たとえダメな親父でも

文字数 1,998文字

 ある日、俺のもとに宅配便が届いた。
 伝票に記された送り主の名は「和田孝明」。俺自身だ。記憶に無い。わけがわからないがともかく箱を開けてみた。
 細長い桐箱に、薄紙につつまれた一升瓶が入っていた。有名な蔵元の大吟醸だ。毎年出荷数が決まっている貴重な一本だった。
 ああそうか、と思い出した。ずっと前にオーダーしたものだ。娘の二十歳の誕生日をこの酒で祝おうと思っていた。初めて飲む酒なのだから最高のものを用意してやろうと意気込んでいたのだ。
 あわてて自室のカレンダーを見た。今日が娘の二十歳の誕生日だった。
 俺はひとり暮らしの狭い部屋の中で、桐箱を抱えて途方に暮れた。

 俺は八年前に離婚した。一人娘の静依(しずい)は当時十二歳で、自分の意思で妻についていった。
 離婚の原因は俺の不倫だ。
 話し合いの時、土下座して許しを請う俺に、妻の玲子は目を真っ赤にして告げた。
「あなたの誠実さや真面目さが好きだった。他の男性とは違ってあなたは特別な人だと思った。だから結婚したのに――そんなの全部、幻だったんだよね。私が家事育児を頑張っているあいだ、あなたは私たちに嘘ついて、よその女と笑ってたんだよね!」
 静依も怒っていた。
「私、嘘つきって大嫌い!」
 住んでいた一軒家は慰謝料代わりに妻に譲った。養育費は送っていたが、娘との面会は一度も叶わなかった。ふたりにはメールも着信も拒否されている。

 俺は桐箱を抱えて夜道を歩きだした。
 今さら妻や娘と一緒に飲めるとは思わない。が、せめて娘の成人を祝いたいという父親の気持ちだけは受け取ってもらえないだろうか、と祈るような気持ちで考えた。
 懐かしい一軒家には灯りがともっていた。
 インターフォンを鳴らすか迷っていると、若い男が歩道の反対側から歩いてきた。歩きながらスマートフォンで誰かと話している。
 俺は思わず電柱の陰に隠れた。
 男は、和田家の一軒家の前に立ったまま大きな声で話している。
「しょうがないだろ。二十歳のお祝いやるからって婚約者の俺も呼ばれたんだから。……うん、そう。母子家庭くせに生意気だよな」
 電話の相手は女性のようだ。高い笑い声が漏れてくる。
「父親がいないんだから籍を入れたら俺が一家の主になるんだよ。家の名義は俺に書き換えさせる。静依に仕事を辞めさせれば、あとは俺のいいなりでしょ。母子で行くとこなくなるんだから」
 静依というのは珍しい名前だ。きっとこの男の相手はうちの娘だ。
 下卑た笑いを漏らしながら、男は語る。
「もし抵抗されてもさ。俺、あいつの恥ずかしい写真持ってるし。これで脅かせばいいんだからさ」
 俺は冷水を浴びたような気持ちになった。
 それだけはダメだ。あんなやつに弱みを握られたら、静依の人生はめちゃくちゃになってしまう。
 俺は桐箱を近くの植え込みにそっとおろした。
 男に忍び寄り、背後からスマートフォンを取り上げようとした。
「おい、こら、なにすんだよ」
 脇腹に肘を入れられた。
 ぐひ、と変な声が出てしまったが、手を放さなかった。きっとこのスマホの中に静依の画像があるのだろう。押さえなければ。
 男の手から、スマホをもぎ取った。離れようとしたとたんに襟首をつかまれ、思い切り顔面に拳をくらった。
 一瞬、目の前が真っ赤になった。ワイシャツの胸元が温かくなってきた。口と鼻から血が垂れているようだ。
「ちょっと、どうしたの、マコト、喧嘩?」
 家の扉が開いた。
 若い女性の声がする。静依だろうか。
 俺は叫んだ。
「警察を呼んでください。この男は変態だ。このスマホを確認してもらってください」
「静依、俺を信じてくれ! こいつの言ってることは全部でたらめだ」
 ワンピースを着た女性が、玄関のアプローチを下りてくると、俺が差し出したスマホをのぞきこんだ。通話中の表示が光っている。
『ねえ、なに? どうしたの?』
 スマホから響く女の声をきいて、目の前の女性が血相を変えた。
「ねえ、もう元カノとは別れたって言ってたよね」
「違う、違うんだよ」
「私、嘘つきって大嫌い!」
 それはまさに八年前にきいた静依の声だった。
 歩道の先から自転車に乗った警官がやってきた。住民の誰かが通報したようだ。
 男はつかまり、俺への暴行容疑で事情を聞かれることになった。
 俺はほっとして道端にへたりこんだ。救急車のサイレンが近づいてくる。
 よろよろと歩いて、植え込みの端に置きっぱなしだった桐箱を持ち上げた。
「これ、どうぞ。今夜はお祝いだったんですよね。台無しにしてしまったお詫びです。お母さんと飲んでください。味は間違いないので」
 静依は気が進まなさそうに箱を受け取った。
 ずっと会っていないのだ。見知らぬ血まみれ男から突然こんなものを手渡されて、困惑しているのだろう。
「ああもう、仕方ないな。……怪我が治ったら、一緒に飲もうよ、お父さん」
 そっぽを向いたまま、小さな声でつぶやいた。


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