第4話

文字数 2,467文字

 帰りは来た時と反対側の庭を通った。
 こちら側は伝統的なイギリス庭園、いわゆるノッド・ガーデンだ。低い柘植(ツゲ)で幾何学的な模様を描きその隙間にタイム、セージ、ラベンダーなどの香草類を植えている。所々に置かれたイチイのトピアリーが目に面白い。
 庭園を抜けた場所に屋敷と同じ赤い煉瓦造りの瀟洒な厩舎及び馬車庫が建っていた。
 兄弟は門の前まで見送ってくれた。名残惜しそうに二人ともいつまでも手を振っていた。鉄柵を巡らせた広い敷地の正面部分が尽きて二人が見えなくなってからエドガーは言った。
「チョコレートブリオッシュとか言うのがサイコーに美味しかった!」
 唇を舐めながら、
「それにさ、僕、貴族の子供と初めて喋ったけど全然思ってたのとは違ってた。いい人たちだよね? この家のこと『幽霊屋敷』なんて呼んで悪かったな」
「この世に幽霊なんていない。俺が今朝、気にかかってここへ舞い戻ったのは誰があの信号を発信したのかを突き止めるためだ」
 エドガーはポカンと口を開ける。友をまじまじと見つめた。
「信号って――喋る火の玉のこと? 君はあれが信号だって言うのか?」
「信号以外に何がある。エド、おまえは仮にもメッセンジャーボーイのくせにまだ気づかないのか? あれはモールス信号だよ」
「モールス信号って、電報に使われるアレ?」
 モールス信号は1837年アメリカのサミュエル・F・B・モールスが発案、数回の改良を経て1868年、万国電信連合が国際規格として承認するに至っている。
 ・〈短点〉と―〈長点〉の単純な符号で構成されるため音響や発光信号にも転用でき、鉄道や船舶でも使用されている。
 エドガーは鼻の頭に皺を寄せてモゴモゴ言った。
「そりゃ、名前ぐらいは知ってるけど――じゃ、君はモールス信号を判読できるのか?」
「当然。仕組みは簡単だ。一度覚えたらだれでも読めるさ。そんなことより――」
 ヒューは話を先へ進めた。
「昨夜、あの屋敷の左端の窓辺で灯――多分、信号灯、鉄道なんかで使うカンテラみたいな奴――で告げられた言葉こそ、重大だ。明らかに灯の明滅は言っていた『注意せよ。死番虫(シバンムシ)』と」

 WATCH DEATHWATCH

「死番虫は旧くて広い屋敷の屋根裏で今頃の季節に鳴く虫だよ。狭い借家暮らしの俺たちには縁がないけど。カチカチカチと時を刻むように鳴くんだ」
「あ、僕が聞いた奇怪な音はそれか?」
「うん。でも、木材を食べる虫で草の中にはいないはずだから、そこも引っかかる。誰かがわざと芝生に置いたのかもな」
 ヒューは片方の眉を吊り上げた。
「それで俺は、この邸内の誰かが外に向かって(・・・・・・)何か知らせたいことがあるんじゃないかと気になったわけさ。モールス信号で発信された〈死番虫〉という言葉も単にその虫を指すんじゃなくて、ある種の隠喩……象徴かも知れない」
「例えば蜜蜂とか?」
 パチンと指を鳴らすヒュー。
「冴えてるじゃないか、エド、その通りさ!」
 ビクトリア朝以来、養蜂は上流階級の趣味として成立していた。良家の子女が世話をし、蜂たちも家族の一員として大切に扱われる。特に葬儀の際は巣箱に喪章をつけ葬式にも招待しなければならないとされた。これを怠ると蜂たちはその家を見限って出て行ってしまう。事件や噂話なども事細かく伝えなければならないそうである。
「実際、弟は父親の葬式に兄が黒いリボンを結んで蜜蜂たちに〝死を告げた〟と言っていたものな。Deathwatch(死番虫)にピッタリだ」
「テーブルの上にも虫がいたね?」
「益々冴えてるな、エド、おまえも気づいたかい?」
「当たり前だ。僕、一瞬、ギョッしたよ。あれは何?」
「スカラベ。エジプトの聖なる虫。俺たちの言葉で言うとフンコロガシだ」
「えー、嘘だろ? フンコロガシが聖なる虫?」
「古代エジプト人はフンを転がして大きな球体を作る行為を神秘的だと感じたらしい。球体は太陽でスカラベは太陽の運行を司る神――太陽神ケプリと同一視されたのさ」
 博学ぶりをあますことなく披露したところでヒューは冷ややかに言った。
「でもまぁ、あのスカラベはさほど意味はないな」
「どうして?」
「虫は虫なんだけど、あれは貴族のテーブルに付き物の〈塩入れ〉だから。連中はあれで上座と下座のサインというか、境界線を示すんだ。コレクションアイテムとして凝った形が人気があるってさ」
「え、そうなの? 凄いや、ホントに君はなんでも知ってるんだな」
 感嘆するエドガーにウィンクを返すヒュー。
「塩入れに関しては姉貴のアンジーが教えてくれたのさ。勤め先のサマセット家は代々塩入れの収集が趣味で、塩入れを置く為の部屋があるそうだぞ。いづれも珍品揃いで亀とか駱駝、蝙蝠、細い銀の巣の上の蜘蛛……あのスカラベも銀製で目は翡翠だったな。だから、形が珍重されただけで、置かれていたこと自体には意味はないと思う」
「それにしても、やっぱり君はなんでも知ってるよ。つくづく尊敬しちゃうよ」
「友達はおまえしかいないけどな」
 もう一度、エドガーは吹き出した。だが、当のヒューは大いに真面目な顔でしんみりと言う。
「あいつ、屋敷の長男は友達が誰もいないと言った。なんだか、昔の自分を見てる気がしたよ」
「君が友達になれるんじゃないかな。趣味も合うみたいだものね。ブレイクなんて僕は全然知らなかったよ」
「ウィリアム・ブレイクはおまえには勧めない。百年前、ロンドンのソーホーで生まれた悲しい詩人で画家さ。版画の新しい技法を開発して、それで劇的に綺麗な色が出せるようになったんだ。でも……」
 口籠るヒュー・バード。
「でも、なんだよ?」
「そのやり方を彼に教えてくれたのは弟だと言い張ってる。俺は信じないけど」
「どうしてさ? 信じたらいいじゃないか。仲の良い兄弟ならありえることだろ?」
「……弟はずっと前に死んでるんだ。ブレイクは弟の幽霊が教えてくれたって言ってるのさ」
「!」
「いずれにせよ、あの屋敷は謎が多すぎる。絶対何かある。となれば――」
「OK、その先は僕だってわかる。いざ、ロンドン警視庁(ニュー・スコットランドヤード)! キース・ビー警部の元へ、だね?」

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