第4話 サンスクリット・コースの奇妙な面々② 

文字数 5,247文字

 始業の30分前には大学に着き、学食で朝ご飯代わりのチャイを飲む。
 学食に行けば、必ず話し相手がいた。ネパール語を学ぶ日本人の学生たち、日本語科のネパール人たち、サンスクリット・コースの3人のクラスメイト。

 ダニエルは大変な甘党だ。温めた牛乳を掛けたオートミールの上に、砂糖を山盛りにする。
「幾ら何でも、盛り過ぎでは? 身体に悪そうで心配」私は砂糖に隠れたオートミールを(にら)む。
「昔から甘いものに目がなくて、ジャリジャリの砂糖が掛かっていないと気が済まないんだよね」
 スプーンで砂糖の山を少しずつ崩しながら混ぜ、口に運ぶ。ウエーブの掛かったブロンドの髪といい、甘えた感じの口元といい、赤ん坊が離乳食を頬張る雰囲気だ。

 篠田さんと2人の時は、心置きなく日本語で話せる。学食で姿を見掛けると、透かさず寄っていく。背が高くて白い服を着ているので目立つ。クルタとドーティと呼ばれる、インド・ネパールの民族服だ。上下揃いのゆったりとしたパジャマのような装いである。

「ディーパの授業の進め方は、すごくいいですね。生徒の理解を深める工夫を優先して、伝統的パーニニ文法に(こだわ)らない姿勢に好感が持てます」
 私の発言に、篠田さんは深く頷き同意を示す。
「確かに。私は以前、デリー大学でサンスクリットを学んだがねぇ、指導方法が、まるで駄目だった。延々と(うた)の反復ばかりで」

 インド・ネパールでは、一般的なサンスクリットの学習方法として、ひたすら詩を覚えるように指導される。反復と模倣。篠田さんがデリー大学で受けたサンスクリット教育は、インド・ネパールでは正当かつ常識的といえる。文法理解や筆記のスキルは得(にく)いが。

「私もデリー大学へ行こうか迷っていましたが、ネパールで正解だったかも。正直、ここでの授業の内容や環境については、あまり期待していませんでした。日本みたいに円滑に事が運ぶとは思ってないですし」

 不便は多い。たとえば、教科書。先生が指定した教科書が、書店を回っても見つからない。4人の生徒全員が教科書を得るまでに、2週間を要した。そんな不便はあっても、優秀な講師のもとでサンスクリットをみっちり学べる幸せは、何物にも代えがたい。

「篠田さんは、サンスクリットのスキルが身に付いたら、まずはどう使うおつもりですか?」
「ヨーガの研究だ」即答する。チャイの入ったティー・カップを片手に、機嫌良く語る。「人生は、修行。深い瞑想の世界こそ、我が住処(すみか)。ヨーガを研究しながら、隠遁生活をする。最早(もはや)、人間には興味がないのでね」
「そうですか。私は篠田さんとは違った考えです。ここに来た第1目的は、もちろん、サンスクリットの習得です。でも、サンスクリットが語れる面白い人たちと出会えたらいいな、って期待もありましたよ」

 私もインド思想に強い興味があるが、ただし、あくまで人間の思考としての関心だ。人間である以上、人間に無関心にはなれないし、なりたくもない。

「高い精神レベルに達していないから、人間同士の(しがらみ)に執着するんだ」
 篠田さんは腕を組み、目を閉じる。自分の発言に酔いしれたような笑みを浮かべて、何度も頷いた。「神と自分の繋がりだけに興味がある」
「そういう考え方もあるんですね」チャイの湯気を眺めながら、相槌を打つ。
「サンスクリットを学べる我々は、神に選ばれた存在だね。前世・現世において善いカルマを積まないと、到達できない境地だ」

 出たぁー! いかにも、サンスクリット学習者が陥りがちな選民思想!

 ヒンドゥ教の神話によると、サンスクリットは神々が人間に教えた言葉である。神々の壮大かつ高尚な意図を、人間の言葉に落とし込んで伝える作業には、無理が生じる。サンスクリットは、無理を最低限に抑えるために与えられた、神からの贈り物だ。

 確かにサンスクリットには、他の言語では表現できない深みを感じる。例えるならば、玉葱(たまねぎ)の構造だ。玉葱が(めく)れて、一つずつ芯に近づいていくように、理解が深まる分だけ、深層に進んでいく。

 特に、聖典『バガヴァッドギーター』においては、玉葱の構造が顕著だ。何度も読んでいるのに、突然、別の意味に気付かされて驚く。この種の驚きの現象を、インド思想では古来より、直観として受け容れる。

 何事においても、過剰な愛は考えの歪みを生じさせるものである。サンスクリットに対する愛も(しか)り。

 篠田さんの選民思想的発言は、更に続いた。
 サンスクリットを学ぶと声が綺麗になるとか、悪いカルマが浄化されて超能力が身に付くとか。

 私はもともとオカルト嗜好だ。超能力に興味がないと言えば、嘘になる。子供の頃は、超能力が得られれば、両親から注目されると信じていた。
 親の保護がなくても生きていける年嵩(としかさ)に達して以来、超能力を身に付けたい欲求は急激に(しぼ)んでいった。

 たとえば、「コーヒーを飲みたい」としよう。願いを実体化する超能力により、何もないところから突如としてコーヒーが現れたら? なぜコーヒーが出現したのか――検証対象としては興味深い。ただし、超能力によって出現したコーヒーよりも、友人が私を想って淹れてくれたコーヒーのほうが圧倒的に価値がある。あるいは、何もないところからのコーヒーの出現は、労働・社会貢献により得た金でコーヒーを買う意味深さには勝てない。

 篠田さんの精神世界的な上昇志向を批判するつもりはない。我々の考え方には大きな隔たりがありそうだが、別個の人間なのだから当然だろう。違いの中に、面白さを見つけていきたい。

 食堂での語らいの後、篠田さんと一緒に教室へ移る。

 教室では、リカルドが一人だった。いつも早めに来て、筆記の練習をしている。

 メキシコ出身のリカルドの母国語は、スペイン語だ。アメリカと地続きの国柄からか、英語も堪能である。西洋のアルファベット以外の文字を学んだ経験がなく、デーヴァナーガリー文字の習得には苦心していた。

 大変さは、わかる。私も日本で、デーヴァナーガリー文字の筆記練習に明け暮れた。ノロノロと書けるようになるまで、半年は掛かった。
 習得までのプロセスは、苦しいながらも楽しめたた。
 赤ん坊は、目に見えて成長する。立てるようになったり、言葉が話せるようになったり。大人になると、急激な成長は、滅多に遂げられない。書けなかった文字が書けるようになる成功体験は、私の心に新たな風を通してくれた。

 眉間に(しわ)を寄せて机に向かうリカルドの様子は、ちっとも楽しそうに見えない。そこが気になる。せっかくの留学生活なのに。

 入学当初から、リカルドは苛々(いらいら)していた。フラストレーションが日に日に増すように見える。真面目過ぎる性格が一因だろう。他の生徒は、既にサンスクリットを(かじ)っていた。学習の遅れに焦っている様子だ。「初めてなんだから、わからなくて当然」と、笑って済ませられるほど楽観的ではなさそうである。

 始業時刻を20分ほど過ぎて、ディーパがやってくる。さらに10分ほど遅れて、眠そうな目を(こす)りながらダニエルが入室。教室に顔を出す順番は、だいたい決まっていた。

 リカルドは、遅刻の多いディーパにも不満を抱いているようだ。
 ネパール人は概して時間にルーズだ。お国柄であり、ディーパの特質ではない。
 ただ、日頃の遅刻に加えて、ディーパの都合で授業の短縮もあり、リカルドの不服も理解はできる。

 ディーパは他の学校でも、サンスクリットを教えていた。
 私たちの授業は午前9時から11時までだが、「火曜日だけ、授業を8時半から9時半までの1時間にしてほしい」と頼まれた。他の学校の授業と重なるからだった。

 私は承諾した。外出禁止令や祝祭日で、頻繁に休講になる状況である。毎週1時間の短縮でカリカリしていたら、ネパールで生活できない。

 リカルドの考えは別だ。短縮は契約違反。当然といえば当然の主張だろう。

 話し合いの結果、補習が決まった。授業時間が減った分は、個別に補習を申し込める。希望者は、ディーパの携帯電話に連絡を入れること。
 リカルドは何度も電話を架けたが、一度も繋がらない。さらに苛々を積もらせた。

 こうした背景もあり、毎回の授業は、リカルドの苦言から始まる。苦言の後は、サンスクリットについての質問が30分ほど。

 篠田さんが笑いながら茶々を入れる。
「リカルドは授業の短縮が気に入らない。一方、私らは、リカルドの質問の多さによって、毎回の授業時間を無駄にされている」
 篠田さんの揶揄(やゆ)を聞いて、リカルドの顔が真っ赤に。勢いよく椅子から腰を上げる。篠田さんに迫り、拳を振り上げた。

 ディーパと私でブーイング。ダニエルは、「我、関せず」と(うわ)の空だ。

 篠田さんは、授業中の質問にネパール語を用いる。教室の中でネパール語が話せる人は、ディーパと篠田さんだけ。ネパール語の会話能力の自慢したいのか。それとも、他の生徒に質問内容を共有しない意地悪なのか。

 これは篠田さん本人から聞いた話だが――インドのデリー大学で1年を掛けてサンスクリットを学んだが、まったく身に付かず。諦め切れず、ネパールに留学し直そうとした。かつて、この大学では、サンスクリット・コースに入る条件としてネパール語のスキルが必須だった。おそらく、サンスクリット担当の教師が英語を話せなかったのだろう。篠田さんは、まずネパール語科に入った。2年を掛けてネパール語を学んだ後、一旦、日本に帰国。1年後に、再びネパールを訪れている。いよいよサンスクリット・コースに入る時機の到来だ。ところが、大学の方針が変わっていて、ネパール語のできない学生もコースに受け容れられた。

 篠田さん以外の私たち3人は、ネパール語習得の苦労もせずに、あっさりコースに入れた。面白くないから、授業中にネパール語を使いたがるのではないか、と。いずれにしても、大人気(おとなげ)ない。

 リカルドがまた癇癪(かんしゃく)を起こし始める。
「英語で質問しろよ。クラスメイトと協調するつもりは、これっぽっちもないのか?」息が上がる。頭から上る湯気が見えそうだ。
 篠田さんは澄ました顔で、何やらリカルドに言い返した。やはり、ネパール語で。
「付き合ってられるか、こんなやつに」悪態をつき、黒板に向き直るリカルド。「授業に、集中、集中!」と、自分自身に言い聞かせる。

 単語の解読の時間になった。ディーパが黒板に書く単語を、当てられた生徒が読む。
 リカルドが指名される。
 文字の解読に時間が掛かる。読めない文字が登場すると、教科書のアルファベット対応表と睨めっこだ。

 言葉に詰まるリカルドの傍で、クスクスと笑う声がする。声の主は、篠田さんだ。

「何か、文句があるのか? 言ってみろ」
 耳を赤くしたリカルドが席を立ち、篠田さんに詰め寄る。

 なぜ篠田さんは、いちいち(あお)るのか? 理解に苦しむ。

「授業中に、喧嘩はやめてくれる?」
 ディーパが(たしな)める。リカルドは、まだ怒りが収まらない様子ながら、椅子に座り直した。

 私たちは気を取り直して、会話のレッスンに入った。
〈肉食〉と〈菜食〉という単語を習う。ディーパが生徒の一人一人に、「あなたは肉食ですか、菜食ですか?」と尋ねる。



 当時、私はゴリゴリのベジタリアンだった。スピリチュアルに傾倒している篠田さんとダニエルも、ベジタリアンだ。

 ディーパを含め、多くのネパール人が〈ほぼベジタリアン〉である。普段は肉を食べない。祭祀(さいし)生贄(いけにえ)として家畜を(ほふ)った後は、神様のお下がりとして食べる。私は気が弱いので、生きている家畜が解体される様子を一部始終見たうえで、肉を口にする勇気はないが。

「リカルド、あなたは、菜食ですか、それとも肉食ですか?」
 ディーパの問い掛けに、他の生徒と同様、リカルドも「私は、菜食です」と答えた。
 すると、またしてもクスクスと笑い声が。もちろん、笑い声の主は篠田さんだ。
「何が可笑(おか)しい? いちいち、笑いやがって。馬鹿にするのもいい加減にしろ」
 リカルドが篠田さんに飛び掛かり、襟ぐりを掴んだ。

 ディーパも私も、身体の大きいリカルドを止める勇気もなく、遠くから「もう、やめましょうよ」と言葉で抗議を試みるしかできなかった。ダニエルは、ぼんやりと座ったまま。不干渉の態度を崩さない。

 篠田さんは、ヘラヘラと笑いながら、リカルドの鼻の頭を指差す。「暴力はいけない。そういう、すぐにカッとなるところ。ベジタリアンである訳がない」

 リカルドが、狂暴な犬のように歯を見せて唸る。ウンザリ顔のディーパと私。ダニエルが欠伸(あくび)をする。

 授業後に再び学食に寄った際、篠田さんは笑いながら私に囁いた。

「リカルドの嘘は明白だ。あの図体(ずうたい)で、ベジタリアン? 肉食の典型的な体格だ。あの、頭の禿()げ上がった」

 自分が見えていない。篠田さんの後ろ頭は、ずいぶん薄くなっている。リカルドが禿げていると指摘しつつ、自分の頭髪が薄い事実には気付いていないのだろう。

 篠田さんの視界の曇りについて思索しつつ、脂肪分の多いチャイを(すす)った。
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登場人物紹介

リカルド

クラスメイト

メキシコ人

40代半ば(当時)

神話やインドの文学に興味があり、『ラーマーヤナ』(インドの代表的な文学作品。ラーマ王子の英雄譚)を原文で読みたい

きっちりした性格

ダニエル

クラスメイト

イスラエル人

30代半ば(当時)

アメリカでカメラマンをしていた際、ヨーガを学び始める。精神世界・瞑想に興味ありいずれはサンスクリットでヨーガ・スートラ(ヨーガの経典)を読みたい

大の甘党。ディスコでの夜遊びがやめられない

篠田さん

クラスメイト

日本人

65歳(当時)

ヨーガ、瞑想の(自称)エキスパート。日本の某私立大学の英語講師を25年に亘り勤め上げた。サンスクリットを学んで教本を出版したい

本人曰く、動物をも感動させる歌声を有し、森で鹿を泣かせたことがあるらしい

ディーパ

教師

ネパール人

25歳(当時)

幼少の頃から英才教育を受け、サンスクリットをマスターした才女

3児の母でもある

宏美(私)

日本人

27代半ば(当時)

大学1年生の時にインド旅行で衝撃を受け、インドの虜に

基本的にボーっとしてる

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