15 不都合な事実

文字数 1,740文字

 離婚調停では、それなりに好条件(金銭的にはという意味で)を提示されていたのだが、母は断固として拒否を続けた。
 調停はだいたい月1回のペースで開かれて、母はその度、文句を言いながら出かけて行き、向こうの弁護士の出す条件の気に入らない点を指摘して、怒りながら帰ってきた。
「絶対に合意なんてしないから」
 なぜかいつもハイテンションで、勝ち誇ったように言い、お気に入りの赤ワインのボトルを開けた。昔から母がよく飲んでいたそれはカベルネ・ソーヴィニヨンで、けっこう値の張る――わが家には不釣り合いな――銘柄だったと、あたしはややあとで知ることになった。

 裁判に持ちこめば、勝てる。離婚は認められないと、母は踏んでいたようだった。
 二人の間には未成熟子(あたしのことだ。夫婦がリコンしていいかどうかの判断要素にされるなんてまったくもって不快だった)がいるし、母的には〝外に女をつくって不貞を働いていた夫が有責配偶者〟なのだから、向こうの主張が認められるはずがないと高をくくっていたらしい。
 けれども、法律は素人の浅知恵で都合よく利用できるものなんかじゃなかった。
 調停はさんざんもめて、その年の末に不調に終わった。
 年が明けて間もなく、また裁判所から通知が届き、今度は裁判で争われることになった。

 裁判では調停とは違い、父の側は容赦(ようしゃ)なく〝事実〟を母に突きつけてきた。
 母が10年以上も前から父との性交渉を〝生理的に嫌だ〟という理由で拒んでいたこと(父の日記が証拠として提出された)。
 母は5年ほど前から父の稼いだ金を湯水(ゆみず)のように使っており、父が気づいたとき(あたしが中学3年になるころ)には預貯金がゼロになっていたこと。何度注意しても金遣いは改善されず、さらに母は父に黙ってキャッシングを重ね、その返済のために、父の実家から支援を受けねばならない状況になっていたこと(通帳や金融機関の書類が証拠として提出された)。

 カベルネ・ソーヴィニヨンもそうだけれど、母は肉や野菜をはじめ、日用のこまごまとした消耗品、あたしの服や靴、自分のバッグや装飾品まで、とにかく高価なものを選んで買っていた。バーゲンとかじゃなく、ほぼ定価で。あたしの習い事(小学生のころから続けているバレエ、ピアノ、英語)のお金も、相当な額だった。それらの事実は、クレジットカードの明細などから明らかにされた。
 あたしの高校の入学式の夜に、派手にやっていた夫婦喧嘩(ふうふげんか)の録音も出された。母が離婚を承諾し、翌日からの別居に同意していたことの証拠として。
 ダメ押しで、別居後に母が父に送ったおびただしい数の金の要求メールが、父の携帯の受信画面の写真という形で提出されていた。

 一方、母はといえば、弁護士に相談もせず、自力で(のぞ)んだ。
「だって、負けるはずがないじゃない?」
 自信満々で笑っていたが、実のところ、
《あなたと裁判で争います。こちらの弁護士料100万円、振り込んでください》
 というメールを父に送り、無視されたのだった(ついでに、そのメールも追加の証拠として父側から提出された)。
 母は、父が不貞行為をしているとして、相手の女の名を主張したが、証拠はなかった。
 やがて父側の弁護士から、その女の人が3年前にアメリカ人と結婚し、渡米したこと、母の主張は単なる憶測(おくそく)で事実無根であり、ゆえに、その女の人から母が名誉棄損(めいよきそん)で訴えられる可能性すらあることが告げられた。

 あたしには一度、父からこっそりメールがきた。
《お父さんは、容子の親権を望んでいます。容子の気持ちはどうですか。弁護士は、お父さんが親権を取るのは難しいかもしれないと言っています。日本では母親に(たとえどんなに経済力がなくても)親権を与える傾向があるからです。でも容子の意思があれば別です。お父さんか、弁護士にでもいいので連絡をください》
 読んだときは、携帯を叩きつけたくなった。どうしてだかはわからなかったが、猛烈(もうれつ)にむしゃくしゃした。
 でも一応、あたしは多少は悩んでみた。けれどもどうでもよくなって、結局、連絡はしなかった。
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