第1話
文字数 1,985文字
空には大きなバツがあった。僕がこれまでつけられたバツの中であれほど大きく美しいものはなかった。
そのバツはただそこにあった。何かを否定するためでも、くだらない教えを諭すためでもなくただそこに存在していた。
******
昨日、先輩たちは引退した。いや、僕が引退させてしまった。
僕が投げたのはたったの一球だった。一球で試合が終わり、彼らの夢も高校野球も僕が終わらせてしまった。
両チーム生投手 による投手戦の末に辿り付いた9回裏、2対2の同点、先頭打者9番篠原へ投げた初球だった。彼の打った打球は甲高い金属音と共に高々と上がり、レフトスタンドに消えた。すると相手ベンチから割れるような歓声が上がり、凄まじい数の足音がグラウンドに駆け込んできた。一塁ベースを蹴った篠原はぎこちなく右腕を掲げ、スコアボードには「1×」と刻まれた。
視線を落とすと中堅手 の海原主将が抜け殻のような顔で僕を見ていた。彼は流れる涙を拭きもせず、愕然 とした表情で立ち尽くしていた。
「ゲームセット」
ベンチに戻ると主将はいつもの主将だった。僕にタオルを差し出して、声をあげて泣いている先輩らに声を掛けて廻っていた。
僕らは先輩からの最後の言葉を聞いて先輩のいない学校に戻った。先輩の言葉は全く頭に入らなかった。学校にどうやって帰って来たのかもわからない。気がつくと僕は部室にいた。そして同期からの罵声を浴びていた。彼らは「お前の所為 で」と跡が付くほど強く僕の試合着 を掴んだ。
「お前は俺が良いと言うまで走っておけ」と監督は帰ってくるなり僕に告げ、練習に加わった。
僕は言われた通りにした。監督の指示に不満はなかった。練習に参加しても彼らに合わせる顔がなかったし、当然の罰だと思った。
僕は夜が老けるまで走った。練習は疾 うに終わり、監督もいなくなったがそれでも僕は足を進めた。
二十二時を過ぎて、僕の足はようやく止まった。そしてその惰性 で部室に戻った。
「いつまでやってんだよ」
部室に戻ると誠也が待っていた。誠也は二年生で唯一レギュラー入りした二塁手 で数少ない中学時代からのチームメイトだった。
「許してもらえるまで」と僕は言った。
帰ろうと誠也が言うので僕らは二人で帰った。彼は何も言わずに僕を家まで送り届けた。
風呂に入ってもベットに入っても体は休まらなかった。「お前の所為 だ」という彼らの言葉や主将の表情が頭から離れなかった。
そしてふと真島先輩の顔が浮かんだ。真島先輩は8回までを投げ切ったチームの正投手 で僕が最も慕 う先輩だった。一塁にベースカバーに入った際に打者走者と接触して降板した。彼が接触した時、ドンという鈍い音がして、それがベンチまで聞こえた。そのまま倒れ込んだ彼は足を抱えて蹲 っていたが、決してボールは離さなかった。
担架で運ばれる真島先輩に僕は一刻も早く駆け寄りたかったが、監督に「ブルペンに行って準備しろ」と言われそれは叶わなかった。あの時、彼はどんな気持ちだったのだろうか。と僕は考えた。どれだけやりきれない気持ちだっただろうか。そして試合結果を聞いて彼はどんな顔をしただろうか。
きっと失望しただろうと僕は思った。あの時の主将と同じように。きっと僕の顔など見たくないだろうと思った。そしてそう思うと酷 く胸が苦しかった。
眠れたのかもよく判 らないが気がつくと外は明るかった。昨日先輩が引退したばかりだというのに今日から新チームの練習があった。
「今日は来ないかと思ったよ」
家を出るとまた誠也が待っていた。
外は良く晴れていた。気温はまだそれほど高くなく街はまだ静かだった。誠也が大きく息を吸い、気持ちの良い朝だという顔をした。僕もそう思った。僕の家から学校までは海沿いの道が続いていた。道の先に小さな山がありその中腹に学校はあった。
僕らはその道を真っ直ぐ進んだ。潮風に飛ばされないよう帽子を軽く抑えながら僕らは自転車を漕いだ。少しして山の向こうから微 かにエンジン音がして飛行機が一機こちらに向かって雲を吐きながら飛んでくるのが見えた。快晴の空に白く迷いのない線がすっと引かれていた。
「俺さ真島先輩と話したんだよ」と誠也が話し始めた。「あの時。倒れ込む先輩に駆け寄った時」
「真島先輩」と言う言葉に驚いて僕は彼を見た。そして話の続きを待った。
「『後は頼んだぞ』って言ってた。『任せたぞ、託したからな』ってそれだけ」誠也は飛んでくる飛行機をじっと見ていた。「あの時は俺とか杉山先輩(一塁手)に言ったのかと思っていたけど、あれお前に言ったんじゃないかな」
誠也がそう言い終えると別の方向からもう一機、飛行機が雲を吐きながら飛んできて前から飛んできた一機と僕らの頭上で交差した。そしてそれぞれの目的地に向かっていった。
僕らは足を止めた。
空に描かれた大きなバツを二人で見上げた。
あの時流せなかった僕の涙は今になって溢れて止まらなかった。
そのバツはただそこにあった。何かを否定するためでも、くだらない教えを諭すためでもなくただそこに存在していた。
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昨日、先輩たちは引退した。いや、僕が引退させてしまった。
僕が投げたのはたったの一球だった。一球で試合が終わり、彼らの夢も高校野球も僕が終わらせてしまった。
両チーム
視線を落とすと
「ゲームセット」
ベンチに戻ると主将はいつもの主将だった。僕にタオルを差し出して、声をあげて泣いている先輩らに声を掛けて廻っていた。
僕らは先輩からの最後の言葉を聞いて先輩のいない学校に戻った。先輩の言葉は全く頭に入らなかった。学校にどうやって帰って来たのかもわからない。気がつくと僕は部室にいた。そして同期からの罵声を浴びていた。彼らは「お前の
「お前は俺が良いと言うまで走っておけ」と監督は帰ってくるなり僕に告げ、練習に加わった。
僕は言われた通りにした。監督の指示に不満はなかった。練習に参加しても彼らに合わせる顔がなかったし、当然の罰だと思った。
僕は夜が老けるまで走った。練習は
二十二時を過ぎて、僕の足はようやく止まった。そしてその
「いつまでやってんだよ」
部室に戻ると誠也が待っていた。誠也は二年生で唯一レギュラー入りした
「許してもらえるまで」と僕は言った。
帰ろうと誠也が言うので僕らは二人で帰った。彼は何も言わずに僕を家まで送り届けた。
風呂に入ってもベットに入っても体は休まらなかった。「お前の
そしてふと真島先輩の顔が浮かんだ。真島先輩は8回までを投げ切ったチームの
担架で運ばれる真島先輩に僕は一刻も早く駆け寄りたかったが、監督に「ブルペンに行って準備しろ」と言われそれは叶わなかった。あの時、彼はどんな気持ちだったのだろうか。と僕は考えた。どれだけやりきれない気持ちだっただろうか。そして試合結果を聞いて彼はどんな顔をしただろうか。
きっと失望しただろうと僕は思った。あの時の主将と同じように。きっと僕の顔など見たくないだろうと思った。そしてそう思うと
眠れたのかもよく
「今日は来ないかと思ったよ」
家を出るとまた誠也が待っていた。
外は良く晴れていた。気温はまだそれほど高くなく街はまだ静かだった。誠也が大きく息を吸い、気持ちの良い朝だという顔をした。僕もそう思った。僕の家から学校までは海沿いの道が続いていた。道の先に小さな山がありその中腹に学校はあった。
僕らはその道を真っ直ぐ進んだ。潮風に飛ばされないよう帽子を軽く抑えながら僕らは自転車を漕いだ。少しして山の向こうから
「俺さ真島先輩と話したんだよ」と誠也が話し始めた。「あの時。倒れ込む先輩に駆け寄った時」
「真島先輩」と言う言葉に驚いて僕は彼を見た。そして話の続きを待った。
「『後は頼んだぞ』って言ってた。『任せたぞ、託したからな』ってそれだけ」誠也は飛んでくる飛行機をじっと見ていた。「あの時は俺とか杉山先輩(一塁手)に言ったのかと思っていたけど、あれお前に言ったんじゃないかな」
誠也がそう言い終えると別の方向からもう一機、飛行機が雲を吐きながら飛んできて前から飛んできた一機と僕らの頭上で交差した。そしてそれぞれの目的地に向かっていった。
僕らは足を止めた。
空に描かれた大きなバツを二人で見上げた。
あの時流せなかった僕の涙は今になって溢れて止まらなかった。