第16話 カーネマン再訪

文字数 4,569文字

(「ファスト&スロー」を振り返ります)

1)「ファスト&スロー」の概要

カーネマンは、「ファスト&スロー」の中で、人間の脳の使い方(思考パターン)には、次の2つがあると主張しました。以下は、筆者の解釈で、カーネマンの「ファスト&スロー」とは、若干のずれがあります。

ファスト回路:
過去の経験に基づいて、同じパターンの行動を繰り返すヒューリスティックな思考形態です。
思考の対象(オブジェクト)は、目に見えるものになります。
ファスト回路の特徴は、思考速度が速く、思考につかうエネルギーが小さいことです。
前提とするエコシステム(レジーム)に変化がない場合には、効果的な思考法ですが、エコシステムが変化する場合には、間違いを繰り返します。
毎朝歯磨きをするのは、典型的なファスト回路の使用です。


スロー回路:
過去の経験を分解して、再構築する思考形態です。過去と同じパターンの行動を繰り返し、過去と同じパターンの現象の再現を前提としません。新しく何かを起こすために必要な条件を考えます。
思考の対象(オブジェクト)は、目に見えるものの背後にあるものになります。
スロー回路の特徴は、思考速度が遅く、思考につかうエネルギーが大きいことです。
前提とするエコシステム(レジーム)に変化ある場合には、効果的な思考法です。

例をあげます。

サッカーの試合の場合、選手が目の前にあるボールをキックするときには、ファスト回路を使っています。もちろん、ボールは一定方向にキックする訳ではなく、状況によって、左右に蹴り分けます。しかし、これは、左右にキックした場合の複数のイメージが頭の中にあって、その中でベストなコースを選択していると思われます。

監督がフォーメーションを決めたり、使う選手を選択するときには、スロー回路を使います。

選手が試合の途中で、ボールや他の選手の配置を見て、移動する場合には、原則は、ファスト回路を使っています。
しかし、時には、選手が予想外の動きをして、得点につながることがあります。この場合には、スロー回路が使われていると思われます。このスロー回路の使用法は、試合の途中で思いつく場合と、監督のように、試合の前に考えておく場合が考えられます。筆者は、後者の場合が多いと予想しています。後者の場合には、ボールと選手配置の複数のパターンに対して、いつもと違う新しい移動をしたらどうなるかを事前に検討しておくという意味です。

経営で言えば、シナリオ毎の対処法を事前に検討しておいて、状況がどれかのシナリオに当てはまるようになった時に、即座にその対処法を実行する方法です。

この方法では、事前に検討したシナリオの多くは実現しませんので、一見すると非常に無駄が多いように思われます。しかし、スロー回路を使うには、時間がかかります。問題が発生してから対策をスロー回路で考えると、タイムアウトになる可能性があります。

災害時の避難計画は、ハザードマップで、事前に検討することがすすめられています。この方法は、災害が事前に予想したどれかのパターンにあてはまり、そのどのパターンが発生しているかが、被災時に瞬時にわかる場合には、有効な方法です。実際には、この条件が満足されないので、筆者は、ハザードマップで、事前に検討することには問題があると考えています。つまり、リアルタイムの状況を反映したハザードマップ以外を使うべきであると考えます。とはいえ、災害時には、動転して冷静に非難計画を考えることが不可能なので、スロー回路をつかって事前に検討する必要がある点には賛成します。

石油会社のシェルは古くからシナリオ分析を使っています。シナリオ分析を未来予測であると見なせば、あたらない予測に時間と労力(コスト)をかけることは無駄です。
問題が起こって(エコシステムが変化して)から、対処すればよいと思われます。

実際には、エコシステムが変化するまでは、ファスト回路全開で、意思決定していると、スロー回路への切り替えに失敗します。また、スロー回路では、タイムアウトになるので、ファスト回路を使いまわす(前例主義)に戻ってしまいます。

つまり、スロー回路を使う上では、一見すると無駄が多く見えるシナリオ分析など(時間があるときの事前検討)が、必須になります。

2)思考のエネルギー

ファスト回路は、簡単に言えば、前例主義、パターンのコピー思考ですので、エネルギーを消費しません。

スロー回路は、思考速度が遅い上にエネルギーを多消費します。

全ての意思決定をスロー回路で行った場合、意思決定までの時間がかかりすぎますが、その前に余りにエネルギーを使いすぎて、生存できなくなると言われています。

正確な数字はありませんが、イメージとしては、人間は、意思決定の9割以上をファスト回路で行っていると思われます。

つまり、何もせずに、自然体であれば、ファスト回路は起動するが、スロー回路は停止しています。

今まで行動を変化させるためには、ファスト回路の使用を中止して、スロー回路に切り替える必要があります。

これは、自然にできることではありません。

2-1)スローターの説明

アン=マリー・スローターは、「仕事と家庭は両立できない?:『女性が輝く社会』のウソとホント」(2017)の中で、女性のキャリアの難しさを次のように述べています。

<==

従来の物理的に男性優位の仕事より、男女差がない、または、女性優位の仕事(教育・医療など)が増えている。

その結果、従来の「男性=外部での仕事」「女性=家で子育て」は、非合理になりつつある。

一方、企業の仕組みや、人々の中にある固定概念は、その変化に追いついていない。

先進的な女性がその非合理性・歪みを是正すると、「変化への抵抗」が起こる。

この「変化への抵抗」は、脳神経科学的に合理的な「余計なエネルギーを使う、面倒なものを、回避する」行動に原因があり、取り除くのは難しい。

その結果、先進的に動いた主に女性は、不当に大きな攻撃や抵抗にあう。

==>

これは、カーネマンのスロー回路の説明そのものです。

スローターの説明は、日本より、女性のキャリアが、多いアメリカでの話です。

日本の問題はもっと、深刻です。

そして、そこにある壁は、「スロー回路を起動させて、変化を受け入れられるようにできるか」という点になります。

スローターの説明は、女性のキャリアを問題にしていますが、デジタル産業国へのレジームシフトにも、同じスロー回路の問題があることはいうまでもありません。

3)人文科学とファスト回路

人文的文化は経験主義(経験科学)で、過去の事例を引用します。

科学的文化は、仮説(因果モデル)とその検証から構成されます。

これから、次の対応があることがわかります。
ファスト回路 <=> 人文的文化

スロー回路  <=> 科学的文化

現在は、科学の確かさを疑う人は少ないです。

科学の「99・9%は仮説」と言う本もあります。

実は、「科学の確かさを疑わない」という姿勢は、経験科学であって、自然科学ではありません。

つまり、逆説的ですが、「科学の確かさを疑わない」人は、科学の方法論が理解できていないことを示しています。科学的文化が理解できていないことになります。

「科学は確かだから間違いがない」、「自分はスマホのような高度な技術機械をつかっているので科学を理解している」という主張は、人文的文化です。

これは、人文的文化で、科学的文化が理解できるという誤謬によっています。

あるいは、スロー回路を使わないで、ファスト回路だけで問題を解決できる、言い換えれば、前例主義で問題を解決できると考える誤謬によっています。

スノーは、「二つの文化と科学革命」の中で、科学的文化と人文的文化の間には越えられないギャップがあると言いました。

スノーは、人文的文化では、科学的文化で解決する問題には歯が立たないので、エンジニア教育が必須だと言いました。

これは、科学的な問題は、スロー回路を使わないと解決できないと言い換えることもできます。

科学的な問題解決に経済効果があることは、何となく知られています。

それは、スマホ等の家電製品や、インターネットの検索の利便性等から感じられています。

そして、「科学技術立国」が大事という人もいます。

しかし、科学技術の内容を理解するには科学的文化とスロー回路が必要です。

人文的文化とファスト回路のセットでは、科学技術の内容を理解しているつもりになっているだけで、実際には、スノーが言ったギャップがあって、理解できていません。

科学は、オブジェクトに対するメソッドです。そのメソッドの中には、検証と仮説の改善が含まれます。

そして、習得には、実際にメソッドを実行して、仮説を改善させるしか方法がありません。

これは、言うまでもなくスロー回路で、エネルギー多消費です。
スロー回路は、カーネマンやスローターが言うように、本来であれば、生存のために回避する行動に属します。

それを無理やり使っていくことが、科学的文化になります。

これは、容易ではないので、細心の注意を払わないと、科学的文化が追放されてしまいます。

4)教育の課題

さて、細心の注意とはなんでしょうか。

クーンは、「科学革命の構造」の中で、パラダイムは世代交代なしには達成できないといいました。

スノーは、技術者教育が大切であるといいました。

成人になってから、科学的文化を身に着けることは、非常に困難です。

筆者は、その理由は次の2点にあると考えます。

(1)年齢を積み、経験が増えると、前例や経験に縛られて、柔軟な思考ができなくなる。

(2)問題をじっくり考えて解くための時間を作ることが難しくなる。

科学的文化は、スロー回路を使うので、時間がとれなくなると、学習は困難を極めます。

全ての学習にまとまった時間が必要な訳ではありませんが、数学や統計的なものの見方の習得には時間がかかります。筆者は、少なくとも、この2つは学生時代に習得すべきと考えます。

さて、現在の高等学校のカリキュラムは、文系という人文的文化で科学的文化が理解できるはずというシャーマンのようなカリキュラムが存在しています。

デジタル社会では、数学(プログラムを含む)と統計学のリテラシーなしには、まともな就職口はなくなります。

これは、企業活動がデータサイエンスに基づいて行われるためです。

この改革は必須ですが、「情報」のように、教科を立ち上げればよいと言い切れない部分もあります。

その理由は、科学的文化の習得は、スロー回路の習得になる点にあります。

決められた試験時間内に、予想可能な正解を書き込む作業は、スロー回路ではなく、ファスト回路になります。つまり、試験による評価や選抜は、ファスト回路の評価には向いていますが、スロー回路の評価には向いていません。

OECD生徒の学習到達度調査(PISA)も同じ問題を抱えています。


数学(プログラムを含む)と統計学を必修にするのはスタートで、スノーが提案したエンジニア教育をデジタル社会レベルで、再構築して実施するには、越えるべきハードルが多数あります。

とはいえ、スノーが主張したように、エンジニア教育が、科学的文化を育てる最短経路であり、それより、効率的な方法はないと思われます。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み