前編

文字数 2,028文字



 初めて浴衣に袖を通した時のことを覚えている。

 仄かに石鹸の香りが漂う湯上がりのさっぱりとした肌に、さらりとした生地の感触が心地好かった。

 祖母は、彼女が仕立てた朝顔の模様の浴衣を着た孫の私を、目を細めて眺めては、奈っちゃんも、少うしお姉さんになったねえと言って、嬉しそうに笑った。

 五歳の夏だった。

 その晩、一回り歳の離れた従姉に手を引かれ、着慣れない浴衣の歩幅に戸惑いながら、家の近くにある神社の境内で催されている夏祭りに、いそいそと出掛けていった。

 真夏の夕刻のことだから、辺りはまだ充分に明るい。

 ただ、ギラギラと暑い真昼の濃密な明るさが、咲き乱れたノウゼンカズラなら、涼しい夕風が出てきた日暮れ時の明るさは、清楚な色合いのキョウチクトウといった感じだろうか。

 その頃、夜八時には寝かし付けられていた私には、風通しの良い浴衣を着て、歩く度にキュウキュウと可愛らしい音の鳴るキティちゃんのサンダルを履き、その上憧れの優しい従姉と連れ立って出掛けるなんてことは、何だかとっても大人になった気分がしたものだ。

 今夜はいつまでも起きていていいよというお許しを、勝手にもらったような気になっていた。

 普段見慣れている近所の遊び仲間の家の生垣も、余所行き顔で取り澄ましているように見え、これから大人の時間の入口へ向かうのだという気持ちで、わくわくした。

 蛍のようにぼんやりと光る提灯で飾り付けられた神社の境内には、様々な夜店がひしめき合っていた。

 綿飴やりんご飴、チョコバナナなどの甘い匂いと、焼きそばや焼きとうもろこしなどの香ばしい香りが綯い交ぜになり、辺りに立ち込め、金魚掬いやヨーヨー釣りなどの夜店からは、賑やかな笑い声が響いてくる。

 まるで駄菓子屋の展示会場のような、夏祭りの雑多で浮かれた雰囲気に興奮した私は、出資者である従姉をあっちこっちへ引っ張り回し、心行くまで夜店巡りを楽しんだ。

 やがて空にインクが染みていくように、紺青色が深まっていく頃、私は頭にキティちゃんのお面を斜に引っ掛け、口の周りをりんご飴で真っ赤に染めて、手には綿飴の入ったピンクの袋を、ほくほく顔で抱えていた。

 従姉が、もうそろそろ帰ろうか、と宥めるように口にした時、私はイヤイヤとかぶりを振り、彼女の手を振り解いて、金魚掬いの夜店の前にしゃがみ込んだ。

 とっておきの楽しい夢を、まだ終わらせたくはなかったのだ。

 頑なにその場から動こうとしない私に、気の優しい従姉がほとほと手を焼いていたその時、不意に「由里!」と従姉の名を呼ぶ声がした。

 振り向くと、高校生くらいの男の子が二人、行き交う人波の中で、意外そうな表情で立ち止まっていた。

 従姉も軽い驚きを隠さずに、彼らの名を呼んだ。

 彼女の同級生らしい彼らのうちの一人が、意味ありげな目配せを交わして、もう一人の男の子を残して、雑踏の中へと消えた。

 残された男の子は、従姉に何やら囁き掛けていたが、彼女は私の方をちらりと見て、残念そうに首を横に振った。

 それでも尚も男の子は、彼女の腕を掴んで、何処かへ誘うような素振りを見せている。

 従姉は少しの間迷っていたけれど、とうとう観念したのか、私の掌に百円玉を二枚握らせると、此処で良い子で待っているように、すぐに戻ってくるからと言い置いて、その男の子と連れ立って、神社の裏手へ消えてしまった。

 私は保護者代わりである従姉が、知らない男の子と何処かへ行ってしまって、独りぼっちにされたことよりも、掌の中の百円玉の使い道の方が気になった。

 結局、金魚掬いを二回やり、一匹の小さな金魚を手に入れた。

 水で膨らんだ透明なビニール袋の中を、戸惑ったように右往左往する、紅玉色に光る宝石。

 早速金魚を見せようと、従姉に言われたことなどすっかり忘れて、金魚掬いの夜店を離れ、二人が向かった神社の裏手へ回った。

 夏祭りの喧騒が遠くに聞こえるそこは、お化け屋敷のように暗くて湿っぽく、全く人気はなかった。

 次第に周囲に立ちはだかる木々や茂みが、恐ろしい怪物のように思えてくる。

 湿った土の匂いの漂う墨色の闇が、ひんやりとのし掛かってくるような気がして、息が苦しくなった。

 そのうち恐怖に耐えかねて、半べそをかきながら、従姉の名を呼んだ。

 「由里お姉ちゃーん‥…何処? 由里お姉ちゃーん!」

 すると、その呼び掛けに応えるように、近くの茂みがガサガサと音を立てた。

 一瞬ビクッとした私は、そこから彼女が出てくるのを、恐る恐る待った。


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 ・・・ 水中花火〈後編〉へと続く ・・・

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