった。終わることのない苦しみを意味しているような。
 ルシャデールは恐怖に支配されまいと、すべてを追い出していく。トリスタンもアニスもカズックも母さんも。胸に虚無が広がる。
 暗い感情が高ぶってくる。何もかも嫌いだ。母さんもトリスタンもソニヤも、みんな私のことなんか考えてくれない。私のことより大切な人や大事なことがある。アニスだって、『庭』に行きたいから笑顔作って私に近づいてくる。そうでなかったら……。
〈そんなことないよ〉
ふいに、穏やかな低い声がする。暖かで、柔らかなものが突然ルシャデールを包んだ。
〈誰?〉
〈アニスは君のことが好きだよ。彼からの贈り物を届けにきたんだ。ほら〉
白い光がはじけて、ミルテの白い花が降る。その一つ一つが「御寮様が幸せになりますように」という祈りでできている。
〈ふふ、ちょっと素敵な贈り物だろう?〉
〈あなたは誰?〉
〈また会おう。『庭』で待っているよ〉
 それは、もう一度ルシャデールを抱きしめるように包み込んで、消えた。
 再び彼女の心が(たか)ぶってくる。しかし、先ほどのような陰鬱なものではない。嬉しいというのでもなく、哀しいというのでもなく。何かが心を揺さぶっている。ひたひたと満たされていく。
 目からあふれるものを、押しとどめようとするかのように、手のひらを目にあてる。
 こんな時は寝てしまった方がいい。ルシャデールは薄い布団をひっかぶり、しばらくの間体を震わせていたが。ゆっくりと穏やかな眠りに誘われていった。

 祭りが近くなり、トリスタンの不在が頻繁になっていた。
 ソニヤがおやつにピランカを出してくれた。ピランカはピスタシオ入りのシロップ漬けのパイだ。とても甘いお菓子だが、ルシャデールは好きだった。
「御前様がちょっとお寂しそうでしたよ」
 ソニヤの言葉にルシャデールは振り向く。
「御寮様がドルメテに行かないのか、聞かれたものですから、あまり興味がないようだと、お伝えしたんですよ。」
 ルシャデールは答えなかった。ソニヤはどういうわけか苦手だった。いつもほがらかで、よく気がつく。礼を失せず、お嬢様扱いはするが、下手なことをしたらぶたれそうな厳しさも内側に持っている。
 もっとも、人を小馬鹿にしたような顔は見せないから、ルシャデールもメヴリダの時のように壺やら鉢やら投げるようなことはしなかった。ただ、話しかけられても、必要に迫られないと答えることはなかったが。
「御前様はもっと御寮様とお話ししたいようですよ。でも、何か聞いてもあまり答えてくれないと、残念がっておられました」
「ふーん……」
 気のない返事だった。
 デナンとの約束で、トリスタンとは一緒に食事をしている。話しかけられても、無視はしていない。といっても、口から出るのは『はい』『いいえ』『わからない』の三語だった。
 この前の悪夢からずっと重い気分が続いている。ソニヤの元気さがひりつくように痛い。
「ごちそうさま」ルシャデールは立ち上がった。「庭を散歩してくる」
「まあ、もうよろしいんですか?」半分残ったピランカの皿を見てソニヤも立ち上がる。「お散歩でしたらご一緒しますよ」
「一人にして」はねつけるように言って、ルシャデールは出て行った。
 後に残ったソニヤは溜息をついて、皿をかたづけた。

 庭に出たからと言って、特にすることもない。
 アニスとはここ一週間以上話していなかった。顔を合わしてはいるが、周囲を見回し、そそくさと姿を消す。
(どうしたんだろう……)
 そのとき、どこからか石がルシャデールの前に飛んできた。そちらを見るとドルメンの木立からアニスが手を振っていた。
「御寮様」小さな声で呼ぶ。
 なんとはなしにあたりを見回しながら、彼女は木立の方へ近づいていく。
「いやにこそこそと動いているじゃないか」つっけんどんな言い方になる。
「その……いろいろあって」
 二人はドルメンへ入って行った。
「最近なんだか無視しているような様子だから、もう向こうへ行くのはやめにするのかと思ったよ」ルシャデールは彼を睨みつけて言った。
「無視しているつもりはないです。ただ、僕は召使の中でも一番下っ端だし、それはちゃんとわきまえておかないと……」
「何、それ? わきまえるって?」
 軽い混乱がルシャデールを襲う。よくわからないが、アニスが自分から離れようとしているのは感じた。
「え……っと、自分の立場をよくわかって、それにふさわしく行動することです」
「言葉の意味なんて聞いてない!」
「え?」
「なんでわきまえなきゃなんないんだ?」
「それは……きっと僕が御寮様が親しくしてくれるのをいいことに、僕がわがままなことを言い出したり、無茶なことをしたりしないよう、みんな心配してくれているんだと思います」
「わがままとか無茶なことって?」
「えっと……仕事さぼったりとか、御寮様にお金出させて高価なものを買うとか……かなあ」他にもまだあるのだが、この年のアニスには考えが及ばない。
「そういうことを、おまえはするわけ?」
「しないと思います」
「ならいいじゃないか。わかっちゃいないんだ、みんな。」
「でも、世の中ってそういうもののように思います」
 アニスに母の顔が重なる。オマエナンカドコカヘイッテシマエ!
「おまえまで……そういうことを言うのか。」
 いつもと違う様子のルシャデールに、アニスは何も言えなくなった。
「おまえまで、私に背を向けていくんだ! もういい!」
 次の瞬間、ルシャデールはドルメンを飛び出して行った。
「御寮様……」
 アニスは彼女の背中を呆然と見送った。

 その日、夕食の時間になってもルシャデールは姿を見せなかった。屋敷は大騒ぎだ。
 ソニヤの話では、昼間、おやつを食べた後、庭を散歩すると言ってそのまま行方がわからないという。敷地内をくまなく探したが見つからず、男たちは、執事とデナンそれに子供のアニスをのぞいて皆、街へ探しに出払っていた。
 責任を感じたのか、ソニヤはひどく参ってしまっているようだ。
「一旦、引き上げて、夜が明けてからまた捜索を出した方がいいのではありませんか?」
 執事がトリスタンに提案した。陽が落ちてから半時以上が経っている。暗い中での捜索は効率が悪い。おまけに雨季のなごりの雨も降りだしていた。
「そうだな。戻った者から休むように言ってくれ。……どこかで雨宿りしているといいが……」トリスタンは侍従の方を向き、「カームニルへでも帰るつもりだろうか?」
「帰りたくなるほど、あの街に愛着があったようには思えませんが」

 夕食の後、アニスは自室へ戻っていた。
(最後に御寮様と会ったのはソニヤさんではなく僕だ。御寮様はきっと僕が言ったことに傷ついて出て行ったんだ。ソニヤさん……執事さんたちに責められたんだろうか。御寮様のおそばにちゃんとついていないから、とか)
 ソニヤはデナンが引き抜いてきた侍女だ。だから、執事は気に入らないだろうと、噂好きな洗濯女たちは話していた。
(僕は……卑怯者だ。最後に御寮様と会ったのは僕だって言うべきだったのに。言わなかった。ここを追い出されたくなかったから)

 五日ほど前のことだ。アニスは執事ナランの部屋に呼ばれた。そこにはビエンディクも待っていた。そして、ナランに問い詰められたのだ。
『最近、御寮様とよく遊んでいるらしいね。仕事をさぼって』
 えっ? と驚くアニスに、いつもは温厚な顔を崩さないナランは厳しい目を向ける。
『しかも、人のいない物置で何やらごそごそやっていたというじゃないか』
 土瓶を探していた時のことだろう。誰かに見られたのかもしれない。
『厨房からパストーレンを盗み食いしたとも聞いたよ』
 施療所に忍び込む時、カズックにやったパストーレンのことだ。しかし、それは厨房のドレフィルに頼んでもらったのだ。それは違います! と、抗議したが、聞き入れてはくれなかった。
『パストーレンは犬にやるようなものではない。あんな高価なものを厨房の誰が犬になどくれてやろうとするものか。嘘をつくのもいいかげんにしなさい。それに、下男のラタンじいさんが小銭の入った財布が部屋からなくなったと騒いでいる。まさか君のせいじゃなかろうね? まあ、ラタンじいさんは最近、物忘れが多くなったから、どこかに置き忘れたのかもしれないが。パストーレンのことも大目に見てやろう。だが、君のような子を御寮様と遊ばせるわけにはいかない。今後、挨拶以外で御寮様と口をきいてはいけない、いいね。もし、言いつけを破った時はこの屋敷から出て行ってもらう! 話はそれだけだ、行きなさい』
 僕、盗みなんてしていません、そう言いたかったが、薬草を施療所から持ち出した後ろめたさが、それを押しとどめた。ショックでうつむきがちに部屋を下がるアニスの後ろで、ビエンディクが執事に言っているのが聞こえた。
『今までは真面目でよく働く子だと思ってきましたが、こずるく立ち回ってそう思わせてきたってことでしょうかね。親を亡くした可哀そうな子と思って、甘やかしてきたのがよくなかったんでしょう』
 ショックだった。お金まで盗んだと疑われたことが。しかし、ばれてはいないが、薬草を盗ったのは間違いない。
 ルシャデールと口をきいたら、屋敷を出されてしまう。だから、ドルメンに行く時もこそこそとした態度になってしまった。彼女には、執事に呼び出されたことは話したくなかった。話せば、ルシャデールは執事に怒りをぶつけるだろう。アニスをかばってくれるとわかっているが、彼女の立場がさらに悪くなる。
 それにアニスもお屋敷を辞めたくなかった。

 部屋の戸を叩く音がした。
「デナンさん……どうしたんですか?」
「ナランやビエンディクにも聞かれただろうが、御寮様の行先に心当たりはないか?」
 アニスは首を振った。
「行ってみたいところがあるとか、カームニルに帰りたいといったことは?」
「何も……おっしゃっていません」
 そうか、と彼は出て行こうとして立ち止まった。
「アニサード」デナンは振返り言った。「揺らぐな。周りのことばかり気にすると、真実が見えなくなる。他人のそしりを受けても、自分が正しいと思ったことは信じろ」
 それだけ言ってデナンは立ち去った。
(デナンさんは知ってるのかもしれない。僕がクランに脅されていることや、……もちろん、執事さんに厳しく叱られたことも。正しいと思ったことは信じろ、か。カズックも似たようなこと言っていた。そうだ!)
「カズック!」
 神様なら御寮様の居場所がわかるに違いない。
 
「カズック」
アニスは西廊棟の廊下を小さな声で呼んで歩く。
「呼んだか?」壁から彼は出てきた。
「御寮様を探さなきゃ」
「おまえの部屋で話そう。ここはまずい」
かわいがられている『キツネちゃん』とはいえ、飼い犬ではない。屋内をうろつくわけにはいかなかった。
「帰りたくなったら,帰ってくるさ。あいつは動物の帰巣本能に近い方向感覚を持っている」
 アニスのベッドで気持ちよさそうに寝そべり、カズックはあくびしながら言った。
「そうかもしれないけど、このままだと、御寮様の立場が悪くなる」
カズックはくいっと、顔を巡らせて振り向いた。
「それを心配してくれるか、坊や? 立場なんてあいつにはアリの死骸ほどの価値もないのに」
「御寮様がもうここにいたくないと言うなら別だけど……そうでないなら、気分よく暮らした方がいいよ。そういうことは大事だと思う」
「あいつは無理してアビュー家にいたいとは思ってないぞ。あいつが欲しいものは、おまえが欲しいものと一緒だ」
「何?」
「鈍いな。それじゃ侍従は務まらんぞ」
 アニスは嫌そうな顔をした。最近、時々言われるのだ。嫌がらせに近いからかいのキーワードとしてだが。
「僕なんかに務まるはずないじゃないか」
「まあいい、とにかく行ってみよう。あいつが何て言うか知らないが。北だな。丘陵地帯だ」
 カズックは起き上がった。

 ピスカージェンの北方に広がる丘陵地帯には、人家はほとんどない。羊や馬を放牧させる時の牧人の小屋がたまにあるが、夜は無人だ。雨降りの今夜は真っ暗闇だ。
 アニスは後ろを振返った。アビュー屋敷やその先のピスカージェンの街の灯りが、雨でおぼろに浮き上がっている。先の方へ様子を見に行ったままカズックは戻らない。
 ランタンを掲げてみるが、照らすのは彼の周囲だけで、その先には全き闇が広がる。カズックの姿はもちろん見えない。ろう引きのマントは強い雨に、あまり用をなさず、ただ重いだけだ。
「カズック」
 応えがない。少し遠くまで行ったのだろうか。
 暗闇にぎゅっと締め付けられるようだ。心細い。握りしめた両手を胸に当て、動くこともできなかった。背後から、何かが迫ってくるような気がする。何か恐ろしいもの。けむくじゃらの化け物とかじゃない。
 その時、闇からカズックが姿を現した。アニスはほっと息をつく。
「もう少し向こうだな」
 どっちの向こうだかわからないが、アニスは犬についていく。
「ねえ、カズック」
「何だ?」
「闇の中って、どうして怖いんだろう」
「素に戻るからじゃないか?」
「す?」
「闇の中ってのは、自分しかないんだ。他に誰かいても、何かあっても見えない。見えないってことは、ないことと同じになる。自分を作っていたあらゆるものが取り払われていくんだ。名前、生まれ、職業、身分、友人、知人、性別、年齢、好きなこと、嫌いなこと。身を守ってくれたものもなくなって、残るのはちっぽけな自分だ。だから、たいがいの人間は素の自分となんか向き合いたくないのさ。そうだろう?丸裸なんだ。しかも、丸裸になった時に、心の奥底にがっちりと封じ込めておいたものが噴き出してくる」
「御寮様もそうなのかな? 不安になっているんだろうか?」
「あいつは違うな。あいつは闇の中でこそ自分を感じている。あいつは他の人間と仲よくつきあうなんてこと、してこなかった。実の母親にさえ、振り向いてもらえなかったからな。だから、素のままだ。そのことに不安も何も感じない。むしろ、今のように大勢の人の中にいる方が孤独を感じて、混乱しているかもしれないな。自分の今の立場で、どうすれば周囲や社会に認めてもらえるかなんて、あいつには理解の範囲を超えているだろうよ」
 ばさっと、音がしてカズックは止まった。アニスが転んだのだ。ランタンの灯りが消えた。
「大丈夫か?」
「うん、何かにつまづいた。うわあ!」
「どうした?」
 アニスが答える前に呻き声がした。
「痛い。どけて……。」
 ルシャデールだった。
 カズックはひと吠えして灯りを宙に浮かべる。青い鬼火はゆるゆらと漂い、のろのろと体を起こすアニスと、その下敷きになって顔をゆがめるルシャデールをほのかに映し出した。
「この不良娘、屋敷中が大騒ぎだぞ」
「トリスタンは?」
 ようやく体を起こしたが、ルシャデールは立とうとはしなかった。全身ずぶ濡れだ。顔色も青い。
「お屋敷に戻っています」アニスが答えた。「帰りましょう、御寮様」
 深く息をつき、彼女は濡れて額に張りついた髪をかきあげる。何かここにはないものを見ているような虚ろな目をしていた。
「風邪をひきます」
 ルシャデールは答えない。
「みんな心配しています」
 ルシャデールは乾いた笑みを浮かべる。
「はは……。『アビュー家の御寮様』だからね」
 ただのルシャデールだったら、誰も雨の中探したりしない。彼女はそう言っているのだ。アニスの脳裏に、暗い海を飛ぶ鵺鳥の姿がよぎる。
「あなたが御寮様でなくても、こんな雨の中にいるとわかってたら、誰だって心配します」
「一時の同情や哀れみならいらない。身過ぎ世過ぎのうわべだけの心配も」
 きっと、さっきのことを言っているんだ。『わきまえる、わきまえない』の話だ。アニスはどう答えていいものか、考え込んだ。ドルメンでのことを。
「御寮様……」
 先ほどの自分の態度にルシャデールが傷ついたのはわかるが、だからと言ってどうすればいいか、アニスにはわからない。
「頻伽鳥が来た夜に、御寮様は僕に何をしてほしいかと、たずねたけど、御寮様はどうだったんです? 何が欲しかったんですか?」
「……誰かの一番になりたかった。アビュー家の養女だからじゃなく、ユフェレンだからでもなく。誰かにおまえが一番大切だって言って欲しかった」
(父さんや母さんは、きっと僕を一番と思ってくれてるだろう。御寮様のお母さんはきっと違ったんだ。一番にはしてくれなかった……。御前様は?)
 アニスはユジュルクの家で見た女性と子供を思い出す。
(先着順なら向こうかな?)
「僕……一緒に探してあげることならできるかもしれません。御寮様を世界で一番好きだって言ってくれる人を。それじゃだめですか?」
 ルシャデールはけだるそうにアニスを見つめていたが、
「わかった」と一言答えた。
 アニスは手を差し出した。
「帰りましょう」
 ルシャデールはその手をつかもうと手を伸ばしかけ、横に倒れた。
「……起きれない」 
 熱が出ているようだった。
「坊や、おまえおぶってやれ。俺が負わせてやるからしゃがめ」
 アニスはカズックの言うとおりにした。犬の前足で、どうやったのかわからないが、彼はルシャデールをうまくアニスの背中に負わせた。
 ルシャデールは思ったより軽かった。下り坂で足がとられ、三、四回ほど前のめりになって転んでしまったが、ケガはなかった。
 屋敷の門の近くまで来て、カズックが二人に言った。
「さ、ここからは俺は手助けできない。がんばれよ」
 えええー! 心の中でうめくアニスだったが、溜息一つついて、覚悟を決めて進んだ。心の中のもう一人のアニスがそれを制し、背中を押した。さらに門の中へ入って行くと、二人を見た門番が驚き慌てて屋敷の中へ連れて行った。
 熱があるルシャデールはすぐに部屋へ連れて行かれた。残ったアニスは、執事と家事頭に不審な目を向けられ、すくむ思いだった。彼もびしょ濡れということもあり、解放されたが、明日、執事の部屋に呼ばれることとなった。
 
「やれやれ」
 自分の部屋にもどったアニスは溜息をついた。
「一緒に探すって言ってしまったけど、実際にどうすればいいんだろう……」
 でも、海に落ちそうな鵺鳥に手を差し伸べずにはいられなかった。それが、彼女の嫌がる同情や哀れみだとしても。
「それだけでも上出来だ」
 いつの間にかカズックがいた。
「うん」濡れた服を着替えながら、アニスはうなずいた。
「おまえも冷えたろう。一緒に寝てやるよ」
 一緒に雨の中を歩いたはずなのに、彼の体毛は日向ぼっこでもしていたかのように、ふかふかに乾いている。
「お日様の匂いだ」
「蹴飛ばすなよ」
 犬の体温で暖められ、アニスは風邪をひかずにすみそうだった。
「ねえ、カズック……」
「何だ? さっさと寝ろ」
「御寮様は寂しくないのかな?」
「おまえと同じだ」
「カズックは寂しくない? 御寮様や僕や知っている人が死んでしまっても? だって、たとえ僕らが生まれ変わるとしても、その時にはカズックのこと覚えていないんだよ」
「あのな……」
 低く深みある声音だった。カズックが普段はあまり見せない『神』の一面だ。
「覚えてないとしても、それは表面的なものだ」
「そうなの?」
「心のずっと奥深いところでは、覚えている。俺はその部分と会話することができるから、少しも寂しいことはない。誰でも、心の奥ではすべての魂とつながっている。孤独とかいうのは、単なる思い込みだぞ。くだらんこと言ってないで、寝ろ!」

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