(Ⅲ)なぜ別の道へ進んだのか
文字数 4,833文字
漫画、アニメ、ゲーム、小説、映画などが好きだけれど、創作物・表現とは関係のない仕事についた方。
その理由や想いなど、思うところがあれば書いていってください。愚痴でもOKです!
人間、誰でも向き不向きがあるので。
自分の場合、職業に選択肢があったから、だと思います。
>>『仕事は何でもいい』と考えられる人間は少数派
まさに自分は、好きなこと以外したくない、というか働きたくない働くの怖い派ですね。
選択肢ですか。
どういった選択肢から、なんの仕事を選んだのか聞いてもいいです?
とは言っても現在は無職です。転職しようと思ったので。
次の仕事は決まりつつありますが、会社の偉い人が言わないでって言ってるので答えられませんねえ。
店員という仕事が苦手な身としては、一般的な仕事がなんでもできると思えるのは、凄い事に感じます。
初書き込み、本太郎です。
>漫画、アニメ、ゲーム、小説、映画などが好きだけれど、創作物・表現とは関係のない仕事についた方。
その理由や想いなど、思うところがあれば書いていってください。
大きく遠回りをして、好きな事をはじめてみた私です。
ラノベは読みませんが、昔の昭和時代に青春を送った身としては、平成ヤングアダルト文学の変化に驚いています。映画やテレビの「日本沈没」を見て感銘を受けた世代としては、喪失感が大きくて悲しいです。
ああした近未来SFは、サスペンスの舞台設定以外に役目が無いと感じています。
とても漫画やゲーム、ハリポテの影響が強い世界感で構成されているのですね。
もう昔ながらのSFファンタジー作品に住処が無いように思います。
需要の無い世界感に向けて書いても反応の欠片も無いみたいで、ちょっと寂しいですね。
純文学も需要が無いし、エンタメ小説を書くにもとても大きな才能が必要なで、執筆に尻込みしています。これからジュニア文学は何所へ流れるのか、立ち消えるように消滅するのか気がかりなのでした。
俺からしたら凄いのです(`・ω・´)
>>昔ながらのSFファンタジー作品に住処が無い
あえていうなら、映画ならまだ……というところでしょうか。
書きたいものを書いても、需要がなく反応がもらえないというのは難しいところですね。
主張
生き方が選択できるようになれば二次元は役割を終える
現実世界で叶わない望みを二次元で補っているのだと思います。
根拠としては弱いかもしれませんが、インターネット上で異世界転生が流行っているのは『生きたいように生きられないから』であることが原因ではないか、と愚考します。
生きる方法を選択できない人が二次元を見るのであって、社会が豊かになり人々が生きる手段を選択できるようになれば、二次元を見て自分を慰める必要もなくなります。
自分の主観としては社会全体は今後貧しくなっていくと思いますが、生きたいように生きる人は増えてくると思います(情勢はさておき社会全体の空気がそんな感じなので)。
現実で好きなことが出来るのに、わざわざ二次元で見たいものを見る、というのは変ですよね?
(とはいえ自分自身は二次元の生産者なので好きで見ています。こういう二次元自体が好きだ、という人々は0にはなりません)
好きなことして生きていく。というのが第一になればポルノである二次元は役割を終えます。
そういう意味で二次元がオワコンになる、というのは社会にとって望ましいことなのでは?
この理屈でもう少し話をすると、二次元というポルノを成立させていこうとすると、生き方を選択できない人を増やしていくしかないのでは?
末尾
主観でしかないので、ぜひ反論を募集しております!
こちらは、自然科学や観測がベースにあるためにそう感じるのかもしれませんが、夢と現実が入り混じった、「夢のようなもので出来ている」(シェイクスピア)の二次元はやはり優れているとそう素朴に感じます。
本太郎です。
映像用の脚本制作ですが、シナリオコンペがあるので毎年何稿か投稿をくりかえしているのです。
小説の世界と同じく、新人を求めているので書いています。
そもそも映像系の劇団で芝居を初めて、そこで映画やドラマの監督やプロデューサー、演出家の先生に指導を受けました。そこで稽古用に台本の抜粋を初めて見た時に、自分も描いてみたいと思いました。ですが何をどうすればいいのか分からなかったのです。
そこで其方系のワークショップがあると知って、各所に行きつつ脚本術も同時に学んだのです。
しかし自分の面白いと思った作品は、他人が読んで面白くないとか、意味不明と言われる世界です。
指導者は書き上げた作品を読んでもくれません。芸能界は冷たい世界です。
そこで小説なら誰か不特定多数に読んで貰えるかもと思い、更なる勉学が始まって今に至るのです。
しかし大きな落とし穴が開いていたと、最近知って茫然自失しています。
近年は更に漫画の方が作品を理解して貰えると考えて、昨年から漫画も勉強し習作を描き始めました。
小説と漫画は参考書や指南書を読んで、独学で学んでいます。
辿って来た道は違いますが、小説や脚本、マンガは、書いて面白く辛い作業だと知ったのでした。
こんなところです。
持論ですが2次元の役割論です。
10年以上物語を描いて理解できたのは、空想や夢も全てが現実の世界を元に構成されます。
そうでない文学昨品を読んだ経験がありますが、まったく理解できませんでした。
抽象絵画と同じで、感性が似通っていないとビビットしません。
この違いは文章を読んで解釈する物差しが違うからですね。
話し言葉ですと、漏れが生じて何となく伝わったりもするようです。
仕事で精神病院に行ったことがありますが、入院患者の方々は自分の世界に浸り切って生きていると分かりました。行動や言動に芸能関係者や芸術家の方々も似た傾向があると、時間を共にしながら理解した事実です。それで自分の脳内にある現実と、見えている現実の融合が芸術芸能だと理解した次第です。
ライトノベルも一時期勉強の教材にしようと書店に行って手に取って見ましたが、知らない単語だらけで意味不明になったのです。これはネット用語や、JC.JKの共通語と同じで、同じ世界にいないと理解できないと分かりました。いちいちネットで単語検索しては、読み進められないと諦めました。
昭和のSFやファンタジーも思い返すと専門知識が無いと読めない品物でしたね。それで絶滅したのかと考えたのです。
専門的な読者は作家について来てくれますが、日和見な一般読者はそっぽを向きます。流行に敏感なのは同調圧力に従いたい群れ意識だと、心理学の勉強をして知ったことです。ですからヒット商品と売れない商品の格差が大きく開くと知りました。
皆がなりたい、欲しいものが必要なモノで、特定の人が欲しい者は要らないモノです。有名人の持っているものが正解で、無名人が大切にしているモノはゴミです。それが社会心理学なので、需要が無い品は良い品でもゴミなのですね。それが悲しい私なのです。
成りたいモノになれたとしても、欲しい物が手に入っても、もっともっとと思うのが人間の特性のようです。欲しい自分になれないから書き続ける原動力なのだと理解できるようになりました。
自分の考えをこうして読んで貰えるのが嬉しい感じがするのが、自己承認要求の特徴だそうです。だから書ける力、書き続ける理由になるみたいです。
ここでいう二次元はよくイメージされる二次元のことだと思いますが、みんなで遊べるパーティゲームも二次元だし、ドラゴンボールも二次元だし、社会や人々の考え・暮らしが変われば流行りも変わっていく。
という感じじゃないですかね。
なので、流行や最新の技術にあわせていくのも手だと思うんです。技術で言うなら、ARとか……。
>>小説や脚本、マンガは、書いて面白く辛い作業
本気でやる以上、面白くて辛いと感じてしまうのは仕方のないことなのかもしれないですね。
それでも書き続ける人間は、書くしかないのです。
>>他人が読んで面白くないとか、意味不明
よく言われるのは、その「他人」が誰なのかという話ですね。
つまり、「誰に向けて書いているのか」――作品のターゲットを明確にすることが大事です。
「作品を理解して貰える」ではなく、「○○を求めている人が好む作品」を書く。
それを踏まえつつ、その上を行く要素を持つ作品が、オリジナリティであり、成功していくのではないかと思います。
逆に言えば、有名になれば、好きなものを書いても一定の需要があると思います。
そこらへんの人が自販機の写真を撮ってツイッターにアップしても反応は得られません。しかしヒカキンだったら、そこらのへんの自販機の写真をアップしても、反応をたくさん得られます。
その地位にいくまでは、求められているものを求めてられている以上のレベルで作り、登るしかないのだと思うのです。
>>欲しい自分になれないから書き続ける原動力
これはよくわかります。
なるまでが辛いけど、ならないと幸せになれない。でも、なったとして上には上がいるし、果たして本当に幸せになれるのか。けど、なるしかないんですよね。
需要があれば、座談会後も雑談や意見交換のできる場を用意します。
>>小説や脚本、マンガは、書いて面白く辛い作業
これは正鵠を射た意見かと思います。
本を書き上げるという行為はかなりしんどいものです。
では、なぜやるのか?
それは形になったときの快感が、読んでもらった時の興奮が、なにものにも代えがたいものだからだと思います。
個人的にはそう思っています。
私の場合は、とりわけ編集者から「あ、できましたよ。見ます?」みたいな軽いノリで送られてくる、本の表1データを見た時に「ゾクゾクっ!」ときますし、発売前に送られてくる献本を手にしたときにまた人知れず興奮で打ち震えたりしています。
なので、私としては「産みの苦しみ」を耐えてでも、「産む喜び」をまた味わいたいんだなと解しています。
座談会と切り離した状態でどこまで需要があるかはわかりませんが、あっても邪魔になるようなものではなし、ひとまず立ててみるのもいいかもしれませんね。
過疎れば、次回はまた座談会のときに立てるって感じにすればいいですしね。
作品の最後に「了」と入れた瞬間の喜びは何ものにも代えがたい感覚ですね。
その作品に関し、神として「原稿の世界へ」降臨したわけですから。
たとえ他者にとって「役に立たない、疫病神」としてでもです。
この感覚は物語を作った経験の無い人には、まったく理解できない喜びでしょうが……。
ご自由に使ってください
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