7/7 「もし、条件を飲むのであれば」

文字数 3,478文字

「もし、条件を飲むのであれば、ここにサインをするんだね…そうすれば、契約は成立する…」

 ディープネスのしわがれた声が、あたりに反響する。ヒカルの鼻先に、契約書が差し出される。それが青白い光を発し、そのなかに、黒い文字が浮かび上がってくる。

 条件というのは、次のようなものだった。

 ヒカルは、これからの人生において、ディープネスただひとりを愛さなくてはならない。ヒカルは、月に一度、満月の夜に、必ずディープネスに会いに来なくてはならない。

 以上の規約が破られた場合、あかりの皮膚は、即、ディープネスのものとなる。つまり、規約が守られているかぎり、あかりの皮膚は無事であるということだった。

 ヒカルは、しばらくのあいだ、呆然と青白い光を見ていたが、そうするうちに、しだいに現実感がなくなり、夢を見ているような、ぼんやりとした気持ちになってきた。

「ほら…ペンを持って…」

 ヒカルは、目の前に差し出されたペンを手に取った。

「ウフフ…さあ、ここにサインするんだよ…」

 ディープネスの干からびた指が、あらかじめ「Deepness」と署名されてある、その下の空欄を示す。ヒカルは、定まらない手付きで、ペン先をそこまで持っていった。

「そう…そこに、名前を書くんだ…」

 ペン先は、空欄のうえで、フラフラと揺れる。

「さあ…早く…」

 ペン先が、ポツリと紙面に触れた。

「そう…それでいい…」

 と思ったら、また離れる。

「ああ、もう、じれったいね!! こう、サラサラっと、書けないもんかね!!」

 ディープネスは、ヒカルの手首をつかみ、強引にサインさせようとした。

 そのとき、バンッという大きな音をたてて、入口の扉が開かれた。そこに立っているのは、懐中電灯を持った市河さんと、火の点いたライターを手にしたあかりだった。

 ふたりが目にしたのは、呆然と契約書を見ているヒカルと、そこに無理矢理サインをさせようとしているディープネスの姿だった。

「なななななななんなの、あれ?」

 市河さんが、震えた声で訊ねるが、それが、あかりが言っていた「動くミイラ」であることは、一目瞭然だった。

「ヒカルくん!!」

 あかりは、そう呼びかけたが、ヒカルは呆然と契約書を見たままで、こちらの存在にすら気付いていないようだった。

「フフン、あの小娘かい…残念だったね、わたしたちは、いま、愛の契りを交わすところなんだよ…そこで、指をくわえて、見てるがいいさ!!」

 ディープネスは、そう言うと、ヒカルの手を動かして、サインをしようとする。

「ヒカルくん!!」

 あかりの叫びも虚しく、ペンは走り始める。

「ウフフ…『宮本…』」

 あかりは、それを見て息をのみ、あらんかぎりの力を込めて、彼の名を呼んだ。

「ヒカルーッ!!」

 自分の名を呼ぶ、誰かの声を聞いて、ヒカルは、ハッと我にかえった。目の前の契約書に、自分の名前が、「宮本ヒカ」まで書かれている。

「うわあッ!!」と声を上げて、それを書き上げようとしている手を振り上げる。

 不意を付かれたディープネスが、そのあおりをまともにくらって、後ろに倒れ込む。ヒカルは、ハッと、そちらを振りかえった。

 五年振りに見た、ディープネスのすがたが、懐中電灯の明かりに照らし出された。そのすがたは、五年前の記憶どおり、やはり、みにくかった。

「ヒカル!! こっちへ!! 早く!!」

 また、誰かの声が聞こえた。ヒカルからは、懐中電灯の明かりで、逆光になるので、その顔は見えなかったが、とにかく、闇雲に光の方へと駆け出した。

* * *

 ヒカルがこちらに駈けて来る、その後ろで、ディープネスが立ちあがり、ものすごい形相で追いかけてくる。

「ゆるさんゾ!! おまえら、全員、頭から食ってやるッ!!」

 市河さんが、大きな声で悲鳴を上げる。

「走って!! はやく!! ヒカル!!」

 あかりは、ライターを右手に、市河さんの自動車のなかにあった、バスケットから持ち出したヘアスプレーを左手に持って、それらを構えた。

 ディープネスの足は、外見に似合わず、おどろくほど速い。あっというまに、ヒカルに追いついてくる。

「ヒカルッ!! 飛んでッ!!」

 あかりの声と同時に、ヒカルが最後の一歩を、懐中電灯の明かりめがけて、飛ぶ。

 次の瞬間、あかりは、ライターの炎に、ヘアスプレーを吹きかけた。直径一メートルほどの火の玉が、三メートルほどの尾を引いて、ディープネスを包み込んだ。

「ギャアアアアアア!!」という、ディープネスの叫び声をしり目に、三人は外へと逃げ出す。

 ディープネスの乾燥した身体は、あっという間に炎につつまれた。その炎は、天井まで立ち上がり、燃え広がった。

 ディープネスの上げる叫び声は、土蔵が炎に包まれていくにつれて、小さくなっていき、しまいには聞こえなくなった。

* * *

 三人は、安全なところまで離れて、土蔵が燃え上がるのを呆然と眺めていた。

「土蔵、燃えちゃったね…」あかりがつぶやく。

「ああ…母屋が心配だな…燃えうつらなければいいんだけど…」とヒカル。

「そうよッ!! はやく一一九番に連絡しないと!!」市河さんは、そう言って、携帯電話を取り出すが、そのとき、サイレンの音が聞こえてくる。

「あれ? 誰かが通報したのかな?」あかりがサイレンの聞こえる方角の空を見ながら言う。

「ああ…でも、このサイレン、何か変じゃないか?」とヒカル。

「あッ…これ、消防車じゃなくて、パトカーのサイレンだわ…」病院関係者である市河さんが、その違いを指摘する。

「そうか…病院の誰かが、警察に通報して…」あかりと市河さんが、顔を見合わせて、苦笑する。

 ヒカルは、何のことか分からず、不思議そうな顔で、ふたりを見ている。

「あッ、いけない!! 緒方先生のこと、忘れてた!!」とつぜん市河さんが声を上げる。

「あッ、ほんとだ!! 自動車、けっこう土蔵の近くに停めたけど、大丈夫かな?」

「うーん…無事だと思うけど、きっと、炎の熱で、車内の温度が上がって、ウンウンうなっているんじゃないかしら」

「フフ…市河さん、ちょっとうれしそうですね」

「ウフフ…あの先生には、いつも、いびられてばかりだからね…こんなときじゃないと、仕返しできないんだもん」

 そう言って、ふたりは楽しそうに笑う。

「それじゃ、ちょっと様子みてくるね」市河さんは、そう言った後、楽し気な足取りで、土蔵の方へと駆けていく。

 市河さんが走り去っていくのを見送りながら、ヒカルは気まずい空気を感じていた。ヒカルが両親たちにうその真実を告げたせいで、あかりは大変な目にあったようだった。

 そして、そんな困難な状況のなか、ここまで駆け付けて、最終的には、ディープネスからヒカルを救い出してくれたのだった。ヒカルは、死ぬことしか考えてなかった自分を情けなく思い、あかりに対して、申し訳無い思いでいっぱいになった。

「あかり…」

 あかりが、ふっとこちらを振り返る。

「何?」

 晴れやかな顔で、あかりは答えた。

「あかり…俺が間違っていた、ゆるしてくれ…」

 ヒカルは、静かな声でそう言って、頭を下げた。

「ヒカル…」

 あかりは、しばらくのあいだ、頭を下げているヒカルを見ていたが、急に、五年前のあの日に戻ったような気がしてきて、涙があふれてきた。

「いいの…こうして、わたしたち…昔みたいに…」

 あかりの声が涙まじりになっているのに気付いて、ヒカルは顔を上げた。

「ふふ…なんだか、うれしくって…」

 あかりは、そう言って、涙をぬぐった。

 あたりに野次馬たちが現われ始める。五年前の出来事は、近所でも知られていたので、ふたりは好奇の目にさらされた。

 消防車が到着して、放水を開始する。炎は勢いよく燃え上がっていたが、風向きが幸いしているのか、いまのところ、母屋は大丈夫そうだ。

 ホッとするのもつかの間、人ゴミをかき分けて、何人かの警察官が、ふたりに近づいてくる。

「ヒカル…」

 それに気付いたあかりが、心配そうにつぶやく。

「大丈夫…」

 ヒカルはそう答えて、あかりの肩をそっと抱き寄せる。そのときに、ふと思い出して、その腕を見てみると、すでに黒い部分は消えていた。(了)
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