第4話

文字数 2,239文字

 しばらくして急に体が震えだした。松崎は尿意を催したのである。しばらく堪えていたのであるが、それも限界に近づいた時、思い切って富田に訴えた。彼の返事はこうである。
「だから初めにトイレを済ませろと言っておいただろ?」
 その顔は呆れ果てていた。
「まさかこんなに時間が掛かるとは思ってなかったからさ」
「仕方が無い。ここでやるしかないな」
「ここで?」
「ここにはトイレが無いんだから、我慢して放尿するしかないだろう」
 松崎は重い足をさらに重くし、並び立つ鍾乳石の柱の陰で用を足した。響き渡る水音が壁に反響して恥ずかしさは倍増である。
「初めてだから仕方ないか。俺なんて大の方だったからもっとヤバかったぞ」
 富田の声に多少勇気づけられ、松崎はつなぎを戻した。アンモニアの匂いが残るだろうが、そこは放っておくしかない。

 それから先に進むと道はだんだんと険しくなり、屈まないと進めない小さな穴を通り抜け、今度は二メートルもある壁をよじ登ったかと思うと、次はほふく前進でしか入れないほどの狭い穴が二人の前に立ちふさがった。
「いよいよこれを抜けたらゴールは間近だ」
「本当だろうな」
「本当だ。百円かけてもいい」
 子どもの小遣いじゃあるまいし。
 それでも何とか腹ばいで地面を這いつくばると、ようやく穴を通り抜けるのに成功した。
 その先には扉があり、そこが大冒険の終着駅に思えた。
「ここまで来れば後は楽勝だ。百円は頂くぜ」
「イマイチ信用できない。本当にここがゴールなら一万円でもくれてやる」
 とは言ったものの、さすがにこれ以上はもうないと思った。時計は更衣室に置いてきたが、既に三時間が経っているのは間違いない。だとするともう六時。何もしなくても腹の虫が鳴くころである。
「いくぞ!」
「おう!!」
 勢いよく扉を開けると今度こそレストランがある……筈であった。

 目の前には階段があり、果てしなく続いているように見える。隣にはトイレがあり地団太を踏みつける。
「……これのどこがゴールなんだ?」松崎は隣の嘘つき野郎を睨みつける。「それにトイレがあるんだったらもっと早く言えよ」
「ごめん、俺も忘れていたんだ。でもどうせ間に合わなかっただろう? それにちゃんと聞いてなかったのか。俺はゴールとは言っていない。ゴール“間近”だと言ったんだ」
「間近でもないぞ。どこまで俺をコケにすればいいんだ」
「いいから黙ってついてこい。さっきのアドベンチャーに比べれば楽勝さ」
 棒のようになった足を交互に動かし、松崎は汗と水でずぶ濡れとなった軍手を脱ぎ捨てた。そして膝に手を当てながら必死で階段を昇る。さすがの富田も疲労の色を隠せない。さっきの軽口も気を紛らわせるためのジョークなのかもしれなかった。
 十メートルほど登ったところでようやく頂上が見えてきた。安堵のため息を吐く松崎はここにきて見たくないものが目に入ってきた。
「おい、どうしてはしごを昇らなけらばならないんだ」
 思わず富田に掴みかかる。階段を踏み外しそうになるが、そんな事はお構いなしであった。
「俺だって忘れていたんだ。今思い出したよ、この先にレストランがある。今度こそ本当だ。俺を信用してくれ、頼む」
「もし嘘だったら、本気で訴えるからな!」
 階段を昇り切って上を見上げると、それは十メートル程伸びているのが目視できた。
 本当にこれが最後だからと念を押し、富田ははしごを掴む。松崎も鼻を鳴らして掴んでみると、金属の冷たい感触が伝わってきた。
 最後の力を振り絞りながら、一段一段はしごを昇っていく。体力も限界を超えて、何度もずり落ちそうになった。
 
 十分ほどかけてヘトヘトになりながら登り終えると、三畳ほどの踊り場にさっきとはまた違うバニーガールが待ち構えていた。陽気な笑顔を振りまきながら、お疲れさまでした、と労いの言葉をかけてきた。彼女の奥には扉があり、小さなプレートで『隠れ家レストラン シークレット・ベースへようこそ』と書いてあった。
「ほら、ようやくゴールだ。俺の言った通りだろ」富田は誇らしげな面持ちで、えへんとばかりに体を逸らせる。床に座り込んだ松崎は息も絶え絶え、呼吸するのがやっとである。
「もう少しでお前の首を絞めるところだった。命拾いしたな」
「勘弁してくれ」
 それからバニーガールは扉の横のボタンを押すと、扉はスッと開き、眩しい光が松崎の目を刺した。
 そこは高級ホテルを思わせるゴージャスなホールで、直径一メートルはあると思われる見事なシャンデリアが七色の光線を撒き散らしている。タキシードを着たウェイターが「お着替えはあちらです」と、更衣室と書いてある扉に案内をしながらその扉を開く。本音を言えばこの格好のまま少しでも早く食事にありつきたいのであるが、そこは紳士のマナーとして泥だらけの格好でディナーの席に着くわけにもいかなかった。
 中は最初と同じような部屋であり、奥にドアが無いことや、シャワールームがあることを覗けば、時間が戻ったような錯覚を憶えるところだ。シャワールームに入り熱い湯を浴びた松崎は、空腹のピークを迎えていた。バスタオルで体を丁寧に拭いながら着替えに入る。ロッカーには新品の下着と元の衣類が収められており、運び込まれた見覚えのある金庫から財布などの貴重品を取り出すと、元の服装に戻った。喉の渇きも相当なもので、今ほどビールを飲みたいと強く思ったことはない。せめて牛乳でも良い。富田に冗談交じりで訴えたが、彼は微妙に破顔しただけであった。
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