(8) 恋に落ちる音

文字数 1,524文字

 コートが空くのを待ちながら日坂と話していたとき、視界の外から飛んで来たボールが近くで跳ねて、肩に当たった。

「痛てっ」

 驚いて思わず声が出てしまったけれど、実はさほど痛くはなかった。
 立ち上がって転がったボールを拾い上げる。
 慌てた様子で走って来たのは尋深だった。

「ごめんなさい。大丈夫でしたか」

「大丈夫大丈夫」

 これが彼女と交わした初めての会話だ。
 彼女は顔全体で申し訳なさを表現していたが、透明感の強い茶色い瞳ばかりがやけに印象に残った。
 つい吸い込まれそうになって見惚れていた自分に気がついて、慌てて目を逸らしたところへ日坂が近づいて来て肩を組んだ。

「こいつ、各務。今日入った新メンバー。俺たちと同じ一年だから」

 まだ入会すると決めたわけではなかったのに、そう紹介された。

「そうなんだ。中和泉です」

 同級生と知って、彼女の表情から緊張が解けていくのが分かった。謝ったときの申し訳なさそうな顔が、ほっとしたような笑顔に変わった。

 それは遅ればせながらも、冬から春へ季節が進んだようでもあって、もし、この世界に恋に落ちる音なんてものがあれば、すぐそばにいた日坂にも聞こえてしまっただろうと思う。

 このときばかりは拙速に他のサークルへの入会を決めずにいた自分の優柔不断さを褒めてやりたい気分だった。

「なんだか楽しそうですね」

 女将と目が合った。
 そんな表情に出ていたのだろうかと、恥ずかしくなる。

「ちょっと昔のことを思い出していただけですよ。奥播磨をもう一杯いただけますか」

「あら。おもいで酒かしら?」

「古いな。都はるみでしたっけ?」

 わざと間違えてみた。

「古くて悪かったですね。小林幸子よ。古い歌ってことは、いい歌だってことですよ」

 空のグラスに酒が注ぎ直されたあと、カウンタ越しにそっと小鉢が出された。見ればホタルイカだ。
 注文していない。そんな台詞を制するかのように、女将がウインクをした。
 どうやらサービスらしい。

「いただきます」

 小さな声で言って早速箸をつけた。
 酢味噌で食すことが多いが、これはバター醤油焼きだ。

美味(うま)い」

 それは素直に口から漏れた感想だった。

「よかった。昔のことって、さっきの名刺の人のことでしょ。各務さんの昔の彼女?」

 鋭い洞察力の持ち主なのか、単なる当てずっぽうか。女将は恐らくそんな自覚もないままに、古傷のど真ん中に切り込んできた。

「彼女かどうか、怪しい彼女ですね」

 自分でも驚くほど正直に答えていた。

「なにそれ、興味湧いちゃう。断然楽しみになって来たわ」
 
 余計なことを言ったのかもしれない。女将が目を輝かせたままカウンタの奥に引っ込むのを見て、たちまち後悔が襲ってきた。

 LINEを確認してみると、既読にはなっているが返信はない。その画面を見ながら、新しい奥播磨を口に含んだ。
 芳醇な旨味が、また過去に(いざな)う——

 APTに入って程なく、季節は梅雨に移っていた。その年は例年以上に豪雨が多く、自転車通学もままならない、ましてやテニスどころではない日々が続いていた。

 あの日も長かった雨が前日の夜にはあがって、やっとコートが使えるかと思って様子を見に行ったところに、また雨が降り始めたのだった。

 暗澹(あんたん)たるグラデーションを成した低い空と、徐々に水溜まりが大きくなっていくコート。
 傘も差さず、水溜まりに広がっては消えていく波紋を眺めていると、うしろから差し出された傘に視界が遮られた。

「傘、持ってないの?」

 尋深だった。
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