#3
文字数 1,763文字
「人の世の移り変わりも早く、わからぬことも多くなりました。それゆえお噂にも名高いおひいさまのお知恵を拝借したいと使いを出した次第で」
十日ばかり前、岩永のもとにこのヌシから相談事がある、と木魂が一体、訪れた。相談内容はそれで把握し、必要な調べ物をし、今夜対面して具体的な対応となったのである。
体の大きさだけを比べれば、ヌシに対して岩永は吹けば飛ぶくらい。よく頼られたものである。
二匹の化け狐が椅子代わりにと丸太をひとつ運んできて岩永のそばに置く。岩永はベレー帽をかぶり直してそれに腰を下ろし、ステッキも立て掛けた。
「山中ゆえ大したおもてなしもできませんが、何かご要望があれば最善を尽くしますが」
ヌシはやはり岩永を気遣っている。よほど彼女の機嫌が危うく感じられるらしい。
岩永は背負ってきたリュックを膝に置いて開けながら、ヌシに事情を説明する。
「大丈夫です。機嫌が悪いのは本当にヌシ様のせいじゃあなく、個人的なことなので」
「個人的、ですか」
「はい、私には桜川九郎という彼氏がいるのですが、今夜ここに一緒に来るのを、手作りした豚汁をゆっくり食べたいからと断りまして」
「ああ、その方のお噂もかねがね」
「ひとり暮らしの男子が昼間からそんなものをくたくた作るというのもさることながら、それを食べるのを彼女の誘いより優先させるというのはいかなる所業か」
「おひいさまはおひとりでも大丈夫と信頼されているのでしょう」
「その直前に信頼してなさそうなことを言っています。会う相手が人を食べかねない大蛇とまで説明してもいます」
「まさか、当方が恐れ多くもおひいさまを食べるなど。もとより、人は布や金物をいくつも身につけ、食べにくいばかりで」
「一応食べたことはあるんですね」
「長く生きておりますゆえ何度かは。人食いのおろちと麓でも噂され、雨乞いの捧げ物には生け贄を、などと叫ばれたこともありますが、人間はうまいものではありませんし、特に昨今では面倒事になりかねませんのでまず避けます」
山に入った人が行方不明になれば、捜索で山狩りなどが行われたりされかねない。山を住処とするヌシや他のあやかし達にとっては迷惑でしかないだろう。
「それはさておきかわいい彼女を、遠い田舎の山奥に、夜中ひとりで行かせますか?」
九郎にもそう詰め寄ったのだが、『夜中山奥へ大蛇に会いに行く彼女のどこがかわいいんだ?』と不思議そうに返された。
「夜分となって申し訳ない。何しろ近頃、日中は人が多いこともあり、直接会ってお話しするとなればどうしても日が落ちてからしかなく」
結局ヌシを余計に恐縮させてしまった。ひとりで行かせると言っても、周りには彼女を神と慕う怪異達が何種類も従っていたりするので、語弊があるかもしれない。
「まあ、九郎先輩もさすがに悪いと思ったのか、温めた豚汁を保温性の高い水筒に入れ、おにぎりも手ずから握って夜食にと持たせてくれましたが」
岩永はリュックから取り出したステンレス製の水筒とおにぎりをつめたタッパーを傍らに並べ、豚汁を移すためのお椀と箸を出す。それらも九郎が一緒に揃えて渡してくれた。
ヌシはそれらを見て頭をひねるようにする。
「そうして汁物を持ってこられるなら、九郎殿もここに一緒に来て食べられたのでは?」
「食べられましたね。不覚にも行きの電車の中で気づきました」
だから岩永はいっそう不機嫌なのである。九郎は確かに恋人であり、付き合いも長いのだけれど、どうしてこう優しさが足らないのか。
水筒の口を開け、お椀に中身を移す。熱は十分に保たれ、味噌の香りが湯気とともに広がった。タッパーも開けておにぎりも箸で取れる形にし、岩永はヌシをあらためて見上げる。
「本題に入りましょう。お悩みの件は、この沼で発見された他殺死体のことでしたね」
岩永は右手に箸を取り、不気味に静まっている沼へ目を遣った。
ヌシは高い場所で頭を縦に動かす。それだけで風が起こり、豚汁の立てる湯気が散った。
「はい。なぜあの女はこの沼にわざわざ死体を捨てに来たのか。納得のいく理由を説明していただきたいのです。それが気になって気になって何とも落ち着かないのです」
ヌシの悩みは、人間の殺人事件が関わるものであった。
十日ばかり前、岩永のもとにこのヌシから相談事がある、と木魂が一体、訪れた。相談内容はそれで把握し、必要な調べ物をし、今夜対面して具体的な対応となったのである。
体の大きさだけを比べれば、ヌシに対して岩永は吹けば飛ぶくらい。よく頼られたものである。
二匹の化け狐が椅子代わりにと丸太をひとつ運んできて岩永のそばに置く。岩永はベレー帽をかぶり直してそれに腰を下ろし、ステッキも立て掛けた。
「山中ゆえ大したおもてなしもできませんが、何かご要望があれば最善を尽くしますが」
ヌシはやはり岩永を気遣っている。よほど彼女の機嫌が危うく感じられるらしい。
岩永は背負ってきたリュックを膝に置いて開けながら、ヌシに事情を説明する。
「大丈夫です。機嫌が悪いのは本当にヌシ様のせいじゃあなく、個人的なことなので」
「個人的、ですか」
「はい、私には桜川九郎という彼氏がいるのですが、今夜ここに一緒に来るのを、手作りした豚汁をゆっくり食べたいからと断りまして」
「ああ、その方のお噂もかねがね」
「ひとり暮らしの男子が昼間からそんなものをくたくた作るというのもさることながら、それを食べるのを彼女の誘いより優先させるというのはいかなる所業か」
「おひいさまはおひとりでも大丈夫と信頼されているのでしょう」
「その直前に信頼してなさそうなことを言っています。会う相手が人を食べかねない大蛇とまで説明してもいます」
「まさか、当方が恐れ多くもおひいさまを食べるなど。もとより、人は布や金物をいくつも身につけ、食べにくいばかりで」
「一応食べたことはあるんですね」
「長く生きておりますゆえ何度かは。人食いのおろちと麓でも噂され、雨乞いの捧げ物には生け贄を、などと叫ばれたこともありますが、人間はうまいものではありませんし、特に昨今では面倒事になりかねませんのでまず避けます」
山に入った人が行方不明になれば、捜索で山狩りなどが行われたりされかねない。山を住処とするヌシや他のあやかし達にとっては迷惑でしかないだろう。
「それはさておきかわいい彼女を、遠い田舎の山奥に、夜中ひとりで行かせますか?」
九郎にもそう詰め寄ったのだが、『夜中山奥へ大蛇に会いに行く彼女のどこがかわいいんだ?』と不思議そうに返された。
「夜分となって申し訳ない。何しろ近頃、日中は人が多いこともあり、直接会ってお話しするとなればどうしても日が落ちてからしかなく」
結局ヌシを余計に恐縮させてしまった。ひとりで行かせると言っても、周りには彼女を神と慕う怪異達が何種類も従っていたりするので、語弊があるかもしれない。
「まあ、九郎先輩もさすがに悪いと思ったのか、温めた豚汁を保温性の高い水筒に入れ、おにぎりも手ずから握って夜食にと持たせてくれましたが」
岩永はリュックから取り出したステンレス製の水筒とおにぎりをつめたタッパーを傍らに並べ、豚汁を移すためのお椀と箸を出す。それらも九郎が一緒に揃えて渡してくれた。
ヌシはそれらを見て頭をひねるようにする。
「そうして汁物を持ってこられるなら、九郎殿もここに一緒に来て食べられたのでは?」
「食べられましたね。不覚にも行きの電車の中で気づきました」
だから岩永はいっそう不機嫌なのである。九郎は確かに恋人であり、付き合いも長いのだけれど、どうしてこう優しさが足らないのか。
水筒の口を開け、お椀に中身を移す。熱は十分に保たれ、味噌の香りが湯気とともに広がった。タッパーも開けておにぎりも箸で取れる形にし、岩永はヌシをあらためて見上げる。
「本題に入りましょう。お悩みの件は、この沼で発見された他殺死体のことでしたね」
岩永は右手に箸を取り、不気味に静まっている沼へ目を遣った。
ヌシは高い場所で頭を縦に動かす。それだけで風が起こり、豚汁の立てる湯気が散った。
「はい。なぜあの女はこの沼にわざわざ死体を捨てに来たのか。納得のいく理由を説明していただきたいのです。それが気になって気になって何とも落ち着かないのです」
ヌシの悩みは、人間の殺人事件が関わるものであった。