彼女が失ったもの
文字数 3,044文字
みのりは、真っ暗な道をひたすら走っていた。
彼女が追いかける先には、こちらに背を向けたロダン。
彼は立ち止まってぴたりとも動かないのに、みのりがいくら走っても、ちっとも追いつきそうにない。
「ロダン、お願いだからこっちを向いてよ。一緒にうちへ帰ろう。また一緒に遊んで、美味しいもの食べて、これからも楽しいことをふたりで……」
みのりの必死な声に、振り返ったロダン。
ほっとしたのも束の間。ロダンの身体が少しずつ、猛々しい獣の姿に変貌し始め、みのりは凍りついた。
「オレは、もう決めたんだ。邪魔するというなら──」
獣に姿を変えたロダンが飛びかかってきて、思わず目を閉じるみのり。
そして──
ぼやけた白い天井と、こちらを覗き込む人影が見えた。
全身がひどくだるくて、痛い。
──あれ……? 私、どうしたんだっけ。
──なんか、とても大事なことをしてた気がしたんだけど……
状況を飲み込めないみのりの耳に、見覚えのある声が聞こえてくる。
「みのり──みのり!! 大丈夫!? お母さんがわかる!?」
「お母さん……?」
だんだんと目の焦点が合ってくる。
ゆっくりと声の聞こえる方に目を向けると、自分の手を握りながら泣きじゃくっている母と、心配そうにこちらを見つめている父と兄がいた。
「お父さん……お兄ちゃん」
「ああ、よかった──目を覚まして。もう、どんなに心配したと思ってるの。みのりまで遠くに行っちゃったら、お母さんどうしていいか……!!」
強く握られた手は温かく、みのりは何が起きたかわからないながらも、目に涙が浮かぶのを感じた。
「みのり──本当によかったよ。どこもケガはしてないようだし」
「みのりが行方不明になって、やっと見つかったら意識不明で緊急搬送されたっていうから、帰ってきたんだ。ちっとも目を覚まさないから、もうどうしようかと思ったよ──」
父も兄も、みのりが目を覚ましたことに心底安堵している様子だった。誰かがナースコールを押したのか、そのうち看護師さんがやってきた。看護師さんと両親が何やらしゃべっていたような気がするが、よく覚えていない。気がつくと、また深い眠りに落ちていた。
みのりは、ここ数日で起きたことを覚えていなかった。記憶がひどく曖昧になっている。
みのりがなかなか帰ってこないことを心配した母が行方不明者届を出したところ、あの「魔法の丘」で倒れているところを発見され、病院に搬送されたあと眠り続けていたのだという。目が覚めたときには、学校は冬休みに入ってしまっていた。
十二月二十四日、イヴの日にどこかに行こうと、家を出たことは何となく覚えている。だが、誰と一緒にいたのか、どこに行こうとしていたのか、全く思い出せない。何か手がかりがないかとスマホのデータを見てみたが、それらしいものは何も見つからなかった。あるとしたら、みのりが失踪した日付の夕方に、市内で撮ったと思われる写真だけだ。
その写真だってどう見ても誰かとツーショットをしている風なのに、写っているのは見覚えのない服を着ておめかししているみのりだけで、右側には不自然な空間があいている。
この写真はいったい何なんだろう? 思い出そうとしても、何も浮かんでこない。
「みのり──! もう元気なの!? よかった、みのりに何かあったらって私──」
「真帆──ごめんね。心配したよね」
「したに決まってるでしょ、もう……!」
「ごめん──」
検査にも問題がなく退院の許可が出て、家に戻ることができたみのり。送ったメッセージにも既読がつかず(みのりが意識を取り戻したあと、スマホの通知の数がすさまじいことになっていた)、学校にもこないために、目を覚ましたと聞いた真帆と翼がさっそく見舞いにきた。
真帆が泣いているのを見るのなんて、いつ以来だろう。
あのときの母のように大泣きしている彼女の背中をなでながら、みのりは申し訳ない気持ちになった。
翼も安心した様子で、笑顔を見せた。
「よかったよ、思ったより元気そうで。──それで、何があったんだ?」
「そうよ。あんたイヴは予定あるって言ってて、まさか男? って聞いたらはぐらかしたじゃない。私絶対そいつがみのりに何かしたんだと思って、──気が気じゃなくて」
「え──」
みのりは翼と真帆の言っていることが飲み込めず、聞き返した。
「ちょっと待って。私が真帆にそう言ったの? クリスマスイヴに予定あるって?」
「えっ、何言ってんの? あんた自分で言ったこと覚えてないの?」
「うん……ごめん。私、ここ数日の記憶が曖昧みたいで」
「みのり……元気そうだけど、本当に大丈夫なのか? 頭を強く打ったとか──本当に家に帰ってきてもよかったのか」
みのりが何も覚えていないことに、また不安そうな顔になる真帆と翼。ふたりにあの謎の写真を見せようかと一瞬思ったが、余計心配をかけるだけな気がしてやめた。
「うん。検査結果には問題がなかったから。少し記憶が混乱してるようだけど、軽度だし様子を見ましょうって」
「はあ──何か気持ち悪いわ。明らかに普通じゃないことがあったのに、何があったかわからないって」
真帆はため息をつくと、みのりが眠っていた間のことを簡単に教えてくれた。
「みのりが行方不明になって、学校中騒ぎになったのよ。警察も来て、親しかった生徒に話を聞きたいからって私たちも呼び出されたし。最近よくある、SNSで知り合った人物に呼び出されたんじゃないかとか──私もその可能性があるのかって気がついて怖かった。なんでもっとあんたから話聞かなかったんだろうって。あんたが仲良かったA組の子たちや、それにマナミちゃんたちも……すごく心配してたよ」
「生徒の中にはおまえが宇宙人にさらわれたとか、いい加減なこと噂してるやつらもいて。絶対面白がってるし腹立つから、言ってやったよ。勝手なこと言うな! って」
「真帆、翼くん。私のためにごめんね。ありがとう……」
みのりは胸がつまって、そっと真帆と翼に寄り添った。大切なふたりに、こんなにも心配をかけていたのだ、と改めて思った。
あのあと、「無事に帰ってきたとはいえ、何か事件に巻き込まれたのではないか」と両親が心配して再度警察に相談したらしい。
だが、手がかりが全くといっていいほどなく、警察も首をひねるばかりで動いてくれそうにない。みのりは、この件の真相はずっとわからないのではないか、という気が何となくしていた。
真帆と翼を見送ったあと、みのりはもやもやを抱えたまま、自室に戻る。
──おかしい。どうして、何も思い出せないの? あの不自然に間のあいた写真は、いったい何? 私、あのとき誰かと一緒にいたんじゃないの……?
だが、真帆や翼をはじめ、あの日親しい誰かと約束した覚えはまるでない。
それだけではない。何かとても重要なことを忘れているような、そんな
「あれ……」
ふと、デスクのアクセサリーケースの引き出しが少し開いていることに気がつく。
開けてみたみのりは、はっとした。
いつか祖父にもらった、祖母の形見のペンダント。
とても大切にしまっておいたはずなのに。ペンダントはボロボロにひびが入って、無残な姿になっていた。
──おばあちゃんのペンダント……こんなになっちゃった。
不意に、悲しくてたまらなくなった。
込み上げてくる涙を抑えきれず、悲しみの意味さえわからぬまま、みのりは泣き崩れた。