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文字数 936文字

 山橘と名乗る女性は、朝、私が起きる前にやって来て、夜、日が暮れる頃には帰っていく。
 私はお熊さんや他の長屋の人たちの手前、覚束ないながらも朝の炊事や洗濯、掃除などは自分でやりたかったのだが、山橘さんは「それではいけませぬ」と言って、私にやらせようとしない。確かに山橘さんの方が何をやっても私より上手だし、手際が良いのだが、何かお嬢様扱いされている様で居心地悪いなぁ。
 最近ではお熊さん迄、「あら、おひい様、お出かけですか?」とか挨拶をしてくる。言い返したいのだが、事実何もしてないのだから言い返せない……。
 だが、何もしなくても食事は出来てるし、掃除をしなくても片付いているのは助かる。それに、良く考えると人間世界にいた時は何もしてなかったのだから、こういう暮らしの方が慣れてるっちゃ慣れているよな。

 それにしても、何となく山橘さんって、怖いイメージがあるぜ。
 狸顔なので分かんないけど、時代劇の人間だったら、絶対、眉毛剃って、鉄漿(おはぐろ)付けて、白塗りにしたイメージだもんな。
 それに、これはどうも秘密らしいのだが、喜左衛門様はどこかの若様で、山橘さんは彼の乳母だったらしいんだ。はぁ、もう、面倒なことになったぜ。

 ま、私は今日も散歩に出ていく。
 家に居てもするこたぁ無いし、山橘さんが掃除している時は、私がいても邪魔だろうし、山橘さんが休んでいる時は、黙って二人で座敷に座ったままになるんで、私は息が詰まる気がするんだ。
 それに私自身、少しづつでも狸世界に慣れて行かなきゃいけないと思っている。
 いつまでも人間の心算でいたって仕方がない。顔は狸だし、湯屋にいけば人間の身体だけど、別に一部の奴らみたいに全身狸に戻っても不思議じゃない気もする。
 狸世界なら、私だって誰にも容姿で差別なんかされないし、お金も例のジイサンのお蔭で何不自由なく暮らせている。旦那様って訳じゃないけど、喜左衛門様はお優しいし、狸世界って何も嫌な事ないよなぁ。正直、このまんま私は狸で良いんじゃないかって思うこともある位だ。

 そりゃ狸世界にだって嫌な奴はいるさ。
 ほら、前の方の大店の前で、何か因縁を付けているのが禿狸一家の連中だ。あいつら、狸とは思えない程の無法者で、いつも碌なことしやがらないんだ。
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