四 喪失
文字数 3,211文字
静香は、温室栽培の仏花を寝室の小さな仏壇に活け、茶碗の水を新しくし、線香に火をつけて手を合わせた。哲史が突然、虚血性心不全で逝ってから一年が過ぎていた。墓は未だない。仏壇の横には、哲史の写真と骨壺が置いてある。
自分の母親からも、哲史の実家の親戚からも、一周忌までには納骨しなければいけないと言われていた。しかし、農家の次男坊で東京で所帯を持った哲史の遺骨を、実家の墓に入れるわけにもいかず、自分がこのままこの地に居続けるかどうかも決めかねているし、大阪で働いている長男の翔太がいつ東京に戻ってくるのかもわからず、墓をまだ用意できないでいた。
翔太は、いずれ自分たちも入るのだから、あまり遠くない東京の公共墓地が良いと言うのだが、抽選に応募するには東京に五年以上住んでいることと、埋葬されていない遺骨を持っていることが必要で、民間の墓地を買うかあるいは公共墓地に当選するまで遺骨を持ち続ける必要がある。お寺に預ける方法もあるが、今さらお寺の檀家になる気はしなかった。
でも親戚に何と言われようが、静香はそれで構わないと思っていた。以前は死というものは忌み嫌うもので、遺骨なんか気味が悪くて一緒に暮らせるなんて考えもしなかった。しかし、それが哲史の遺骨だと考えると、遺骨がそこにある方が哲史を近くに感じることができて、かえって良いとさえ思えた。
一年前のあの日、静香は新宿で買い物でもして帰るつもりだったが、久しぶりの旅行や同窓生との集まりで疲れたこともあり、病気の泰輔と再会するという目的を果たしたこともあり、朝食を食べてすぐに上野駅から新幹線に乗って帰ってきたのだった。何度か哲史にメールで連絡したが、返事はなかった。哲史には夕方に帰ると言っていたので、どこかに出かけてしまってスマホを見ていないのかもしれないと思った。ローカル線に乗り換え、駅に到着する時間が近づいても連絡はつかず、迎えに来てもらえないのは本当に不便だなと思いながら、しょうがなくタクシーで帰ってきたのだった。
家の横のカーポートにフォレスタが停めてあるのを見て「あれっ?」と不審を抱いた。家のドアの鍵をカチャカチャと取り出した時には、ドアの内側でモモがニャーニャー泣いているのが聞こえた。静香が帰ってきたのを察知してごはんを催促するときの鳴き方だ。「朝ごはん、ちゃんとあげなかったのかしら」と思いながら玄関に入り、「ただいま」と奥に声をかけたが返事はない。
モモに連れられるようにして居間に足を踏み入れた時に、静香の心臓は一瞬で凍り付いた。哲史がソファの前に倒れているのが見えたのだが、それは昼寝をしているような姿ではなかった。その一瞬の間に、頭の中では「何これ!病気?動く?病院?救急車?死んでる?」と様々な想念が同時にフラッシュしたが、恐ろしい予感に足がすくみ、声を出すこともできなかった。ようやくの思いで近づき、のぞき込み、声をかけ、震える手で揺さぶったが、それはもはや冷たく、硬く、生きているものの反応ではなかった。冷水を浴びせられたような底なしの絶望に気を失いそうになりながら、必死に自分を励まして救急車を呼ぶのがやっとだった。
田舎の風習が良くわからない静香に代わって、葬式の準備は哲史の兄の浩一郎が取り仕切ってくれた。何しろ静香は、動転しているさなかに警察の事情聴取があり、哲史の健康状態や、当夜に留守にしていた経緯から東京のホテル名までこと細かに聞かれ、ただでさえ倒れそうな心身に追い打ちの打撃を受けていた。
何もできず、何もわからず、ばたばたと周囲がことを進めていくのに翻弄されながら、人気のなくなった夜中にようやく一人でしみじみと泣き明かした。死ぬ前に手を握ることも声をかけることもできなかったことがあまりにも悲しく、布団の上で冷たくなっている哲史にそっと触れ、自分の額を哲史の額に擦り寄せ、そして哲史の亡骸の横で寝た。
翌日には翔太が大阪から駆けつけ、叔父の浩一郎と一緒にあちらこちらへの連絡や葬式の準備をこなし、通夜の前にはオーストラリアから美穂が駆けつけてきてもっぱら静香の世話をしてくれたので、静香はなんとか倒れずにいることができた。子供たちがこんなに頼もしく見えたことはなく、いつの間にか大人になっていたんだなと、少しだけ安らいだ。
この地方では、まず火葬が行われ、その後に告別式となる。火葬炉の前で棺の小窓を開け最後のお別れというとき、静香には哲史がまだそこに眠っているだけのような気がしてうろたえた。野辺送りの読経を聞いている間も、「火葬はまだやめて」と叫びたくなる衝動を、いやそんなことができるはずはないと目を閉じて無理に抑え込んだ。
ストレッチャーから棺が火葬炉に滑り込み、点火されてもまだ未練が残った。ほかの人達は愛する人が焼かれてしまっても平気なのかしら、それとも私がおかしいのかしらと思いながら、うろうろと何回も炉前の祭壇に行き、線香をあげて手を合わせた。
火葬が終わりお骨上げとなった。静香も数年前に父親を亡くし、お骨上げは経験していた。そのときには、係員の指示に従いながら骨上台の上から骨箸で骨を一つ一つ拾い上げることで、何か区切りがついた気がしたものだ。火葬の前までは死者とはいえ人間の姿かたちをしていたものが、火葬後は白い骨と灰に変わってしまう。その劇的な変化は、残された者に死者への未練を断ち切らせる効果があるのだと、そのときは思った。
しかし喪主として骨壺を持ち、箸から箸へと骨が渡されていくのを見ていると、これが哲史のものだという実感は湧いてこなかった。じっと作業を見守るだけの静香は、いつのまにか自分自身が乾いた熱い炎に包まれているような気がしてきて、その中で自分も焼かれてしまえばいいとさえ思った。もしかしたらこのときから、心は少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。
午後の告別式になると心の渇きはさらに増し、魂が抜けたように、泣くことさえできなかった。あのときどうして泣けなかったんだろう。父親が死んだときに「悲しいよね、思いっきり泣けばいいよ。その涙でいろんなものが洗われて、人はまた前を向くことができるんだ」と言ってくれた哲史はもういなかった。かつて誰かの葬式で、喪主の女性が立場もわきまえず、人前もはばからず泣きじゃくるのを見て「みっともない」と思ったのに、今はそう思った自分の残酷さに慄 き、そうやって泣けたあの女 がうらやましくさえ思えた。
このあいだの一周忌には、また子供たちが来てくれた。親がかってに自分たちの知らない田舎に家を持ったので、彼らには実家に帰るという感覚はないだろう。むしろ迷惑だったかもしれない。それでも少しにぎやかになった家にいることは、ふさぎ込む自分を忘れることができる時間で、ありがたかった。しかし、翔太が仕事ですぐに大阪に戻り、一週間ほど過ごした美穂が帰ってしまうと、またとらえどころのない、時間が止まっているのか進んでいるのかわからない日々が始まった。自分では気付かなかったが、美穂が帰る前に言っていた。
「お母さん、ため息ばかりついているよ。もっと何か始めるとか、気分転換しないとだめだよ」
愛する人が、目の前から突然消えてしまった。文字通り一夜で消えてしまった。それは単に一人の人が消えたというのではなく、二人の未来もろとも消えてしまったということだった。今自分がここにいる意味も、これから何をしたら良いのかもわからず、何も頭に浮かんでこず、気付くと仏壇の前の畳に座りこみ、暗くなるまでじっとしている自分がいた。そんな時、知らず知らずにため息をついていたのだろう。その巨大な虚無にいっそ死んでしまった方が良いと思うことも一度ならずあった。そんな静香を、時に寄り添い、時に丸い眼を見開きじっと見つめてくれるモモの存在だけが、静香の心の支えだった。
自分の母親からも、哲史の実家の親戚からも、一周忌までには納骨しなければいけないと言われていた。しかし、農家の次男坊で東京で所帯を持った哲史の遺骨を、実家の墓に入れるわけにもいかず、自分がこのままこの地に居続けるかどうかも決めかねているし、大阪で働いている長男の翔太がいつ東京に戻ってくるのかもわからず、墓をまだ用意できないでいた。
翔太は、いずれ自分たちも入るのだから、あまり遠くない東京の公共墓地が良いと言うのだが、抽選に応募するには東京に五年以上住んでいることと、埋葬されていない遺骨を持っていることが必要で、民間の墓地を買うかあるいは公共墓地に当選するまで遺骨を持ち続ける必要がある。お寺に預ける方法もあるが、今さらお寺の檀家になる気はしなかった。
でも親戚に何と言われようが、静香はそれで構わないと思っていた。以前は死というものは忌み嫌うもので、遺骨なんか気味が悪くて一緒に暮らせるなんて考えもしなかった。しかし、それが哲史の遺骨だと考えると、遺骨がそこにある方が哲史を近くに感じることができて、かえって良いとさえ思えた。
一年前のあの日、静香は新宿で買い物でもして帰るつもりだったが、久しぶりの旅行や同窓生との集まりで疲れたこともあり、病気の泰輔と再会するという目的を果たしたこともあり、朝食を食べてすぐに上野駅から新幹線に乗って帰ってきたのだった。何度か哲史にメールで連絡したが、返事はなかった。哲史には夕方に帰ると言っていたので、どこかに出かけてしまってスマホを見ていないのかもしれないと思った。ローカル線に乗り換え、駅に到着する時間が近づいても連絡はつかず、迎えに来てもらえないのは本当に不便だなと思いながら、しょうがなくタクシーで帰ってきたのだった。
家の横のカーポートにフォレスタが停めてあるのを見て「あれっ?」と不審を抱いた。家のドアの鍵をカチャカチャと取り出した時には、ドアの内側でモモがニャーニャー泣いているのが聞こえた。静香が帰ってきたのを察知してごはんを催促するときの鳴き方だ。「朝ごはん、ちゃんとあげなかったのかしら」と思いながら玄関に入り、「ただいま」と奥に声をかけたが返事はない。
モモに連れられるようにして居間に足を踏み入れた時に、静香の心臓は一瞬で凍り付いた。哲史がソファの前に倒れているのが見えたのだが、それは昼寝をしているような姿ではなかった。その一瞬の間に、頭の中では「何これ!病気?動く?病院?救急車?死んでる?」と様々な想念が同時にフラッシュしたが、恐ろしい予感に足がすくみ、声を出すこともできなかった。ようやくの思いで近づき、のぞき込み、声をかけ、震える手で揺さぶったが、それはもはや冷たく、硬く、生きているものの反応ではなかった。冷水を浴びせられたような底なしの絶望に気を失いそうになりながら、必死に自分を励まして救急車を呼ぶのがやっとだった。
田舎の風習が良くわからない静香に代わって、葬式の準備は哲史の兄の浩一郎が取り仕切ってくれた。何しろ静香は、動転しているさなかに警察の事情聴取があり、哲史の健康状態や、当夜に留守にしていた経緯から東京のホテル名までこと細かに聞かれ、ただでさえ倒れそうな心身に追い打ちの打撃を受けていた。
何もできず、何もわからず、ばたばたと周囲がことを進めていくのに翻弄されながら、人気のなくなった夜中にようやく一人でしみじみと泣き明かした。死ぬ前に手を握ることも声をかけることもできなかったことがあまりにも悲しく、布団の上で冷たくなっている哲史にそっと触れ、自分の額を哲史の額に擦り寄せ、そして哲史の亡骸の横で寝た。
翌日には翔太が大阪から駆けつけ、叔父の浩一郎と一緒にあちらこちらへの連絡や葬式の準備をこなし、通夜の前にはオーストラリアから美穂が駆けつけてきてもっぱら静香の世話をしてくれたので、静香はなんとか倒れずにいることができた。子供たちがこんなに頼もしく見えたことはなく、いつの間にか大人になっていたんだなと、少しだけ安らいだ。
この地方では、まず火葬が行われ、その後に告別式となる。火葬炉の前で棺の小窓を開け最後のお別れというとき、静香には哲史がまだそこに眠っているだけのような気がしてうろたえた。野辺送りの読経を聞いている間も、「火葬はまだやめて」と叫びたくなる衝動を、いやそんなことができるはずはないと目を閉じて無理に抑え込んだ。
ストレッチャーから棺が火葬炉に滑り込み、点火されてもまだ未練が残った。ほかの人達は愛する人が焼かれてしまっても平気なのかしら、それとも私がおかしいのかしらと思いながら、うろうろと何回も炉前の祭壇に行き、線香をあげて手を合わせた。
火葬が終わりお骨上げとなった。静香も数年前に父親を亡くし、お骨上げは経験していた。そのときには、係員の指示に従いながら骨上台の上から骨箸で骨を一つ一つ拾い上げることで、何か区切りがついた気がしたものだ。火葬の前までは死者とはいえ人間の姿かたちをしていたものが、火葬後は白い骨と灰に変わってしまう。その劇的な変化は、残された者に死者への未練を断ち切らせる効果があるのだと、そのときは思った。
しかし喪主として骨壺を持ち、箸から箸へと骨が渡されていくのを見ていると、これが哲史のものだという実感は湧いてこなかった。じっと作業を見守るだけの静香は、いつのまにか自分自身が乾いた熱い炎に包まれているような気がしてきて、その中で自分も焼かれてしまえばいいとさえ思った。もしかしたらこのときから、心は少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。
午後の告別式になると心の渇きはさらに増し、魂が抜けたように、泣くことさえできなかった。あのときどうして泣けなかったんだろう。父親が死んだときに「悲しいよね、思いっきり泣けばいいよ。その涙でいろんなものが洗われて、人はまた前を向くことができるんだ」と言ってくれた哲史はもういなかった。かつて誰かの葬式で、喪主の女性が立場もわきまえず、人前もはばからず泣きじゃくるのを見て「みっともない」と思ったのに、今はそう思った自分の残酷さに
このあいだの一周忌には、また子供たちが来てくれた。親がかってに自分たちの知らない田舎に家を持ったので、彼らには実家に帰るという感覚はないだろう。むしろ迷惑だったかもしれない。それでも少しにぎやかになった家にいることは、ふさぎ込む自分を忘れることができる時間で、ありがたかった。しかし、翔太が仕事ですぐに大阪に戻り、一週間ほど過ごした美穂が帰ってしまうと、またとらえどころのない、時間が止まっているのか進んでいるのかわからない日々が始まった。自分では気付かなかったが、美穂が帰る前に言っていた。
「お母さん、ため息ばかりついているよ。もっと何か始めるとか、気分転換しないとだめだよ」
愛する人が、目の前から突然消えてしまった。文字通り一夜で消えてしまった。それは単に一人の人が消えたというのではなく、二人の未来もろとも消えてしまったということだった。今自分がここにいる意味も、これから何をしたら良いのかもわからず、何も頭に浮かんでこず、気付くと仏壇の前の畳に座りこみ、暗くなるまでじっとしている自分がいた。そんな時、知らず知らずにため息をついていたのだろう。その巨大な虚無にいっそ死んでしまった方が良いと思うことも一度ならずあった。そんな静香を、時に寄り添い、時に丸い眼を見開きじっと見つめてくれるモモの存在だけが、静香の心の支えだった。