第160話 夕食

文字数 1,205文字

 夕食のときには、やっといつもの藍に戻ったようだった。料理を並べた久美が部屋を出て行った後、笑顔で言う。
「一眠りしたら、すっきりしたわ。お腹もすいちゃった」
「僕も」
 翔も、ようやく食事が喉を通らない状態から解放され、久しぶりに空腹を感じていた。久美が作ってくれた料理は、どれも口当たりのよさそうなものばかりで、翔と藍の体調や性格を考慮してくれたのだろう。
 
 サラダにドレッシングをかけながら、藍が基樹に尋ねた。
「久美たちとは、どんな話をしたの?」
 先ほど、翔と藍が部屋に上がった後のことだ。
「まぁ、簡単な報告だよ。俺が話したのは、教祖が二人に会って喜んでいたこととか、俺に対しても優しくて紳士的だったこととか。
 会話の内容については、何も話していない。そういう約束だったし」
 
「そう。でも、あの野本という人はどうかしらね」
「日本支部で、いろいろ報告するかということ?」
「えぇ。あの人、私がいろいろ言い出したことに、ずいぶんあせっていたみたいだし」
「佐渡さんに聞いたところでは、あの人は、まだ若いけど、日本支部の幹部の一人らしい。教祖の信頼も厚くて、今の教団の状態憂いている。だから、あの場にもいたんだろ?
 つまり、基本的には、教祖と同じ考えだということだ。だから、そんなに心配ないんじゃないかな」
 
「それならいいけど。あのときは、今しかないと思って、夢中であれこれ言ったけど、言ってしまってから、自分はとんでもないことをしたんじゃないかと不安になって……」
 それは、翔も同じだった。基樹は言う。
「教祖は、二人のために、どうすればいいか考えるって言っていただろ。あの言葉に嘘はないと思う。
 でも、それは日本支部の協力なしには出来ないことだと思うし、教祖もそのつもりなんじゃないか。
 あくまで俺の考えだけど、そんなに心配しなくても大丈夫なんじゃないかな。どっちにしても、二人が教祖に何を言おうが、それを日本支部にとやかく言われる筋合いじゃないだろ」
 
 
 翔は、二人の会話を聞きながら、そういうものなのかと思う。
 自分はただ、いろいろな出来事に心をかき乱され、動揺するばかりで、いつも物事の本質が見えていない。ずっと日本支部の庇護のもとに暮らしていながら、支部の内情などもよくわかっていないし、今まで、知ろうと思ったことさえなかった。
 基樹のように、一歩離れたところにいるからこそ、客観的に見られるということもあるかもしれないが、それにしても、今まで自分は、いかにぼんやりと過ごして来たのかと呆れる。
 
 教祖は、危険を冒して日本に来て、翔と藍に会った。今、教団も日本支部も、そして翔や藍も、おそらく岐路に立っている。
 この先、どんなことになるかわからないのだから、自分も、もっとしっかりしなくてはいけない。
 そう思う一方で、翔は密かに自嘲する。今まで生きて来た中で、自分がしっかりしていたことなどあっただろうか……。
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