第1話 一ミリ未満

文字数 1,000文字

 近所に住まう人から彼女はミステリアスだと目されていた。声は聞こえるのに、その姿を見掛けない。部屋を覗いても、いつも留守にしている。それに素性が分からない。
 そのため、私はいつもその同居人のことを聞かれる度、多忙な人間だと説明するようにしていた。

千影(ちかげ)、朝だよ」

 一応、睡眠という概念は、彼女の中にも存在するようだった。目を瞑り、定位置を得て、夜を越している。そこから離れ、食卓へ移動すると、活発に身体を動かし始める。

 千影は見た目は人間だけど、身体は平面だった。だから、影のように床や壁を移動する。以前はごく普通の大学生で、私が所属するサークルのメンバーだった。

 どうして、彼女が肉体を失い、厚さが一ミリにも満たない存在になったのか、私には分からない。いわく、目が覚めた時には、そういう姿になっていたと言う。まるでカフカの小説のように。

「動き回らないで、食事中だから」

 彼女が床を移動する度、その特徴的な黒くて長い髪が揺らぐ。絵画のオフィーリアのように。

「でも運動は健康にいいでしょう」

「必要ないでしょ、そんなに線が細くて、スタイル抜群なのに」

 私の家の本棚の中にアルバムがあるけど、彼女はそれ以上に薄い。

 リビングに薄型のテレビがあるけど、彼女はそれ以上に薄い。

 テーブルの上に下敷きがあるけど、彼女はそれ以上に薄い。

「なんか、誰かに失礼なことを言われている気がする」

「気のせいだよ」

「早く元の身体に戻りたい、大学でも色々と噂されているし」

 彼女は、今、休学中という扱いになっている。

 確かに、最近大学で見掛けないな、程度には思っていたが、まさか二足歩行を止めているとは誰も思わない。背中と陶板の境界がなくなっているとは、誰も思わない。

「だから動き回らないで、気が散るから」

 妙なことに、その身体の表面は普通の人間と変わらない。だけど、立体感のない彼女は、いつも床や壁に貼り付き、泳ぐようにして移動する。

 私は彼女を自宅へ招き入れた今でも、どう接するのが正しいのか、分からないでいた。それでも、人間の存在を示すものは肉体だけではない、と私は強く思っていた。

「こんなみすぼらしい家、早く出て行きたい」

 私が朝食を食べ終えると、千影はそう呟いた。
 それにしても、良家の生まれであり、ほとんどなにも干渉できないのに、私の生活水準に不満があるのか、その物言いには棘がある。それは(ことごと)く私の胸に刺さっている。



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