夕顔が咲いてるから、
文字数 1,611文字
夕顔のような人だった。
ずっと
下校途中に遠回りして、なんなら一緒に帰っていた友だちすらまいて、僕はその家の前を通り過ぎたものだった。
涼しげで、でもどこか憂いげで、夕方のひとときに庭の水やりをしている。
その姿に、僕は初恋を覚えた。
理科の教科書に載っていた写真にそっくりな実がなっていたから。
かってに瓢箪だと思いこんでいた。
授業で使うから。
そんなみえみえの嘘をついて、瓢箪をわけてもらえないかと声をかけた夏。
少しだけ戸惑って、「これは夕顔といって、瓢箪の仲間で、瓢箪ではないのよ」と透き通った声で彼女は言った。
僕はなんと返しただろう。
そうですか、とか、そんなありきたりな言葉を述べたに違いない。
彼女は庭に招き入れてくれて、どきどきしながら僕はそれに従った。
どのように瓢箪と違うのか、なにかたくさん教えてくれたように思うのだけれど、僕はただあいづちを打つだけの人形になってしまったように肯定を繰り返しただけだった。
「見て、ここに」
差し伸べられた手の先には青い花。
低学年のときに栽培した朝顔のようだったけれど、夕方に咲くから夕顔なのだと告げられて、そこだけ記憶に留まっている。
「夕顔が咲くとね、雨が降るの」
瓢箪にそっくりな細長い実をひとつ切り取りながら、お姉さんは言った。
「だから、もう帰ったほうがいいわ」
そういって、僕の腕よりも太い実を持たせてくれた。
僕は礼を言って、言いつけ通りに走って家に帰った。
通り雨が過ぎたのは、僕が自室に入ったときだった。
その後も何度も家の前を通っては、挨拶を交わした。
「今年取れたものだから、咲くと思うのだけれど」
そう言って、夕顔の種をいくらかもらった。
「咲いたら、教えてね」
その微笑みに僕は黙ってうなずいた。
結局僕がその約束を果たすことはできなかった。
市営住宅が当選して、違う学区に引っ越してしまったから。
もらった種はお守りのように机の引き出しにしまっていた。
咲かせてからでなければ会いに行けないとも思っていた。
けれど、もったいなくて、土に埋めることもできなかった。
結局僕がそのことを思い出したのは、大人になって、就職が決まって、実家を出るというときだ。
机の奥の奥から出てきた小箱を開くと、ティッシュに丁寧にくるまれた白い種。
僕はそれを実家の庭に埋めた。
そしてかつて住んでいた地域を訪ね、小学校から記憶をたどってお姉さんの家を捜した。
記憶にあった家はもうなくて、そこには違う家、違う表札があるのみだった。
「あんたが埋めた種、芽が出たよ」
母から電話が来たのは忙しさに慣れてきたころ。
僕は一瞬なんのことだかわからなくて沈黙したけれど、意味がわかったときには「嘘でしょ?」と言っていた。
「ほんとだって」
送られてきた写真を見て、どうか大切に育ててほしい、と頼んだ。
夏に帰省したとき、記憶のなかにあるよりもずっと貧弱な夕顔のつるが庭にあった。
それなりに可愛がられて育てられているようだ。
母はそれを僕の名で呼んでいるらしい。
「知ってる、母さん。
夕顔が咲くと、雨が降るんだよ」
受け売りの言葉を僕は呟いて、小さな株を鉢に植え替えて持ち帰った。
母は信じていなかったけれど、あるとき「本当だねえ」とメッセージがあった。
実を言うと、もうあの女性の顔は思い出せない。
僕の初恋は、青い花弁のイメージの向こう側にある。
優しい声と、どこか憂いを含んだ雰囲気と。
それでいいのだと思う。
一人暮らしの窓辺にある青い花弁に、僕は「咲きましたよ」と呟いた。
昨日からあいにくの雨だった。
それでもきれいな夏の日だった。
幼い頃の美しい記憶を、きっと僕は夏が来る度に思い出す。
そんな消えない宝ものをくれた女性に感謝をしながら。
――夕顔が咲いてるから、明日も雨が降る。