第12話 湖上にて

文字数 3,909文字

 わたくしにもひとつやふたつ、怖い目にあったことがございます……ないようで、あるもんでございますな……今日はそのうちのひとつをお話ししたいと存じますので、どうか御静聴願います。

 舞台はわたくしの田舎、この間、釣りに行ったときの話をしましょう。ええ、わたくし、釣りが好きでして……ああ、御存じですよね。いやア、笑っちゃ怪談になりませんよ……いや、いや、……釣りの話は最低限にとどめますから。

 では気を取り直して……わたくし、仕事が休みになるたび、あちこちに出かけては釣糸を垂れとります。朝早くから出かけて日が暮れる頃まで家に帰らないこともございますし、たまには夜釣りにも参ります。わたくしが留守していると、女房が喜ぶもんで……。

 場所は……節操のないことながら、どこでもよいのです。渓流を登っていったり、海でも湖でも舟を浮かべたり……わたくしの田舎のいいところは、海もあれば湖も川もあるから多彩な釣りが楽しめる。太公望にはよいところです。釣れても釣れなくてもいい……いいえ、ほんとです。本当ですよ。

 人によるんでしょうが、わたくしの場合、釣りの醍醐味をこんな風に考えとります。

 ひとりでぼうっと魚がかかるのを待つ……待っていると、何だかじぶんというものがだんだん曖昧になって、周囲の空気の中に溶け込んでゆく……このままいけば、じぶんがなくなってしまうんじゃないか。錯覚に過ぎんのですが、そんなことがたびたびあるんです。これが醍醐味……。

 いえいえ、寝てない、寝てない。眠りに落ちるのとはちょっとちがいます。意識はわりとハッキリしてるんです。まわりで何が起きているかも、ちゃんと分かっています。気づいたら魚になっていて、釣り上げられたとたん、はッと目を覚ました……なんてことがあったら、何やら『荘子』の一篇じみて参りますけれども、幸か不幸かまだそんな経験はございません。

 いやいや、不快なことは決してなく、むしろ心地よいくらいのものです。春の終わりや秋の初めの天気がよい日、そこに微風が加われば最高です。

 それで……この春のことです。五月の初め、十日頃でしたか……やっぱりその日もよく晴れて暖かく、そよ風が吹いていました。絶好の釣り日和です。

 わたくしは当別湖の大沼の方にボートを浮かべて、釣りをしておりました。大沼と小沼とあって、小沼の方にはよくクマが出るんでいきません。

 女房に弁当をつくらせて、日の出と同時に出かけたんですが……いやア、肝心の釣果の方はサッパリでした。ヒメマスが二尾か三尾……そんなの、釣りのうちに入りやしません。

 だいたい、釣果第一の人ならば同じように出かけていったら、もっと釣っていたでしょう。トロいからだ? はい、全くそのとおりでして……そのときも、やっぱりボオーッとしとりまして、竿をあげると餌が食われている、でもいつ喰われたかはわからない……とまあ、こんな体たらくでして。

 そのうち腹が減ってきたので、舟縁に竿を固定しておき、弁当をつかいました。時計を見るとちょうど昼頃、お日様はほぼ真上にあって、風はあっても湖面に全く波が立たない程度。ぬるま湯にじっと浸かっているかのように、非常に心地よい。

 弁当を平らげてからは、お茶を飲みつつまた竿を取ったんですが、しばらくたつとまた、だんだん……ともすれば、じぶんが周囲のさわやかな空気に溶け込んでしまうんじゃないかって境地になってきました。

 ああ、こりゃ極楽だ。気持ちがいい。じぶんが、溶けてゆく……こんな夢うつつの状態がずっとつづけばいいのに……そう思いますけれども、うまくいかないもので、やがてハッと我に返る瞬間がきます。いいえ、毎度のことです。残念ながら……身体がビクッとして、ああもうちょっとで、じぶんというものが周囲の空気の中に、完全に溶け込むところだったのにと、残念になります。

 おそらくは、その一歩手前のところだったと思います。

 バンと音がして、同時にわたくしは弾かれたようになって現実に引き戻されました。初めは魚がかかったかと思って釣糸を見ましたが、力なく揺れているのみ、何の異状もありません。何かぶつかったんじゃないか……じぶんの膝の前に何気なく目をやったところ、思わず叫んでしまいました。

 白い手がふたつ……舟縁をつかんでいたんです。

 いえ、もう身をかたくして、そのまま見守るしかありません……どうしてよいものか全く分からない。はい、はい……確かに手袋と見間違えたのかと。

 でも、動いているし、関節をこう曲げて、力を込めている。船縁をガッチリつかんでいました。小さいし、指も細いし、こりゃあ女性の手です。指輪? 指輪はそうですね……はめていなかったと思いますが……いや、よく分かりません。はめていたかもしれません。

 どれくらいたってからか、じぶんが荒い息をしているのにふと気づいて、それと同時に身体が動かせるようになりました。余裕が出てきたからでしょうかね、こんな考えが浮かんだんです。

 溺れた女がたまたまわたくしの舟のそばで息を吹き返して……慌てて船縁をつかんだのかもしれない。もしそうなら助けてやらねば、と。そこで恐る恐る船縁の向こう、水面下を覗き込んだところ……。

 あったのは、腕だけだったのです。白い腕が二本。いや……綺麗なもんでしたよ、水は。当別湖は、最深部で二メートルくらいでしたっけ。底の藻がゆらゆら揺れていたり、小魚が泳いでいたりするのがハッキリ見えましたよ。

 腕だけ、とは……肘から先の部分です。指の方では舟縁をガッチリつかんで、下の方はパタパタと不規則な動きで、もがいている様子……こいつ、這いのぼろうとしてる! そう思った瞬間……いやはや、お恥ずかしい話ですが、たぶん絶叫したと思うんですよ。何度も何度も……。

 そのとき、誰かが遠くで呼んでいるのが耳に入ってきました。振り返ると、見たことがあるようなないようなお年寄りが、手を振っています。

「だいじょうぶか」「おうい、どうした」などと叫んでいる。

 えっ、と思いました。そこ、川だったんです。苦茶路川……はい、はい……そうです。苦茶路川は当別湖につながっていて……ええ、釣りをしていたのは、確かに当別湖でございます。はしけから舟を出して、湖の中央までこいで、そこで白い手が舟縁をつかんで、と、これまでの記憶を思い起こしてみましたけれども、とうてい川に入り込むとは考えられない。晴天つづきでしたし、苦茶路川の水流はそう速くありません。流されたにしても、ほどがあります。

 白い手はと見ると……もう消えていました。

 それから舟を岸に寄せて、お年寄り……伊藤さんの御隠居に、だいじょうぶだ、ありがとうと声をかけました。御隠居は畑仕事をしていて、わたくしの絶叫を聞いたとのこと。

 いやア、いいませんでしたよ、なにも……適当にごまかしただけです。竿を流されたとか何とか。家の近くで変なことがあったと怖がらせてもいけませんし、夢を見ていたんじゃないかと疑う気持ちもありました。

 礼をいって湖の方へ戻りはじめると、そこでまた……気づいたんです。時間が全然たっていない。湖の真ん中から伊藤さんの畑まで、五キロくらいですか、ゆるい水流に乗ってフラフラしていたというのに、まだ太陽が真上にあるし時計を見ると、正午過ぎ。針が戻っている。

 でも魚籠の中のヒメマスを見ると、腐りかけて変な臭いがしている。いくら好きとはいえ、こうなるとさすがにもう釣りどころじゃありません。ヒメマスは捨ててしまって、ひたすら舟をこぎ進めて、はしけが見えるところまできました。

 すると、そこに誰かが立っていて……近づいてみると、女房だったんです。迎えにきたことなんて一度もなかったものですから、何かあったのかと不安になりました。

 腕全体をつかって、おいでおいでしている女房を見ると不安がいや増しに増して、わたくしも懸命にこぎました。こうして声が届くところまでくると、女房は身を乗り出して、旭川に行ってくる、と叫びました。今急げば、午後一時の汽車に間に合うから来た……さっき知らせがきて、などと言っています。

 姪が……けさ、川で溺れ死んだ。

 わたくしからすれば、女房の妹の子。誰かに言伝でもすればよかったのにと思ったのですが、気が動転したものらしい。気づいたらここまできていたという。

 ……白い手が舟縁をつかんだのが、ちょうど姪の死んだ頃だっていうんなら平仄はあいますけれども、実際どうなのかは分かりません。何しろ、時間のたち方がおかしかったので……とにかく、女房がまず旭川に行って姪と対面、わたくしも翌日追っかけて、お弔いして参りました。いやいや、綺麗なものでしたよ。姪の身体に何か異状があったわけでもございません。

 手はしっかりついてた。

 春にこんなことがあって、釣りはよしていたんですが……でも先月の初めから、また始めました。これだけが道楽、好きなもんは好きで、こりゃあしかたない。四十九日も済んでないのにって、女房はぶつぶついいますけどね。

 舟は流される、時間はなぜだか戻ってる、そして白い手が舟縁をつかむ。そりゃあ確かに怖かったんですが、そんなことはめったにないと、たかをくくってるんで。

 ただ、フッと意識が途切れて、じぶんが周囲に溶け込みそうになる瞬間、これがちょっとだけ怖くなりました。ええ、ちょっとだけです……ほんのちょっとだけ。
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