投稿者:N氏(仮名)
文字数 4,933文字
「ああ、あれね」
作務衣姿の老人──中埜 氏は頭をボリボリ掻きながら、興味なさげに答えた。
「うちは貸しスタジオやってんだけどよ、地下アイドルっつーのか? そーいうのが使うことが多くてな」
たばこを吹かしながらガニ股で歩く老人に、須間男はついて行く。確かこのあたりは路上喫煙禁止だったような……と思いながらも、須間男にそれを指摘する勇気はない。
そんなふたりのすぐ後ろを、カメラを構えた千美がついてくる。もちろん録画は既に始まっている。カメラは千美の私物で、かなり年季の入った代物だ。
「奇妙なかっこした子ばっかだがな、おじいちゃーんなんてすり寄られたら、そりゃー悪い気はしねえな。そっちのねーちゃんも別嬪さんだろうに、地味ーな格好しちまって、なんだかもったいねーな」
老人にカメラを向けた千美は何も答えなかった。カメラマンという立ち位置をわきまえているようにも見えるが、愛想を返すという発想そのものが抜け落ちているようにも見える。かわりに須間男が老人に「すいませんすいません」と謝った。恐らくこのくだりは綺麗さっぱりカットされるな、と思いながら。
「おー着いた着いた」
老人が指さした先には、五階建てのビルがあった。同じ五階建てでも、須間男の会社が入っているビルよりはやや大きい。
「昔は地下も含めた全フロアにマイコンショップが入ってたんだが、今じゃ貸しスタジオの方が儲かるな」
がっはっは、と老人は剛毅に笑った。須間男は「マイコン」という懐かしい響きに苦笑をこらえつつ、愛想笑いを合わせた。
老人は入り口の施錠を解くと、「入 りな」と手招きで二人を呼んだ。
入り口にはポストの類はなく、小さく古めかしいエレベーターが一基あるだけだった。
エレベーターの上にあるフロアランプは1~5までの数字と、地下を示す「B」の六つが並んでいる。屋上には出ない設計らしい。エレベーターの脇には階段もあるが、人ひとり分の幅しかない。
老人はすたすたと、灯りのついていない階段を下りていく。須間男も慌ててその後に続く。夏の陽光が階段までは届いていないおかげか、弱冷房でもかかっているかのようにひんやりとしていて、須間男の汗が引いた。
「ここがロッカールームだ。更衣室なんて上等なもんはねぇから、まぁただの物置だな。コインを入れたら鍵がかかる、鍵を挿したらコインが戻る。駅のコインロッカーよりはお得だろ?」
言いながら、老人はロッカールームの鍵を開けた。
老人が照明のスイッチを入れると、ロッカールームの全景が照らし出された。
秩序よく並んでいるロッカーは、オフィスの更衣室によくあるタイプだ。ロッカーの前には樹脂製のすのこも敷かれている。ただ老人の言ったとおり、コイン投入口があるのが唯一の違いと言ったところか。それが一列六基、全部で四列並んでいる。
「リース会社が全フロア借りてくれていた頃があってな、その時ここは更衣室だったって訳だ。ロッカーもその時に設置されたんだが、夜逃げしちまってな。ありがたく使わせてもらってる」
ロッカーも、ということは、他にも様々な機器が置き去られていったに違いない。それらの殆どは恐らく、踏み倒された家賃代わりに処分したのだろう。
「でまあ、貸しスタジオにしてからはロッカールームだ。だがな、今の若い連中は堂々としてるっつーか、サバサバしてるっつーか。ここで着替えるねーちゃんたちも多くてな。知らずに入ってきた野郎どもがすごすご退散していくなんてしょっちゅうだ」
そんなエピソードを知っているということは、いくつか相談があったのだろうか。それとも、老人自身がその場に出くわしたことがあったのだろうか。たぶん後者だろうと須間男は思った。
「コスプレっていうのか? あれで撮影会やったりイベントやったりっていうねーちゃん達が多くてな。で、下着だとか衣装だとかを狙ったロッカー荒らしがたびたびあってな。そのたびに警察と鍵屋呼んで、あんなもん設置しなきゃなんなくなった」
老人は天井の角に固定された防犯カメラを指さした。
「更衣室であんなもん取り付けたら、俺が捕まっちまうがな」
がははと老人は笑った。
「ここは更衣室じゃねえし、ちゃんと張り紙もしてある」
次に老人が指さした先には、「着替え厳禁 防犯カメラ作動中」としたためられた張り紙があった。達筆すぎて読みづらいのが難点だ。
「それで減りはしたが、ゼロじゃねえ。あの映像にも映ってたろ?」
「それなんですけど、なんでうちに投稿されたんですか?」
「俺の考えじゃねぇよ。一応不法侵入なんで、警察にマスターテープは押収されたが、コピーを持っててな。変な映像だろ? 顔なじみのねーちゃんとかに見せてたら、その中のひとりが、お前さんらが作ってるDVD(でーぶいでー)か? あれのこと知っててよ、送ってみたらってしつこくてな。まぁ、面白そうだから送ってみたわけだ」
「それはありがとうございます」
老人の話にやたらと女性が絡んでいることに、須間男はある意味感心しつつ礼を述べた。
「いいってことよ。んで、あれが、あのデカブツが変なことやってたロッカーだ」
段取りのよい老人に感謝しつつも、須間男は情けなさを感じていた。
自分の役割はインタビュアーである。インタビュアーは話を聞くだけではなく、話を引き出すことも仕事のうちだ。自分は仕事をちゃんとしていないという情けなさと、自分はちゃんと仕事をしたくないという嫌悪感が、須間男の頭の中でせめぎ合っていた。
しかも今回は台本通りのインタビュアー役ではなく、一般人を相手にした本当のインタビュアーなのだ。
しかし彼は結局、ただ老人の後をついて行く役に準じた。その様子をずっと撮影している千美がどう思っているだろうかとも思ったが、彼女はただ黙ってカメラを回すだけだ。これまで何かを言われたこともなければ、これからも言われることもないだろう。そう思い直した。
案内されたロッカーは、他のものと大して違いはなかった。ただ、表面にへこみ傷が目立つといえば目立つ。扉は修理済みのようで、老人が手をかけると、ロッカーの扉はスムーズに開いた。中には何もなかった。
「警察を呼ばれたと行ってましたが、彼らはどう結論づけたんですか?」
「下着ドロボーが盗んだ下着を返しに来たんだろうとさ。警察の話じゃ、その手の変態は少なかぁねぇらしい。気持ち悪ぃ話だがな。で、ロッカーに放り込んだはいいが、勢い余って足下に戻ってきた。下着ドロボーは仕方なく、すごすごと下着を拾って退散、ってお話さ」
「ですが、あの手が……」
「信じねぇだろ。いや、警察としちゃ、あれを信じちゃいけねぇんだろうな 」
老人は嫌な笑みを浮かべつつ、ロッカーの扉を閉めた。
「ここを使ってるねーちゃんたちの中には、ここが薄気味悪ぃって言ってたのもいたな。特に多かったのが、このロッカーだ」
「じょ、冗談ですよね?」
言いながら、須間男は一歩退く。老人は笑顔のまま、大きく頭を振った。
「だからしばらく、このロッカーは使われてねぇんだよ」
老人の言葉を聞きながら、須間男はまじまじとロッカーを眺めた。やはり、他よりも傷が目立つ。心なしか色味もくすんで見える。そして差し込まれたネームプレートに、須間男は目を奪われた。
恐らく三色ボールペンやカラーマーカーだろう。色とりどりの線がプレートをぐちゃぐちゃに塗りつぶしている。混ざり合って毒々しくなった色に、須間男はどろりとした悪意を感じた。
しかしどれだけ悪意で塗りつぶそうとしても、その下に書かれた文字は完全には隠し切れていなかった。
【No.4】
プレートに刻印されていたのは、たったそれだけの文字だった。それだけの文字に悪意の塗りつぶしを行ったであろう存在と、そこまでの悪意を持たれる存在。須間男には全てが薄気味悪く感じた。
怖気に我を忘れていた須間男を現実に引き戻したのは、不意に感じた気配が原因だった。気配の正体は千美だった。彼女はただじっと、悪意で塗りつぶされたネームプレートを撮影していた。彼女が何を考えているのか、須間男にはわからなかった。ただ、自分と同じことを感じてはいないはずだと思った。
「で、俺は顔とか映っちゃうの? 有名人になっちゃったりするの?」
「いえ、映像作品では顔やビルの外観にはモザイクを入れさせていただきます。現地を見に来る人とかも中にはいるので」
「なるほどねぇ。そんなの俺は気にしねぇけど、まあ、あんたらが困るんだろうな。出来上がったら一本送ってくんな。ねーちゃんたちに見せてきゃーきゃー言わせてやる」
須間男は愛想笑いで答えつつ、もし老人がそれを実行したら、この貸しスタジオの利用者が減るんじゃないだろうかと心配した。モザイクを入れても地元民なら場所の特定はたやすい。特定された情報がネット上に流れたら、貸しスタジオはコスプレイベントよりもホラーがらみで使われることの方が多くなるんじゃないだろうかと。
恐らく、自分たちのような連中も含めて。
「やっぱり外は暑 ぃな」
ロビーから外に出ると、真上に移動していた太陽が、容赦なく三人に日差しを浴びせてきた。老人は懐から扇子を取り出すと片手でぱっと開き、ぱたぱたと仰ぎ始めた。
「それ、裏表逆じゃないですか?」
「にーちゃん、わかってねぇな。絵柄を外に向けて見せてやるのが粋なんだよ。覚えとくんだな……って、おい、ねーちゃん、どうした?」
突然猛ダッシュでどこかへ走っていく千美の背中に、老人が扇子を仰ぐ手を止めて声をかけた。千美が走っていく前方にある角を、ちらりと白い服を着た人影が曲がっていくのが見えた。
「あ、す、すいません。また改めてお礼に」
「いいから追っかけな」
老人に会釈をすると、須間男は千美の後を追った。先ほどの人影が曲がった角を、ちょうど千美が曲がっていく姿が、彼の目に留まった。遅れて角を曲がった時には、ふたりとの距離は大幅に開いてしまっていた。
これもいつものことだった。どう見てもインドア派の千美だが、足は結構早い。その脚力を活かしたカメラワークや、逃げる取材対象や不審人物を追跡する、というシチュエーションは何度も台本に組み込まれた。須間男が後れを取るのも込みで、だ。
須間男は無言で、遠ざかっていく千美を追った。呼びかける余力がないというだけでなく、千美のカメラに自分の声が入ってしまうと判断したからだ。嫌な仕事のはずなのに、編集のことまで考えながら走っている自分の滑稽さに、須間男は我ながらあきれ果てた。
汗は止めどなくあふれ、瞼を伝って目に入り、酷くしみる。ハンドタオルで拭いながら、いつ終わるかわからない追跡劇を須間男は追った。
逃走者は白いワンピースを着た女だった。ツインテールが激しく揺れ、スカートの裾はばたばたと帆のようになびいている。千美のカメラを警戒しているのか、女は後ろを振り返ることなく走る。千美もまた、脇目もふらずに追い続けるが、彼女と逃走者の距離は次第に開いていく。
女は再び角を曲がった。千美もその後に続く。須間男はかなり離れた位置からその様子を見た。もしかしたら見失うかもしれないと思いつつも、ぜいぜいと息を切らせて後に続いた。
数分後にようやく角を曲がった須間男は、道の脇に立つ千美の姿を捉えた。肩で息をしているようだが、須間男ほど汗はかいていないようだ。
どうやら女は逃げ切ることに成功したらしい。
しかし千美は平然としていた。いや、女に逃げられたということはもう問題ではないと判断したのだと、須間男は感じた。
千美はハンディカメラの液晶画面を見ていた。何度かボタンを押し、逆戻し、スロー再生などを繰り返しているようだった。
映像を見つめる千美の顔には、やはり表情の欠片も浮かんでいない。
瞳に移り来む液晶画面の光が、まるで彼女自身の眼光のように見えて、須間男は顔を背けた。
作務衣姿の老人──
「うちは貸しスタジオやってんだけどよ、地下アイドルっつーのか? そーいうのが使うことが多くてな」
たばこを吹かしながらガニ股で歩く老人に、須間男はついて行く。確かこのあたりは路上喫煙禁止だったような……と思いながらも、須間男にそれを指摘する勇気はない。
そんなふたりのすぐ後ろを、カメラを構えた千美がついてくる。もちろん録画は既に始まっている。カメラは千美の私物で、かなり年季の入った代物だ。
「奇妙なかっこした子ばっかだがな、おじいちゃーんなんてすり寄られたら、そりゃー悪い気はしねえな。そっちのねーちゃんも別嬪さんだろうに、地味ーな格好しちまって、なんだかもったいねーな」
老人にカメラを向けた千美は何も答えなかった。カメラマンという立ち位置をわきまえているようにも見えるが、愛想を返すという発想そのものが抜け落ちているようにも見える。かわりに須間男が老人に「すいませんすいません」と謝った。恐らくこのくだりは綺麗さっぱりカットされるな、と思いながら。
「おー着いた着いた」
老人が指さした先には、五階建てのビルがあった。同じ五階建てでも、須間男の会社が入っているビルよりはやや大きい。
「昔は地下も含めた全フロアにマイコンショップが入ってたんだが、今じゃ貸しスタジオの方が儲かるな」
がっはっは、と老人は剛毅に笑った。須間男は「マイコン」という懐かしい響きに苦笑をこらえつつ、愛想笑いを合わせた。
老人は入り口の施錠を解くと、「
入り口にはポストの類はなく、小さく古めかしいエレベーターが一基あるだけだった。
エレベーターの上にあるフロアランプは1~5までの数字と、地下を示す「B」の六つが並んでいる。屋上には出ない設計らしい。エレベーターの脇には階段もあるが、人ひとり分の幅しかない。
老人はすたすたと、灯りのついていない階段を下りていく。須間男も慌ててその後に続く。夏の陽光が階段までは届いていないおかげか、弱冷房でもかかっているかのようにひんやりとしていて、須間男の汗が引いた。
「ここがロッカールームだ。更衣室なんて上等なもんはねぇから、まぁただの物置だな。コインを入れたら鍵がかかる、鍵を挿したらコインが戻る。駅のコインロッカーよりはお得だろ?」
言いながら、老人はロッカールームの鍵を開けた。
老人が照明のスイッチを入れると、ロッカールームの全景が照らし出された。
秩序よく並んでいるロッカーは、オフィスの更衣室によくあるタイプだ。ロッカーの前には樹脂製のすのこも敷かれている。ただ老人の言ったとおり、コイン投入口があるのが唯一の違いと言ったところか。それが一列六基、全部で四列並んでいる。
「リース会社が全フロア借りてくれていた頃があってな、その時ここは更衣室だったって訳だ。ロッカーもその時に設置されたんだが、夜逃げしちまってな。ありがたく使わせてもらってる」
ロッカーも、ということは、他にも様々な機器が置き去られていったに違いない。それらの殆どは恐らく、踏み倒された家賃代わりに処分したのだろう。
「でまあ、貸しスタジオにしてからはロッカールームだ。だがな、今の若い連中は堂々としてるっつーか、サバサバしてるっつーか。ここで着替えるねーちゃんたちも多くてな。知らずに入ってきた野郎どもがすごすご退散していくなんてしょっちゅうだ」
そんなエピソードを知っているということは、いくつか相談があったのだろうか。それとも、老人自身がその場に出くわしたことがあったのだろうか。たぶん後者だろうと須間男は思った。
「コスプレっていうのか? あれで撮影会やったりイベントやったりっていうねーちゃん達が多くてな。で、下着だとか衣装だとかを狙ったロッカー荒らしがたびたびあってな。そのたびに警察と鍵屋呼んで、あんなもん設置しなきゃなんなくなった」
老人は天井の角に固定された防犯カメラを指さした。
「更衣室であんなもん取り付けたら、俺が捕まっちまうがな」
がははと老人は笑った。
「ここは更衣室じゃねえし、ちゃんと張り紙もしてある」
次に老人が指さした先には、「着替え厳禁 防犯カメラ作動中」としたためられた張り紙があった。達筆すぎて読みづらいのが難点だ。
「それで減りはしたが、ゼロじゃねえ。あの映像にも映ってたろ?」
「それなんですけど、なんでうちに投稿されたんですか?」
「俺の考えじゃねぇよ。一応不法侵入なんで、警察にマスターテープは押収されたが、コピーを持っててな。変な映像だろ? 顔なじみのねーちゃんとかに見せてたら、その中のひとりが、お前さんらが作ってるDVD(でーぶいでー)か? あれのこと知っててよ、送ってみたらってしつこくてな。まぁ、面白そうだから送ってみたわけだ」
「それはありがとうございます」
老人の話にやたらと女性が絡んでいることに、須間男はある意味感心しつつ礼を述べた。
「いいってことよ。んで、あれが、あのデカブツが変なことやってたロッカーだ」
段取りのよい老人に感謝しつつも、須間男は情けなさを感じていた。
自分の役割はインタビュアーである。インタビュアーは話を聞くだけではなく、話を引き出すことも仕事のうちだ。自分は仕事をちゃんとしていないという情けなさと、自分はちゃんと仕事をしたくないという嫌悪感が、須間男の頭の中でせめぎ合っていた。
しかも今回は台本通りのインタビュアー役ではなく、一般人を相手にした本当のインタビュアーなのだ。
しかし彼は結局、ただ老人の後をついて行く役に準じた。その様子をずっと撮影している千美がどう思っているだろうかとも思ったが、彼女はただ黙ってカメラを回すだけだ。これまで何かを言われたこともなければ、これからも言われることもないだろう。そう思い直した。
案内されたロッカーは、他のものと大して違いはなかった。ただ、表面にへこみ傷が目立つといえば目立つ。扉は修理済みのようで、老人が手をかけると、ロッカーの扉はスムーズに開いた。中には何もなかった。
「警察を呼ばれたと行ってましたが、彼らはどう結論づけたんですか?」
「下着ドロボーが盗んだ下着を返しに来たんだろうとさ。警察の話じゃ、その手の変態は少なかぁねぇらしい。気持ち悪ぃ話だがな。で、ロッカーに放り込んだはいいが、勢い余って足下に戻ってきた。下着ドロボーは仕方なく、すごすごと下着を拾って退散、ってお話さ」
「ですが、あの手が……」
「信じねぇだろ。いや、警察としちゃ、
老人は嫌な笑みを浮かべつつ、ロッカーの扉を閉めた。
「ここを使ってるねーちゃんたちの中には、ここが薄気味悪ぃって言ってたのもいたな。特に多かったのが、このロッカーだ」
「じょ、冗談ですよね?」
言いながら、須間男は一歩退く。老人は笑顔のまま、大きく頭を振った。
「だからしばらく、このロッカーは使われてねぇんだよ」
老人の言葉を聞きながら、須間男はまじまじとロッカーを眺めた。やはり、他よりも傷が目立つ。心なしか色味もくすんで見える。そして差し込まれたネームプレートに、須間男は目を奪われた。
恐らく三色ボールペンやカラーマーカーだろう。色とりどりの線がプレートをぐちゃぐちゃに塗りつぶしている。混ざり合って毒々しくなった色に、須間男はどろりとした悪意を感じた。
しかしどれだけ悪意で塗りつぶそうとしても、その下に書かれた文字は完全には隠し切れていなかった。
【No.4】
プレートに刻印されていたのは、たったそれだけの文字だった。それだけの文字に悪意の塗りつぶしを行ったであろう存在と、そこまでの悪意を持たれる存在。須間男には全てが薄気味悪く感じた。
怖気に我を忘れていた須間男を現実に引き戻したのは、不意に感じた気配が原因だった。気配の正体は千美だった。彼女はただじっと、悪意で塗りつぶされたネームプレートを撮影していた。彼女が何を考えているのか、須間男にはわからなかった。ただ、自分と同じことを感じてはいないはずだと思った。
「で、俺は顔とか映っちゃうの? 有名人になっちゃったりするの?」
「いえ、映像作品では顔やビルの外観にはモザイクを入れさせていただきます。現地を見に来る人とかも中にはいるので」
「なるほどねぇ。そんなの俺は気にしねぇけど、まあ、あんたらが困るんだろうな。出来上がったら一本送ってくんな。ねーちゃんたちに見せてきゃーきゃー言わせてやる」
須間男は愛想笑いで答えつつ、もし老人がそれを実行したら、この貸しスタジオの利用者が減るんじゃないだろうかと心配した。モザイクを入れても地元民なら場所の特定はたやすい。特定された情報がネット上に流れたら、貸しスタジオはコスプレイベントよりもホラーがらみで使われることの方が多くなるんじゃないだろうかと。
恐らく、自分たちのような連中も含めて。
「やっぱり外は
ロビーから外に出ると、真上に移動していた太陽が、容赦なく三人に日差しを浴びせてきた。老人は懐から扇子を取り出すと片手でぱっと開き、ぱたぱたと仰ぎ始めた。
「それ、裏表逆じゃないですか?」
「にーちゃん、わかってねぇな。絵柄を外に向けて見せてやるのが粋なんだよ。覚えとくんだな……って、おい、ねーちゃん、どうした?」
突然猛ダッシュでどこかへ走っていく千美の背中に、老人が扇子を仰ぐ手を止めて声をかけた。千美が走っていく前方にある角を、ちらりと白い服を着た人影が曲がっていくのが見えた。
「あ、す、すいません。また改めてお礼に」
「いいから追っかけな」
老人に会釈をすると、須間男は千美の後を追った。先ほどの人影が曲がった角を、ちょうど千美が曲がっていく姿が、彼の目に留まった。遅れて角を曲がった時には、ふたりとの距離は大幅に開いてしまっていた。
これもいつものことだった。どう見てもインドア派の千美だが、足は結構早い。その脚力を活かしたカメラワークや、逃げる取材対象や不審人物を追跡する、というシチュエーションは何度も台本に組み込まれた。須間男が後れを取るのも込みで、だ。
須間男は無言で、遠ざかっていく千美を追った。呼びかける余力がないというだけでなく、千美のカメラに自分の声が入ってしまうと判断したからだ。嫌な仕事のはずなのに、編集のことまで考えながら走っている自分の滑稽さに、須間男は我ながらあきれ果てた。
汗は止めどなくあふれ、瞼を伝って目に入り、酷くしみる。ハンドタオルで拭いながら、いつ終わるかわからない追跡劇を須間男は追った。
逃走者は白いワンピースを着た女だった。ツインテールが激しく揺れ、スカートの裾はばたばたと帆のようになびいている。千美のカメラを警戒しているのか、女は後ろを振り返ることなく走る。千美もまた、脇目もふらずに追い続けるが、彼女と逃走者の距離は次第に開いていく。
女は再び角を曲がった。千美もその後に続く。須間男はかなり離れた位置からその様子を見た。もしかしたら見失うかもしれないと思いつつも、ぜいぜいと息を切らせて後に続いた。
数分後にようやく角を曲がった須間男は、道の脇に立つ千美の姿を捉えた。肩で息をしているようだが、須間男ほど汗はかいていないようだ。
どうやら女は逃げ切ることに成功したらしい。
しかし千美は平然としていた。いや、女に逃げられたということはもう問題ではないと判断したのだと、須間男は感じた。
千美はハンディカメラの液晶画面を見ていた。何度かボタンを押し、逆戻し、スロー再生などを繰り返しているようだった。
映像を見つめる千美の顔には、やはり表情の欠片も浮かんでいない。
瞳に移り来む液晶画面の光が、まるで彼女自身の眼光のように見えて、須間男は顔を背けた。