三、豆阿魔輝安彙(ズァマキアンノタグイ)

文字数 6,789文字

 クサビたちが三叉に辿り着いたのは、一つ星が西の地平に消えた後だった。スハエはさらに先に行ったのか三叉周辺には見当たらなかった。道標は苔生して読み取りにくかったが苔を削り落とすと「左 さま」とあった。座間とは古くは大寺があって栄えた場所で、ここからだと南に位置する。右は日中、噴煙をあげる不死の山が望めるから西へ行く道だ。今クサビが行くべきは南へ向かう左の道であろう。
左の道を進み出そうとした時ユウヅツを見ると月の光を浴びて不吉な顔色になっていた。クサビは思わずその小さな体を引き寄せて近くの木の陰に隠れた。
 クサビは先を急ぎたかったが、ユウヅツはひどく疲れていそうだ。おそらく今まで長い道を歩いたことなどなかったのだろう。クサビはしかたなくこの辺りで夜を過ごすことにした。といっても苫屋すらない。道ばたで寝ていれば、それこそ野盗や野犬の餌食だ。見渡すと少し離れたところに夜空を背に森が黒く見える。あそこの木に拠れば休むことができるだろう。
 近づくとそれは森と言うにはあまりに若すぎる橡(つるばみ)の木々が生えた場所だった。これでは樹上に昇る事も出来ないし、木の幹に身を隠す事も出来ない。しかしユウヅツはこれ以上歩けなさそうだ。クサビは黙ってユウヅツを背負うと森の奥へと入って行った。遠くで犬が吠えている。ここで野犬の群れにでも襲われたら逃げようがないなと思いながら、クサビはさらに奥へと進む。
 クサビはユウヅツのために梢の狭間から射し込む月の光を避けながら森の中を歩いてゆく。道からかなり離れてしまって三叉に戻れるか心もとなくなった。クサビもそろそろ疲れを感じ始めている。そうでなくとも今日はいろいろあったのだ。一人ならばそこらに体を横たえればいい。しかし、夜露も凌げないこんな所にユウヅツを寝かせられない。せめて屋根のある場所が必要だ。さらに藁の一抱えでもあれば申し分ないのだが。そう思っても、行けど進めど同じような若木が並んでいるばかりで人家など見当たらない。
それはそうだろう。大降星の後、人畜逃散してしまい茫漠たる焼け野原と廃墟だが残ったのはここらも同じなのだから。草木が芽吹き始めたのだとて最近のことだ。ユウヅツがクサビの背に重くのしかかる。どうやら寝てしまったらしい。いよいよどこか休む場所が必要になって来た。とその時、視界の先に木々を透かしてほのかに灯りが揺らいでいるのが目に入った。どのくらいの距離かは分からないが人家があるらしい。クサビはその灯を目指して行くことにして歩み続けた。
 橡の饐えた蜜の匂いの中をひたすら歩く。木々の間に仄見える灯火の光だけが今のクサビの力の源だった。とにかく早くたどり着きたい。そしてこの子を休ませてやりたい。その一心でユウヅツを背にクサビは森の中を行く。
どれくらい進んだか、木々に見え隠れしながら僅かに見えていた灯が視界から消えた。ついにあてどをなくしたと思った矢先、クサビたちは森を抜け開けた場所に出た。月光が降り注ぐその場所一面に死者の花が風に揺らめいている。その中に見捨てられ朽ちかけた御堂が建っていた。草を載せた瓦屋根や朱の剥げた巨大な柱から推して、以前これは大寺の堂宇であったろう。その中から微かに明かりが漏れていた。
どんな人間が住むのかクサビには見当もつかない。もしかしたら野盗の塞かもしれない。しかしクサビは何が棲もうがいまはここで休みたいと思った。危険を冒したとしてもユウヅツ一人守れればよい。
 クサビは堂宇のぐるりを歩いて見た。その三方は塗込め壁で扉らしきものはなかった。ただ南に面する一面が観音開きの大扉になってい、その端に人が一人くぐれるほどの小扉がある。クサビはその扉を叩いてみた。しばらくして中から返事があって扉を透かして灯が近づいて来る。閂を開けて顔を出したのは年のころはクサビほどの女だった。道に迷ったと言うと、クサビと背中のユウヅツを交互に見て、招じ入れてくれた。
中に入るとその女の他に誰もいないようだった。床は石敷でひんやりとしている。正面に主のいない須弥壇があって、そこに上がると火桶の周りに円座(わろうだ)が一つ敷いてあった。クサビたちはその一つしかない円座を勧められた。背中のユウヅツをそこに座らせようとすると、すでに目覚めていて素直に従った。クサビもその隣に坐して何気に見回すと天井が高い。おそらく衛士の長槍で突いても届かないのではないか。そしてその天井を支える柱の太さといえば、大人で二抱えはありそうだった。
その女は親しげに接し、風呂はないがゆっくりしてくれとまで言う。女の歓待ぶりが気味悪くもあるが、今のクサビにはそんなことを気に掛ける余裕すらなかった。それほど疲れていたのだ。
一人かと尋ねると父と住んでいるという。今は出かけていて今夜帰って来るはずだったので、本来ならばこんな夜中に訪いがあっても無視するが、そういうことなので思わず出てしまったと言った。
女は身体が冷えて青い顔をしているユウヅツのために、火桶に火をくべてくれた。女はそこに鍋を置き、粗末なものだがと汁物を勧めてくれる。クサビにとっては久しぶりの暖かい食餌であったから、ありがたく頂戴した。ユウヅツも少し口にして体が温まったらしく、やがてクサビの膝を枕に寝てしまった。
 クサビは女としばらくは夜語りなどした。女が話すのは、市が立つのがここから半日もかかる場所だから大変だとか、人里離れているせいでこのように人と話すのは有難いことだとか、とりとめのないことばかりだった。クサビはそれを聞きながら屋内の様子を見るとはなしに眺めていたが、西面の板壁に目が行ったとき違和感を覚えた。外観からするとこちら側は塗り壁だったはずで、板で仕切られている向うにわずかばかりの空間があるように見えたのだ。女がクサビの視線に気づいて、
「そろそろお休みになられては」
と言った。女は火桶の始末をして燈台から脂燭(しそく)に火を移すとクサビに付いて来るように言った。クサビは寝ているユウヅツを起こさぬようにそっと抱き上げると女の後を追った。女が西面の隅を引くと板壁に人が一人やっと通れるくらいの隙間ができる。クサビが女の後をついてその隙間に入ると、そこから幅の狭い階が上に伸びていた。女は途中で振り返り手招きしている。クサビは女の背後の暗闇に気を配りつつ階を昇る。女は脂燭を壁に掛け、一番上でクサビたちが来るのを待っている。クサビが慎重に昇り切ると、女は天井から垂れた紐にぶら下がって思いっきりそれに体重を載せた。すると、いま上がってきた階が持ち上がって床と等しい高さに収まった。昇降式の隠し階だった。隠し扉と言い、用心というにはいささか手が込んだ仕掛けだ。 
女は紐の端を壁の突起に結わえると、階に閂を掛けてから脂燭を手にして暗闇に進む。すると脂燭の光が屋根裏部屋をぼんやりと浮かび上がらせた。調度も整っていて、ここが主たる生活の場であるらしかった。女は奥の暗がりを指差し、あすこで寝ろと言う。見れば一抱えどころでない藁が敷かれている。クサビは礼を言うとユウヅツをそこに寝かせ、自分もその隣に横たわった。女はクサビ側に少し距離を置いて床に就く。クサビはすぐに眠気に襲われ眠りに落ちた。
 クサビがうつらうつらする中で、女がユウヅツに顔を寄せ覗き込んでいるのに気付いた。クサビが声を掛けると女はすぐに自分の寝床に戻ったようだった。よくある鬼女の話を思い出したが、女のその時の目はそれとは違うように見えた。
 クサビは普段夢を見ない。これまで単に寝て覚めるの繰り返しで夜をやり過ごして来た。しかし、この日はどういうわけか夢を見た。夢の中でこれは何かと問うたが応える者はなかった。
 その若い男は娘のユウヅツの手を取りクサビのもとから連れ去ろうとしていた。夢の中ではユウヅツはクサビの実の娘だった。クサビの呼び声にユウヅツは振り向こうともしない。まるでそれが当たり前のようにクサビのもとを去ろうとしている。クサビは胸の内にこれまでにない痛みを感じて涙が溢れ出す。男はユウヅツを連れて森の中に入って行く。クサビは必死に追いかけるが途中で見失ってしまう。森の中を方々さがしてやっと、この堂宇にたどり着いた。大扉の隙間から覗くと、男がユウヅツを抱え壇の板間を剥がし地下への階を降りて行くのが見えた。クサビも追いかけ階を降りる。地下は暗く土気が充満していて息苦しい。じめついた狭い石廊を腰をかがめつつ進むと、一番奥に赤銅色の檻が見える。その中で何かが蠢いている。形の定かでない醜悪な体でのたうっているもの。クサビは恐れた。これは嬰天だ。こんなところに嬰天がいる。クサビは恐れ戦き、踵を返して元来た石廊を戻ろうとした。クサビが一歩踏み出した途端、何かが足に絡んで転んでしまった。足首にまきついたものを見るとそれはあの時クサビが掴んだユウヅツの汗衫の裾だった。嬰天の肉体に取込まれたユウヅツがクサビを捕まえようとしている。そのユウヅツの顔は不吉な色をして無表情だ。クサビはさらなる恐怖にその裾を引きちぎり、必死で階を駆け昇り屋外に逃げ出した。
 クサビは戸外に激しい衝突音を聞いた気がした。それは地鳴りを伴ってクサビのいる屋根裏の床をも揺るがしている。外で何事か起こっている。クサビは飛び起きた。ユウヅツが階の所に立って表を指差している。そのユウヅツは夢の中とはうって変わって色つやのある頬をしていた。クサビは安堵した。
階はすでに降ろされていて、屋根裏を明るくしていたのが下からの光だと気づく。女は外にいるのか、屋根裏部屋には居なかった。クサビはユウヅツにここにいるように言うと階を駆け降りた。
 クサビは階下の石敷きにまろび出た。一瞬その明るさに視力を奪われたが、須弥壇が破壊され塗込の壁にきららのような光の粒が踊っているのを見て振り返ると、昨夜は閉じてあった大扉が破られていた。前庭に生い茂った曼珠沙華にもきららが散華していて、その中心に、降り注ぐ日差しを乱反射している物体がある。その上を舞うように動き回っているのが雉の尾、すなわちスハエだった。屋根裏で聞いた地鳴りはスハエの打槌だったのだ。スハエがクサビを待たず打槌を下すのは余程のことだ。それほど突然に対面したのだろう。クサビはスハエに手を上げて合図すると、堂宇から日差しの中に飛び出しスハエとの間に立った。代わってクサビが対峙するもの、それこそ嬰天の一、豆阿魔輝安彙だった。
 まるで近衛の剣のごとき輝く刺列を幾重にも纏ったその肢体、無数の切先をクサビたちに向けて蹲るその姿には一分の隙もない。時折聞こえる地の底から響く破擦音は、突然現れたクサビへの威嚇なのか、それとも非道な攻撃を繰り出すスハエへの恨み言なのか。
「どこを攻める」
スハエがクサビに叫ぶ。クサビには分からない。嬰天はこれまで何度となく目にして来たがこの型の嬰天はまったくの初見だっだ。
 まず、嬰天の心魂を見出さなければならない。そうでなければクサビは戦うことすらできない。ここを慎重にしないと嬰天に呑み込まれて終わる。
「まだか?」
スハエのいら立ちを背後に感じながら、クサビは嬰天の心魂を探る。懊悩に取込まれた心魂が光を求めて薄明の内を彷徨っているはずだ。どこにあるのだ、その苦悶に、その悲哀にまとわり付かれた心魂は。
「汝が劈開を示せ!」
 クサビが叫ぶ。嬰天の唸りが悲鳴に変わった。クサビの目は嬰天の背後の曼珠沙華の中に立ったユウヅツに注がれた。そして嬰天が後ろに飛びし去った刹那、クサビの憎悪は膨大な質量を解放し嬰天に躍りかかった。
「ひりだしやがった」
スハエが言った。嬰天の刺列のきらめきが消えてゆく。クサビがいた場所から飛び出した巨大な肉塊が嬰天に覆いかぶさったのだ。おぞましい汚濁の塊。その肉塊は形為すことなくさまざまな位相を示しながら嬰天の刺列を覆い尽くして行く。その鋭利な刃表に肉塊は創傷を負い汚泥を流す。お互いが吹き出す猛烈な土気が周囲を圧し、前庭の曼珠沙華を全てなぎ倒す。その肉襞の隈々を何かが蠢いている。クサビである。クサビの肢体が見え隠れしながら肉塊の中で流動している。時に背中、時に尻、時に乳房、時に肩から上腕、時に大腿を外気に露呈しながら。とどまることなくその白い肌が肉の塊の中を蠢く、流れる、揺蕩うている。これがスハエが嫌悪するクサビの嬰喰(エバミ)の姿なのだった。嬰喰とはその名の通り、嬰天を喰う嬰天の鬼子だ。普段はその主に潜み、嬰天を感知すると主の体を引き裂いて姿を現し、嬰天に躍りかかって喰らい尽くす。それゆえクサビらのことを嬰喰使という。
 嬰喰を解放し肉塊となったクサビは豆阿魔輝安彙を見据えている。劈開を探っている。その一点を探り当てれば嬰天は取り込んだ心魂を解き放つ。そうして嬰喰は嬰天を喰らうことが出来るようになる。故に、劈開を見出すの間、クサビの嬰喰は嬰天を呑せず待つ。
 童女が見えた。嬰天の心象に一人の童女がいる。ユウヅツに似ているが違う。見覚えがある。あの女、おそらくそうだ。この豆阿魔輝安彙はあの女の過去を抱え込んでいる。何故だろう。クサビはさらに襞に分け入っていく。手をつないで歩く男と童女の姿。あの夢で見た風景だ。あれは嬰天の借夢だったのだ。ならばあの地下に居た物こそが嬰天。この豆阿魔輝安彙の心魂はあの女の父なのか。それは定かではない。あの女の話にそこまで懇ろなものはなかった。
男が一人歩んでゆく。彼方の童女の姿を幾度も幾度も見返している。しかし男は行かなければならない。辺境の地に赴き、役を務めあげなければならない。掌に童女の温もりが残る。その掌を見つめている。いつまでも執拗に飽きることなく。男が口を開き声のない叫びをあげる、父を許せと。お前を一人にした父を罰せよと。男は己が許せんと悲鳴を上げ自らを傷つけ苛み始めた。その悲鳴が男を覆い尽くす嬰天を蝕み始める。刺列の狭間の暗闇にあかぼしのごとき輝きが見える。心魂が姿を現したのだ。
「汝の劈開を示せ!」
クサビが叫ぶと、そこに一閃亀裂が走る。嬰天に取込まれていた男の心魂がその劈開を見せた瞬間だった。深く刻まれた劈開に映されたのは、娘を手放したことへの男の悔恨だった。
その時、強烈な振動がクサビの体に伝わってきた。男の心魂が青い焔を発しながら溶けて出してゆく。スハエの打槌が劈開に向け敢行されたのだ。嬰天が邪気と憤怒の相をクサビにぶつけて来た。クサビはそれを真っ向から受け止めるとさらに劈開に向けて嬰喰を捩じり込む。嬰天は辛酸と苦悶の形を成し霧消への恐怖を現した後、寛容と祈念の情を見せ、昇華して宙に霧散した。豆阿魔輝安彙はここに解除されたのだった。
次に来るのは、クサビへの打槌だ。それは解き放たれた嬰喰をクサビの身中に戻すために打ち下ろされる。従ってそれは嬰天への仕方とは違う。嬰天への打槌はクサビの示した劈開に向けて槌の一撃を放つが、クサビへのそれは肉塊から露出したクサビの体表に向かって打ち込まれる。その時、クサビの上半身前面を避けねばならず、でないとクサビは死に、嬰喰を野に放つことになる。野に放たれた嬰喰とは嬰天以外の何物でもない。ゆえにスハエもこの時ばかりは慎重ならざるを得ない。捕食後の嬰喰は動きが敏捷にもなっているので、相当の技量が必要とされる。
一発目の打槌は肉塊に当たり、スハエは嬰喰からの反撃の土気を喰らいよろけつつ次の一撃を打ち込む。その打槌は見事にクサビに当たり嬰喰の動きはゆっくりと止まり、やがてクサビの身の内に取り込まれていった。クサビの腕に鞭のような傷がまた一つ増えた。
 裸で横たわるクサビに小袿を掛けたのはあの女だった。ユウヅツがクサビのもとにしゃがんで汗で張り付いたクサビの前髪をかき分ける。クサビはそれに応えるかのように目を開けて、ユウヅツを見上げ微笑んだ。堂宇の前庭は嬰天が押し倒した曼珠沙華が巨大な真円を描いているばかりだった。スハエの姿を捜したが、すでに雉の尾を引いて立ち去った後のようだった。
 女はクサビに言った。去年の春、初瀬に詣でた時の夢告に関東のこの寺で父を待てとあった。ゆえに都から来て幼いころに分かれた父を待っていた。そして何日か前にいよいよ待ち人が来ると夢に告げがあった。昨晩父が来たと思ったらクサビたちだったと言った。クサビは女の夢語りを真に受けることにした。
 女は地下に嬰天が住み着いていたことはおろか地下があることさえ知らなかった。クサビは、あの嬰天が女の父だったということを、女には知らせずにおくことにした。
 出立の時、女はこれで都に帰ると言った。おそらく自分の役目は終わったのだと言って泣いた。
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