第2話 輪郭の無い壁

文字数 1,413文字

僕は好きな人でマスターベーションできない。真っ暗な日曜日と月曜日の狭間で縮こまって男根を絞りながらサラリーを稼ぐのを待っている奇妙な焦燥のような、這い寄られる恐怖を憶えるのに時間はかからないそういう気持ちが身体の中でふんわりと漂うのを感じずにはいられないのだ。
それは人々の喧騒の上に伸びる大きいのか小さいのか分からない壁となり僕の眼に映る。だから僕は好きな人でマスターベーションできない。


小さい頃から好きな人が沢山できた。殆どの恋が実り、経験を蓄えてきた。
中学で初めてできた彼女とは田舎の田んぼと田んぼの間の小道を手を繋ぎながら永遠とも言える時間歩き続けたし、高校では同じ服を着て同じ耳をつけてディズニーランドのレストランで見つめ合った。プラトニックなラブと言えたと思うし、周りから見てもそのように見えていたと確信していた。大学でも何人か交際を誓った関係になった女性が複数いたし、多くの場合はうまくいっていたように思う。


在学中、僕は水泳部で活動していた。ルーティン的に50mプールを15回程度往復し、うつ伏せにプランクを行い、また水上に身を戻す様にしていた。酷く空気を求めて水中から顔のみ外気に晒し、死に様の惨たらしい恐らく交通事故に遭ったのであろう猫を思い出すかの様に軽率に生に潜む死を感じていた。だから水は好きだった。
偶然授業の終了時間が被る女性がいた。多くの場合一緒に泳ぎ、一緒に帰ることをしていた。
初めから違和感があった。その人とはいつもと勝手が違う関係を築くだろうことを予見していた。


唯一果実を実らせなかった恋だった。僕は薄くて青い競泳水着を纏ったその女性に対して性欲が止まらなかった。
今までは恋人に対して性の欲求を殆ど感じなかった。形式的に儀式的に2回深くお辞儀して2回拍手を打ちまたお辞儀をするように、女性と僕の間の皮のようなものの中で射精してきた。滲む顔を色の籠らない目で見下ろしながら、あくまで手続き的に薄く白濁した精子を出した。出来ればしたくなかった。揚げ物を作った後の菜箸で乳首を摘まれている様な、とにかく嫌だった。
背泳をする彼女は異質だった。空気の様に透き通る水の中を、まるで月夜の元で散歩をしている様に遊泳する彼女を見ていると、腹の下あたりになんとも言われぬ真っ暗に静まるもギラギラとしている何かが沸沸と這い上がってくるのを感じることができた。
僕はプール内では彼女と一言も会話をしなかった。ただ水中で漂う彼女を見ていた。そして溜めていた。だが発散は一切できなかった。それをすれば僕は此れからの部活の継続は難しいとさえ思っていた。なぜかなんの根拠もなくその女性にマスターベーションがバレると思い込んだ。それは硯の様に黒くて形を捉えることのできない壁を作り出すことに他ならなかった。その女性の醸し出す雰囲気なのか、僕の気持ちの問題なのか分からない。ただ一度として、その女性でマスターベーションできなかった。それ以降僕は好きな人でマスターベーションしていない。

僕は思い出の中で彼女の膣の中にペニスを入れて射精することができない。妄想の中で彼女の中に入っていくことができないのだ。目線を現実に戻してすぐに、僕とこの人の間の粒子が変な顔をしてしまうような感覚に陥るから。その顔をコトコト煮込んで、出来た煮込み汁をナーンにつけて喰ってやりたい。そうしてやりたい。笑いながら。
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