天国と地獄

文字数 5,667文字

「パパの言っていた格言は当たっていたと思う……」由希子(ゆきこ)は幸せそうな表情でつぶやいた。「人間万事塞翁(さいおう)が馬――か……」

 由希子のこれまでの人生には、いくつも試練があり、彼女なりに懸命に頑張ってきた。その中には、上手く乗り越えることができたこともあれば、努力空しく挫折したり失敗したりしたことも多かった。
 由希子は就職活動では苦労をし、希望する十社ほどからは、「残念ながら当社とはご縁がありませんでしたが、頑張ってください」という連絡を受けた。
――きっと自分に合った会社が他にあるに違いない。
 由希子はそう考えて必死に就職活動を続けた。
「おめでとうございます。内定です」
 ようやく内定を受けた会社は、当初は全く考えていなかった会社であった。
「ありがとうございます」由希子は素直に喜んだ。
――この会社で働いていれば、きっと良いことがあるはず。
 由希子は新たな気持ちで会社生活を始める決意をした。
 入社して配属された部署は、由希子の希望とは異なる目立たない地味な職場であった。
――頑張ろう。きっと自分に合った仕事に違いない。
 由希子は、やる気に満ちていた。
 働き始めて半年後。
「何やってるんだ!」由希子の上司は怒鳴った。「こんな間違いをするなんて、気が緩んでいるんじゃないのか?」
「申し訳ありません」由希子は自分の非を認めて素直に謝った。
 上司と共に取引先に謝罪に行った由希子は頭を深く下げた。「ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした」
「いえ、これくらい問題ないですよ」取引相手の若い担当者の男性は笑顔で言った。「引き続きよろしくお願いします」
 由希子は頭を上げて、改めて相手の男性の顔を見た。
――素敵な男性……。
 由希子は思わずその男の顔を見つめた。
「今度、食事でもしましょうか」その男性が由希子に声をかけた。
「はい、ありがとうございます」
 こうして、由希子と茂(しげる)の付き合いが始まった。

 由希子は、今、天国のような幸せの絶頂にいる。
「海の見えるホテルも素敵だけど、この宮殿のような会場も魅力的だわ。茂さんはどう思う?」由希子は、茂と二人で結婚披露宴の会場選びをしている。
「僕はどちらも良いと思うから、好きな方を選んでいいよ」茂は優しく答えた。
「迷うなあ……もう少し他の所も探してみてもいい?」
「もちろんだよ。納得のいく最高の会場を探そう」
「ありがとう!」由希子は茂の腕に甘えるようにしがみついた。
「今日はレストランで食事をして帰ろうか?」
「賛成!」

「ここの料理はとっても美味しいわね。私もこんな料理を作れるように、これから頑張ろうと思っているの」由希子は、二人が行きつけのレストランで食事を楽しみながら、笑顔で茂に言った。
「そう……」茂は少し苦しそうな表情だ。
「大丈夫? 顔色が少し悪いみたいだけど?」
「ああ……」茂はそう言うとうつむいた。
「気分が悪いようなら、もう帰りましょうか」由希子は心配そうな表情で茂を見た。
「うん……」茂はそう言って顔を上げた。そして、そのまま意識を失い倒れた。
「大丈夫?」由希子は茂に駆け寄った。
 しかし、茂は動かない。
「誰か!」由希子は助けを求めて大声で叫んだ。

 茂は病院に運ばれて精密検査を受けた結果、不治の病にかかっていることが分かった。そして、余命は半年だと医者から宣告された。
「あなたを愛している。絶対に治ると信じているわ」由希子は病室のベッドの上に横たわる茂の手を優しく握りながら言った。
「僕も君を愛している。こんな病気には絶対に負けない」茂も由希子の手を握り返しながら答えた。
 由希子は、二人の愛の力で最悪の事態は回避できると信じていた。

 三か月後。
「残念ながら病状は深刻です。余命は三か月ほどだと思います」医者は二人に向かって淡々と告げた。
「そうですか……」茂はやせ衰えており、弱々しく言った。
 由希子は涙を流し、茂の手を力なく握りながら、何も言うことができなかった。

 由希子はその夜、自宅の部屋に一人で帰って泣き叫んだ。
「どうしてこんなことに! 誰か助けて!」由希子の声は、静かな部屋の中に響いた。
 彼女の悲痛な叫びに誰も答える者はいない――はずだった。しかし、低い男の声が聞こえた。
「何が望みだ?」
 由希子が驚いて振り返ると、黒装束の老人が立っていた。
「あなたは誰?」由希子は恐怖の表情でその老人を見た。
「わしは悪魔だ。望みがあるならどんなことでも叶えてやろう」悪魔は冷たい目を由希子に向けながら言った。
 由希子は、悪魔と名乗る老人の異様な姿に身震いをした。「誰か助けて!」由希子は叫んで、部屋から駆け出そうとした。しかし、部屋のドアが開かない。
「お前を殺そうとしているわけではない」悪魔は静かに由希子に声をかけた。「そんなに怯えることはない」
「あなたは何故ここにいるの? 私に何の用なの?」由希子は恐怖の表情のまま悪魔に尋ねた。
「お前には悲劇が訪れようとしているのだろう? それを避けたいのだろう?」悪魔はゆっくりと言った。「お前の望みを言ってみろ」
 由希子の頭の中にさきほど見たばかりの茂の衰弱しやつれた顔が浮かんだ。
「私の婚約者の命を助けてください!」由希子は悪魔を見て言った。「とても大切な人です。私の命に代えてでも!」
 由希子がそう叫ぶと、悪魔は無表情で答えた。
「よかろう。お前の命はいらぬ。その男の命を救う代償は、その男の愛だ。そういう取引でどうだ?」
「どういうことですか?」
「お前の婚約者は病から回復するが、その時、その男のお前への愛は消えている。そういうことだ」
「そんな! ひどい!」
「お前の婚約者が命を失うのか、お前がその男の愛を失うのか、どちらでも好きな方を選ぶことができる」悪魔は薄笑いを浮かべている。「放っておけばあと三か月であの男は死ぬ。お前がわしと取引すれば、あの男の命は助かる。さあ、どうするかな?」
 悪魔は不気味な笑顔を浮かべている。
 由希子はしばらく考えてから言った。
「彼の命を救ってください!」
「分かった。これで取引は成立だ」
 そう言うと悪魔は姿を消した――。

 由希子は、その後も茂の回復を毎日祈り続けた。
 そして、茂が病から回復した後には幸せな暮らしがやって来る、と信じていた。
――人間万事塞翁が馬……きっと、想像もしていなかった幸せがやって来るはず……。

 三か月後。
 茂は病から完全に回復し、元気な体に戻っていた。
「こんな奇跡的な回復は、今までに例がありません」
 医者は驚いて言った。
――私の祈りが神様に届いたのね。本当に良かった。
 由希子は心の中でそう喜び、悪魔との取引のことなどすっかり忘れていた。
 医者が部屋を出て二人きりになった時、茂は突然真剣な表情になり由希子に言った。
「生死の境をさまよう経験をして、考えが変わってしまった……」茂はそう言うとうつむいた。
「どうしたの?」由希子は不安な表情で茂に尋ねた。
 茂はしばらくうつむいたまま沈黙していたが、意を決したように顔を上げ、由希子を見た。
「婚約は解消してくれないか」
「どうして?」由希子は驚いて叫んだ。
「余命三か月と宣告された後、絶望の淵にいた僕のことを必死に世話をしてくれた看護師がいる。その女性と結婚したい」茂はうなるような低い声で言った。
「何ですって! そんなのあんまりだわ!」
「僕の命を救ってくれた女性を、今は君以上に愛している」
「私は毎日、あなたの回復を祈り続けてきたのよ!」
「それは知らなかった……そのことは感謝する。でも、その看護師は毎日僕に寄り添って献身的に看護をしてくれた」茂は由希子の目を避けるようにそっぽを向いている。
 由希子は、茂の冷たい横顔をじっと見ているうちに、涙が流れてきた。
「悪魔と取引なんてしなければよかった……」由希子は小さな声でつぶやいた。
「悪魔だって? 変なことを言わないでくれ」茂は気味悪そうに由希子を見た。「気分が悪くなってきた。悪いけれど、もう帰ってくれないか」
 由希子はあまりのことに頭が混乱し、何も言えずに病院を立ち去った。

 由希子は自分の部屋に戻って、ベッドの上に倒れている。
――悪魔と取引したのが間違いだった……。
 由希子は絶望していた。
 しかし、取り返しはつかない。
――私の献身的な愛を裏切るなんて、彼のことは絶対に許せない……。
 由希子は悪魔に対する怒りよりも、茂に対する恨みが日に日に募っていった。
 由希子は、何日もふさぎ込み、そして、徐々に弱っていった。
――もう死にたい……あの男を恨んでやる……呪ってやる……。
 由希子の心の中には、希望というものは一かけらも残っていなかった。
――最後に不幸がやって来るなんて……ひどい……ひどすぎる……。

 ある夜、由希子は港の岸壁に立っていた。
「あの男が死ぬまで呪ってやる!」
 由希子はそう叫ぶと、海に飛び込んだ――。


 由希子が意識を取り戻すと、目の前に鬼が立っていた。
「一緒について来い」鬼は由希子に向かって言った。
「どこへ行くのですか?」
「ついてくれば分かる」そう言うと鬼は歩き出し、由希子は鬼の後をついていった。
「閻魔様――」
 鬼は地獄の門前に着くと、閻魔に深く一礼をし、隣にいる由希子を横目で見てから言った。「この女は悪魔と取引をしたという罪で地獄行きとなっています」
 閻魔は、由希子の顔をじっと見た後、手に持った閻魔帳を調べた。
「確かに、チンピラの悪魔と取引をしたという罪を犯している……」閻魔帳を見ていた閻魔は顔を上げ、鬼に向かって言った。「だが、この女は、不治の病の男の命を救った。それを勘案すると、地獄行きには当たらない。天国へ連れていけ」
「はっ、承知しました」鬼は再び閻魔に深く頭を下げた。

「一緒について来い」鬼は由希子に向かって言った。
「どこへ行くのですか?」
「ついてくれば分かる」そう言うと鬼は歩き出し、由希子は鬼の後をついていった。
 鬼は由希子を連れて長い長い階段を上り、天国の門に着いた。
「この女を天国で引き取ってください。閻魔様からの伝言です」鬼は天国の門番に言った。
「この女は、ある男を深く恨んだ末、呪ってやる――と叫びながら命を絶っている。そのような者は天国へ入場はできない」門番は事務的な口調で答えた。
「そうですか……」鬼はやれやれといった表情で、隣に立っている由希子を見た。

 鬼は、天国の門から少し離れた場所へ由希子を連れて行き、立ち止まってから由希子に言った。
「もっと酷い罪を犯して地獄行きの条件を満たすか、それができないなら、恨みや呪いを捨てて天国行きを選ぶか、どちらかにしてもらうしかない」鬼はそう言うと、近くの扉を指差して言った。「あの扉から出て行ってくれ」
 由希子が鬼に促されて扉の側に歩いていき、その扉を開けて中に入ると、由希子は気を失った――。


「大丈夫ですか?」
 由希子は見知らぬ男の声で意識を取り戻した。
「ここはどこですか?」ベッドの上で横たわったまま、由希子は弱々しい声で尋ねた。
「海難救助本部の中です」若い男の救助隊員が、心配そうな表情で言った。「あなたが海で溺れていたところを、近くを通りかかった漁船が救助したのです」
「そうでしたか……」由希子は男の顔をじっと見ると、イケメンで優しそうな顔つきであることに気付いた。
「とりあえず意識が戻って良かった」救助隊員の男は笑顔で言った。
「はい……」由希子は男の顔に見とれている。
「それにしても、あなたのような若い素敵な女性の命が助かって良かった。少し休んだら、事情を聞かせてください」
 男はそう言うと部屋を出て行った。

 一人で部屋に残された由希子はベッドに腰かけながら、先ほど鬼に言われた言葉を思い出していた。
――もっと酷い罪を犯すなんて、私には絶対にできない……それに、地獄なんか絶対に嫌。でも、あの男への恨みを捨てるのも簡単なことではないわ……。
 由希子は目をつぶりうつむいたまま考え続けた。
――それに、今すぐに天国に行きたいわけでもない……。
 一度命を失いかけたせいか、由希子は冷静になって考え始めた。

 一時間後。
 若い救助隊員の男が再び部屋に入ってきた。
「どうして海に落ちたのですか?」男は手にメモ帳を持ちながら、真面目な表情で由希子に尋ねた。
「考えごとをしていて、うっかり足をすべらしてしまったんです」由希子は、事実とは異なることを笑顔を作りながら答えた。「私って、ちょっとそそっかしいところがあるんです」
「考えごとですか……何か悩んでいることがあるのですか?」
「いえ、悩みなんて何もありません。私は明るくて楽観的な性格なんです」由希子は、イケメンの救助隊員の顔をじっと見つめながら、にっこりとほほ笑んだ。
「そうですか。じゃあ、この書類に記載して、サインをしてもらえますか」男は、由希子に書類を手渡して、再び部屋を出て行こうとした。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」由希子は、腰かけたベッドから少し身を乗り出すようにして、男に声をかけた。
「何でしょうか?」
「海難救助のお仕事がどういうものなのか、知りたいのですけど……」
「そうですか。この仕事に興味をもっているのですか?」
「はい。お忙しいとは思いますが、少しだけお時間をいただけませんか?」
「はい、少しだけなら」
「ありがとうございます!」由希子は満面の笑みを浮かべながら、男を見つめた。
――よし、やり直そう!
 由希子は心の中で気合を入れた。
「どんなことを知りたいですか?」男は、近くにあった椅子を引き寄せて、由希子が腰かけているベッドの側に座った。
「とても危険なお仕事だと思うのですが、どうしてこの仕事をやろうと思ったのですか? とても勇敢な方なんだなあと尊敬してしまいます」由希子は、可愛い笑顔を作りながら、さらに身を乗り出して言った。
「それはですね……」男は、褒められて嬉しそうな表情で話し始めた。
 男の話をうなずきながら聞いている由希子の心の中には、いつのまにか一片の希望が生まれ始めていた。

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