第1話

文字数 1,995文字

 夢うつつに、りんと響く鈴の音。
「今晩は」
 宿酔(ふつかよい)(こら)えつつ男が(まぶた)を開くと、瓜実顔の若い女が己の顔を覗き込んでいる。驚いてはね起きた男は、(あわせ)一枚の身を二月の寒気にぶるっと震わした。
「幽霊……、じゃあねえな」
 月明かりの影から時は丑三つ頃か。男はしどけなく座った女の白い脚を見て、精一杯の軽口を叩く。
「稲荷の鬼さ。ダキニと呼んどくれ」
 女は美しい目を弦月の形に細めた。
「おまえさんの精を、あたしに分けておくれでないか」
 ――どうする。
 男は酔いが抜けぬ頭で、ぼんやり思案をめぐらせた。
 四十を過ぎても気ままなやもめ暮らしの浪人上がりが、酒を飲んで高鼾(たかいびき)をかいていたところに現れた美人など、物の怪でないほうがおかしい。しかも、鬼といえども女であるから、一度の縁が二度三度と重なっては己の命も危うかろう。
 男はやや沈黙して、ダキニに言った。
「今はいけねえ。具合が悪い」
「いつなら、いいのさ?」
「明後日の、暮れ六つ」
 むろん苦し(まぎ)れの出任せである。明後日までに身を隠してやり過ごしていれば、そのうち女も(あきら)めるだろうという浅知恵だ。
 果たして、ダキニは少し考える風を見せた。
「おまえさん。逃げるつもりじゃないだろうね」
 ダキニは胸元の帯から(うぐいす)の根付を抜いて、男の鼻先にぶら下げた。
「おまえさんがどこかへ行くと、この根付の鈴がりんと鳴る。あたしはおまえさんの居場所がわかるんだからね」
 固唾(かたず)をのんだ男を見下ろし、ダキニは立ち上がる。
「じゃあ、明後日の暮れ六つに」
 同時にダキニの姿は消え、呆気にとられる男の足元から、一匹の女郎蜘蛛がすうーっと糸を伝って天井に上っていった。

 朝を迎えた男は、酔いが抜けるにつれダキニへの恐ろしさが先に立ってくる。
 あの根付があるかぎり、おれは逃げられねえからダキニに食われちまうだろう、とくよくよ思い悩むうちに一日が経ち、約束の日の昼には目利きの仕事にも身が入らぬ有様となった。
(りゅう)さん。顔色が悪いようだが、何かあったのかい」
 男の様子を心配して声をかけたのは、雇われ先である古道具屋の若旦那だ。
 この若旦那は物知りの上に知恵者であったから、男から一部始終を聞き終えるなり、なんだと一笑に付した。
「そんなの、ダキニから鈴を盗んじまえば済むじゃあないか。あんたなら、鬼を酔い潰すくらいわけはないだろう」
 あっと男は膝を叩いて合点した。
 男は朝昼晩に各一升、一日都合三升飲むほどの蟒蛇(うわばみ)であったから、相手が鬼とはいえ、酒に酔わせれば鈴を盗む隙も生まれよう。
「なるほど、そいつぁ妙案だ」
 命拾いの算段がついた男は、若旦那に礼を言うと仕事帰りに酒を買い、長屋の四畳半で(かん)酒を飲みながら、ダキニが来るのを待つことにした。
 日が落ちて、暮れ六つの鐘が鳴ったと同時に、ダキニがまた男の前に現れた。
「約束通り、精をもらいに来たよ」
 ダキニの前で落ち着き払った男は、酒を注いだ猪口(ちょこ)を差し出す。
「まぁ、一杯つきあいねえ。三三九度(さんさんくど)の真似事だ」
 ダキニは一瞬いぶかしげな顔をしたが、男が今更何もできまいと(あなど)ったのか、出された酒を素直に飲み干した。
「あぁ、いい飲みっぷりだ。もう一杯」
 男は巧みにおだてつつ、ダキニに二杯三杯と杯を重ねさせてはほくそ笑む。
 果たして、四つの鐘が鳴る頃には先に酔いが回ったダキニが、赤い顔で襟をくつろげてうとうとと眠りだした。
 ――しめたっ。
 男が例の根付を奪おうと、ダキニの側に動いたそのときだ。不意にダキニの目がぱちりと開いた。
「やっぱり、鈴を盗むつもりなんだね」
 男が何か言おうとするより早く、ダキニが古畳の上に突っ伏して嗚咽(おえつ)を始めた。
「あたしはここの氏神で、おまえさんに惚れていたのさ。一度だけ抱いてもらいに来たけれど、怖がられては立つ瀬がない。ーーさあ、その鈴を持って逃げちまいな」
 そう語るダキニの涙を男は尊く思った。世に女は数あれど、若さも金もない根無し草のために涙を流し、(まこと)を見せてくれた女は今までいない。男は、女の真心を疑った己を恥じずにはいられなかった。
「ごめんよ。おれは……」
 と、優しく肩を抱いた男の首筋にダキニがいきなり、がぶりと食らいつく。男は首から体中の血が抜けてゆく心地に気を失った。
「……おまえさん。朝だよ。起きとくれ」
 掻巻(かいまき)の中で目を覚ました男の顔を、丸(まげ)と剃り眉も愛らしい恋女房が覗き込んでいる。
「うなされていたが、悪い夢でも見たのかえ」
 明るい朝の光と、女房がこしらえた朝餉(あさげ)の匂いに男は安堵する。
「夢の中で、おめえと瓜二つの鬼に食われかけたぜ」
「ああ、いやな夢。そら、早く顔を洗ってきておしまいよ」
 男は促されるまま、夢のことなど忘れた様子で外に顔を洗いに出ていった。
 その背中を見ながら、女房がぽつりと呟く。
「あのとき、食う気でいたんだが……。食われちまったのは、(あたし)だったねえ」
 女房の胸元で根付の鈴がりんと鳴り、これにてお終い。
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