崩れていくもの 3

文字数 2,455文字

 訓練場に入った瞬間ふわり、と感じた微かな香りに溜め息をつきたくなった。
 サフを狙っているらしい者達はどうやらクレイの情報通り多数いる模様で、しかもだんだん手段に容赦が無くなって来ているのは気のせいではない。
 今日の相手は下級生であり、殆ど面識がない相手である。戦士学校では卒業間際になると、どんな相手から訓練を誘われても断ってはいけないという古くからの不文律が存在していたから、その日も彼女は相手から指定された時間にやって来たのだ。
 だが、この分だと訓練は無いかもしれないと思う。
「来てくれてありがとうございます、サフ先輩」
 にやにやと卑しく笑っている下級生は、いっそ溜め息をついて憐憫を感じてしまう程に戦士の誇りはなさそうだった。つまり、手段は選びそうに無い。そしてたった今は自分の行為が間違いなく成功していると考えているのだろう。
 とりあえず部屋の中に入ったものの、一気にやる気を失った彼女は腕組みをして後輩を睨みつける。
 入った瞬間感じた匂いは、今では気に触る程強くなっている。ちらりと周囲を見回して、原因であるだろう香炉が部屋の隅にひっそり置かれているのを確認した。
 勿論、普段の練習場ではそんな物は無い。
「いや、いいよ。直ぐ帰るし」
「そんな事いわないで、じっくり相手して下さいよ」
 匂いが強過ぎて気持ち悪い。
「こんなつまらない事されてなければ、普通に相手してあげるんだけどね」
「何を」
「知らないと思うから教えてあげるけどね、僕は薬とか毒は殆ど効かないんだよ。普通に手に入れられる程度の物なんて言うまでもなく、ね」
 それはサフ自身何時もは忘れている事であったが、こういう時ははっきりと認識する。
 元から効かない訳ではない。生まれ育った場所の特殊な状況によりどうしても慣れざるを得なく、結果的に身につける事になってしまったものだ。幼い頃に少しずつ様々な毒や薬に慣らされてきた体は、今更多少のそれに動じる事は無い。
 たとえそれが媚薬であっても、だ。
 指摘した瞬間に、相手の顔は真っ青になった。
「とりあえず、校則は知ってるんだよね、君」
 戦士学校の校則では、生徒間で訓練以上に害を与える事は当然禁止されている。罰則は厳しく、判明すれば退学は免れない。
 この香の効果が普通に出たのならばその程度は幾らでも誤摩化せるのだろうと考えていたのだろうが、効かなかったときの事は全く考慮外だったらしい様子に、益々情けなくなりサフは溜め息をついた。

 訓練だけでは無い。
 食事の時間なども気が抜けなくなってきている。
 全寮制の戦士学校では、大食堂で食事をとる事も可能であるし、前もって申請しておけば自室に食事を持ち帰る事も可能である。また各学年の首位にのみ与えられる個室では、小さな調理台が備わっている為自分で作る事も出来る。
 サフはこれまでその他多くの生徒と同様に食堂で食事をとってきたのだが、本日隙を見られ薬を盛られる事態に遭遇し、今後は自室で作るようにしようと心に決めた。
 薬の有効時間に合わせてか、食事終了後に襲ってきた数人を廊下で叩きのめした後に自分の部屋に戻ったサフは、扉を閉めて鍵をしてようやく安堵した。
 気を抜いた瞬間にどくり、と全身の血液が逆流するような感覚に襲われて座り込む。
(これ、かなり強い薬、みたいだ)
 耐性のある体は効果の出る時間を遅らせたものの、効果を打ち消す事が出来ない程度には強い薬であったらしい。感じる悪寒とは逆に、体の心からゆっくりと全身に広がっていく熱に、全く犯されていない理性は恐怖する。
 そういう目的だから、なのだろう。媚薬の一種であるらしい。
 口にして直ぐ気づいたから全てをのんだ訳ではない筈なのに変化の起こる体は、何も気づいていなければ一体どうなっていたのだろうと思わせるには十分だった。
 とりあえず水を、と思い顔を上げた所で、見計らったかのように姿を現した少年の姿にサフは八つ当たりとわかっていつつ恨みたくなった。間が悪すぎる。
 現れたアミルは座り込んでいる彼女を見つけると、ひょいっと屈んで顔を覗き込んだ。すぐに紫の目が驚いたように見開かれる。
「サフ、どうした? 顔が赤いけど、風邪?」
「違う。薬のまされた」
「はぁぁっ!?」
 隠してもしょうがないので素直に告げれば、悲鳴のような声を上げる。
「おい大丈夫なのかっ?」
「薬、強いから。でも、これちょっと強かったみたい、で」
 動悸のせいで、曖昧でもどうにか会話が出来るが、息が乱れてしまう。ぞくぞくと全身に広がった熱と悪寒に、涙すら出そうになる。潤んだ視界でアミルを見上げれば、さっと少年の頬が染まった。少しだけ身じろぎした彼は、おろおろと視線を彷徨わせた後で立ち上がる。
「と、とりあえず水でも飲むか?」
「うん」
 室内に備え付けられた調理台に水を取りに行く後ろ姿を、眺める。
 体の熱が消えない。しばらくは消えなさそうだ。
 戻ってきたアミルが片膝をついて、心配そうな顔をしてコップの水を差し出してくる。受け取る時に触れた指先が冷たくて、心地良さそうだと思ってしまった。もしかしたら頭の中まで薬が回ってきているかもしれないとサフは舌打ちをしたくなる。
「ほら水。どういう薬飲まされたんだよ」
「多分、媚薬」
「びっ」
 自分を落ち着かせる為にも、水を一気に飲み干した。
 喉を下っていく冷たい感触に、少しだけ意識がハッキリする。
「変な事されて」
「されてたら、僕、今頃、ここに、いないよ」
 薬の効きが遅かったから、首謀者達を叩きのめして部屋に戻れたのだと説明すれば、目の前に彼女と同じように座って深々と長い溜め息をついた後、アミルが泣きそうな顔をした。その直後にすぐ笑顔になる。
「良かった」
 しみじみと呟かれた言葉が、心の中にすとんと落ちてくる。
 その日、薬の効果が切れるまでアミルは何も言わずに傍に居た。
 薬の効果が体と心を蝕むから、本当は傍に居て欲しく無かった。けれどサフは拒絶の言葉を忘れたまま、薬が切れるまでただ膝を抱えて座っていた。
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