いのちのはての

文字数 1,937文字

「金と女は追うもんじゃねえ。どっちも忘れた頃に、向こうからやってくるもんだ」
 俺の言葉じゃない。あの歯抜けジジイが言ったんだ。本人曰く俳人で、号は狸人(りじん)と言うそうな。確かに狸が人に化けそこねたような面をしている。

 あの頃の俺はいわゆるジリ貧というやつ、やることなすこと裏目に出て、ついににっちもさっちもいかなくなった。ところが、一切のあがきをやめて開き直った途端、逆に身体がぽかりと浮いた。泥まみれで眺めた空の青さが目に染みたっけ。

 ジジイはその日、俺を薄汚ない居酒屋へ案内した。
「これで当分は首を括らずに済みそうか」
 抜けた歯の間から洩れる言葉に、それでもジジイなりの心遣いが滲んでいた。
「今日はおごってくれるんだよな」
「おう、遠慮なく湯豆腐を食え」
「湯豆腐? いくらなんでもしみったれすぎじゃねえのか」
莫迦(ばか)野郎。今日はお前に、湯豆腐の味ってのを教えてやる。湯豆腐は人生の味わいなんだ」
 やがて店の親父が、湯気の立つ四面四角な白いものを俺たちの前に置いた。

 湯豆腐や いのちのはてのうすあかり

「それ、爺さんが詠んだ句かよ」
「お前は何も知らないんだな。久保田(くぼた)(まん)()(ろう)って昔の文士が詠んだ句さ」
「へえ」
 いのちのはてのうすあかり。俺は何の学問もない人間だが、それでもこの言葉は胸に染みた。そして、あの晩の湯豆腐ほどしみじみ旨いものを俺は後にも先にも食ったことがない。

「金と女は追うもんじゃねえ。どっちも忘れた頃に、向こうからやってくるもんだ」
 この言葉も、あの晩のジジイが言ったのだ。
「人生には潮目ってもんがある。潮目が逆に出てる時は何やっても無駄さ。もがけばもがくほど深みにはまって、最後は溺れッ()ぬのが落ちよ。そういう時はな、ただひたすら潮目が変わるのを待つしかねえのさ」
「金の方の潮目は変わったが、女の方はどうだろう」
 ジジイはふん、と鼻を鳴らした。
「当分はシノギに精出すこった。お前みたいなやつが女に関わると、ロクなことにはならねえ」
「その心配はないさ。なにしろ夜道で俺を見ると、女は慌てて交番に駆け込むんだからな」
 ジジイは笑わず、ぼそりと言った。
「気をつけろ。お前には女難の相が出ている」

 女難の相。
 悔しいが、ジジイの言葉は全部ぴたりと当たるんだ。
 あの日から僅か三月後、俺は女と手に手を取って逃げていた。しかも、腕に一発やられている。布で硬く縛っても、血がなかなか止まらない。

 女は俺が死んじまったみたいにぴいぴい泣きやがる。俺は女を叱りつけ叱りつけ、とにかく港を目指した。港では漁船とジジイが待っている手筈だったが、もしいなければ俺と女は一巻の終わりだ。

 なぜこんなやばい橋を渡っちまったのか。
 両親の工場がうまくいかなくなって、娘が借金のカタに売り飛ばされる。いつの時代だよって話だが、いくら自己破産を申告したって借金取りはあの手この手で逃がさない。法律が弱い者を守るためにあるなんて、そんなのは嘘っぱちさ。
 キャバクラで初めて見た時、どうも笑顔が(はかな)げな女だと思った。それから何度か通って馴染みになったんだが、ある日、昼間に店の外で見かけちまった。雑居ビルの間の小さな祠の前にしゃがんで、こいつは一心に両手を合わせていた。その肩の薄さとうなじの哀しい白さに、俺は柄にもなく惚れちまったんだ。

 こいつの身体には縄がついていて、その先は怖いお兄さんたちに握られている。ジジイも一瞬絶句したほどの危険な連中。女は泣きながら、キャバクラよりもっと稼ぎになるところに売られることになったと告げた。それで何かに祈らずにはいられなかったのだ、と。

「おい、腕をやられたのか」 
「掠り傷だよ」ジジイがいてくれたことに、俺はその場にへたり込むほど安堵した。
 ジジイは紙袋を俺に差し出す。俺は黙って受け取り、こちらも紙袋を手渡す。ジジイはざっと紙袋の中身を改めて、「毎度あり」とほざいた。

 俳人が聞いてあきれる。ジジイの本業は、これ。偽造パスポート。それ相応の金額を払えばちゃんと作ってくれる。偽物に

ってのもおかしいが。
「今度会った時には、俺が湯豆腐をおごるよ」
「いいからはやく行け。こっちもぐずぐずしちゃいられねえんだ」
 事情を理解したらしい女が、何度もジジイに頭を下げる。前には女に気をつけろとか言ってたくせに、ジジイは最後にやさしい声で女に言った。

「こいつは大莫迦野郎だが、お前さんを泣かせることだけはしねえ筈だ。もっとも命があればの話だがね」

 こんな場合だが、俺はちょっと笑った。笑うしかないだろう。いのちのはてのうすあかり。その微かなあかりに縋り付いて、行けるところまで行くしかない。人生ってのは、まったくしみったれた三文芝居だ。でも、どこかたまらなく愛おしい。
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