美味しい木の実ジャム
文字数 2,486文字
この世界は15の月に分かれている。
そして、春島ではつい二か月くらい前に、朱神官の交代があった。
悪事をはたらいたダリウス朱神官が失脚し、女性のエモア神官が新しく朱神官に就任した。
それからの春島では、その件の残務処理とでもいおう雑務が山のようにあり、エモア朱神官はてんてこ舞いのようだ。
それでも春島では春主祭という春主に感謝を示すお祭りがおこなわれる。
春主であるわたくしの為に。
これは、四季の浮島ごとに年に一回催される。
春主祭は三月一日に行われる。同じように夏島では六月一日、秋島では九月一日、冬島では十二月一日に。そして、主島では創造主祭と言って十五月から半月あまりの大連休になり、この期間は世界がすべてお祭りになる。
そんな春主祭が間近に迫ったある日のことだった。
五十代になったばかりの女性である、エモア朱神官は、朝の報告をするためにわたくしの執務室へきていた。
そして、一通りの報告をしたあとに、橙色のなにかが入った小ぶりの瓶を荷物から取り出して、執務机に座っているわたくしに渡してくれた。
「ルファさま。最近、神官たちの食堂で、おいしいと評判のジャムをもってきてみました」
エモア朱神官は、女性らしい丸みのある声で、やさしくわたくしにその瓶をさしだした。
それは薄い桃色の紙が蓋にゴムでとめられている、実に可愛らしい包装の瓶だった。
「季主さまは食事をなさいませんけれど、食べることは出来るのですよね。このジャムはとびきりおいしかったので、ぜひルファさまにも味見を、と思ってもってまいりました」
エモア朱神官は、ダリウスの件での残務処理で忙しいだろうに、わたくしのためにわざわざ持ってきてくれたのだ。彼女の丸みのある顔が、笑顔になる。
「パンも持ってきましたので、あとでたべてください」
そう言って、ちいさなバスケットに入った白パンと、さじをわたくしの執務机においた。
「ありがとう、エモア朱神官。忙しいのに気を遣わせて悪いわね」
「いえ、これくらい何でもないことですよ」
オレンジ色のジャムの瓶が、あまりにも可愛らしい包装でおいしそうに見えたので、わたくしはそれをすぐに食べてみたくなった。
「いま、食べてみてもいいかしら」
「ええ、ぜひ」
よく見ると、瓶のピンクの紙には、「木の実ジャム」と書いてある。
「これは、なんの木の実なのかしら」
「サカの木の実です」
「サカの?」
わたくしは少し驚いて正面にたっているエモア朱神官を見上げた。
サカの実は、酸っぱくて食べることは稀な木の実だったからだ。
とても手間をかけて漬物にすると、独特の味わいでおいしい……という人もいる。
じつはわたくしはサカの実は苦手だ。
少し怯んで、可愛らしいジャムの瓶を眺める。
「オレンジ色をしているわね」
「そうですね、熟したサカ木の実を砂糖で煮詰めると、そういう色になるんです」
「サカの木の実ということは、やっぱりすっぱいのかしら」
少し心配してそう言うと、エモア朱神官はふふふ、と笑顔になる。
「子供でも食べられるくらい甘く煮てありますから、心配ないですよ」
「そうなのね、じゃあ、開けてみましょう」
ジャムの蓋についている桃色の紙を取って、密封された瓶の蓋を、力をこめて取る。
パカッと音がして、瓶に空気が入った。つやのある綺麗な橙色のジャムが、爽やかな香りと共に顔をのぞかせた。
「いい香りね」
笑顔のかたちに顔がゆるむ。
香りだけでも、とても新鮮で瑞々しさが伝わってきた。
さじで橙色のそれをすくって、白パンに塗る。
そして、それを口に含むと、香りは何倍にもなって鼻にぬけていった。
爽やかでいて、少しの酸味があり、とても甘い。
「おいしいわ」
「そうでしょう!」
エモア朱神官が言った通り、そのジャムは最高においしかった。
久しく食事をしていなかったわたくしにとっては、また格別にすばらしい味に思えた。
「これは本当にいい味ね。サカの木の実が苦手なわたくしにも、おいしく食べられるわ」
エモア朱神官は手を合わせて満面の笑顔になる。
「喜んでくださって嬉しいです。最近は、この春神殿でこのジャムを知らない人はいないくらいなんですよ」
「そうなの」
私も笑顔になる。ジャムをパンに塗って食べながら、このジャムに舌鼓を打っていた。
そのとき、天啓のようにわたくしはひらめいた。
「ねえ、エモア朱神官。このジャム、春主祭のときに春神殿で売る商品にできないかしら」
「は、はい?」
突然言ったわたくしの言葉にエモア朱神官は目をひらいて驚いた。
「商品、にですか?」
「そう。こんなに美味しいんだもの、売っても支障ないと思うわ」
エモア朱神官はまた考え込んだ。
軽く眉間にしわを寄せ、しきりに自分の頬を撫でる。
「そうですね……。それも、面白いかもしれませんね」
「そうでしょう?」
「では、さっそく手配してみましょうか。そんなに多くない数の手作りジャムなら、材料をそろえて一日あれば出来るでしょう」
ざっとエモア朱神官は計算しているようだった。
わたくしもなんだか楽しくなってきて。
「そうと決まれば、わたくしもその手作りジャムをつくるのを、手伝わせてもらうわ」
「そうですか……えっ? はい? いまなんと?」
思案顔のところにエモア朱神官には寝耳に水だったようで。
わたくしの言葉を確認するために、驚いた顔でこちらを見る。
「わたくしも、ジャム作りに参加します。面白そうだから」
「は、はい……。ルファさまがそうおっしゃるのなら、見学くらいなら、まあ何とか」
「見学? それじゃ、おもしろくないわね。気を遣わせるのは十分承知しているけれど、やってみたいと思うの」
エモア朱神官は苦笑して、わたくしを見た。
「ルファさまが、じきじきにですか?」
「そうよ」
「はあ。仕方がないですね。分かりました。手配しておきます」
最後はあきらめたような顔でわたくしの思いつきのわがままを聞いてくれた。
その日、わたくしはおいしいジャムをつくるという仕事に夢中になった。
その作業を通して、こころに痛い『想い』と『愛』も、知ることになる。
そして、春島ではつい二か月くらい前に、朱神官の交代があった。
悪事をはたらいたダリウス朱神官が失脚し、女性のエモア神官が新しく朱神官に就任した。
それからの春島では、その件の残務処理とでもいおう雑務が山のようにあり、エモア朱神官はてんてこ舞いのようだ。
それでも春島では春主祭という春主に感謝を示すお祭りがおこなわれる。
春主であるわたくしの為に。
これは、四季の浮島ごとに年に一回催される。
春主祭は三月一日に行われる。同じように夏島では六月一日、秋島では九月一日、冬島では十二月一日に。そして、主島では創造主祭と言って十五月から半月あまりの大連休になり、この期間は世界がすべてお祭りになる。
そんな春主祭が間近に迫ったある日のことだった。
五十代になったばかりの女性である、エモア朱神官は、朝の報告をするためにわたくしの執務室へきていた。
そして、一通りの報告をしたあとに、橙色のなにかが入った小ぶりの瓶を荷物から取り出して、執務机に座っているわたくしに渡してくれた。
「ルファさま。最近、神官たちの食堂で、おいしいと評判のジャムをもってきてみました」
エモア朱神官は、女性らしい丸みのある声で、やさしくわたくしにその瓶をさしだした。
それは薄い桃色の紙が蓋にゴムでとめられている、実に可愛らしい包装の瓶だった。
「季主さまは食事をなさいませんけれど、食べることは出来るのですよね。このジャムはとびきりおいしかったので、ぜひルファさまにも味見を、と思ってもってまいりました」
エモア朱神官は、ダリウスの件での残務処理で忙しいだろうに、わたくしのためにわざわざ持ってきてくれたのだ。彼女の丸みのある顔が、笑顔になる。
「パンも持ってきましたので、あとでたべてください」
そう言って、ちいさなバスケットに入った白パンと、さじをわたくしの執務机においた。
「ありがとう、エモア朱神官。忙しいのに気を遣わせて悪いわね」
「いえ、これくらい何でもないことですよ」
オレンジ色のジャムの瓶が、あまりにも可愛らしい包装でおいしそうに見えたので、わたくしはそれをすぐに食べてみたくなった。
「いま、食べてみてもいいかしら」
「ええ、ぜひ」
よく見ると、瓶のピンクの紙には、「木の実ジャム」と書いてある。
「これは、なんの木の実なのかしら」
「サカの木の実です」
「サカの?」
わたくしは少し驚いて正面にたっているエモア朱神官を見上げた。
サカの実は、酸っぱくて食べることは稀な木の実だったからだ。
とても手間をかけて漬物にすると、独特の味わいでおいしい……という人もいる。
じつはわたくしはサカの実は苦手だ。
少し怯んで、可愛らしいジャムの瓶を眺める。
「オレンジ色をしているわね」
「そうですね、熟したサカ木の実を砂糖で煮詰めると、そういう色になるんです」
「サカの木の実ということは、やっぱりすっぱいのかしら」
少し心配してそう言うと、エモア朱神官はふふふ、と笑顔になる。
「子供でも食べられるくらい甘く煮てありますから、心配ないですよ」
「そうなのね、じゃあ、開けてみましょう」
ジャムの蓋についている桃色の紙を取って、密封された瓶の蓋を、力をこめて取る。
パカッと音がして、瓶に空気が入った。つやのある綺麗な橙色のジャムが、爽やかな香りと共に顔をのぞかせた。
「いい香りね」
笑顔のかたちに顔がゆるむ。
香りだけでも、とても新鮮で瑞々しさが伝わってきた。
さじで橙色のそれをすくって、白パンに塗る。
そして、それを口に含むと、香りは何倍にもなって鼻にぬけていった。
爽やかでいて、少しの酸味があり、とても甘い。
「おいしいわ」
「そうでしょう!」
エモア朱神官が言った通り、そのジャムは最高においしかった。
久しく食事をしていなかったわたくしにとっては、また格別にすばらしい味に思えた。
「これは本当にいい味ね。サカの木の実が苦手なわたくしにも、おいしく食べられるわ」
エモア朱神官は手を合わせて満面の笑顔になる。
「喜んでくださって嬉しいです。最近は、この春神殿でこのジャムを知らない人はいないくらいなんですよ」
「そうなの」
私も笑顔になる。ジャムをパンに塗って食べながら、このジャムに舌鼓を打っていた。
そのとき、天啓のようにわたくしはひらめいた。
「ねえ、エモア朱神官。このジャム、春主祭のときに春神殿で売る商品にできないかしら」
「は、はい?」
突然言ったわたくしの言葉にエモア朱神官は目をひらいて驚いた。
「商品、にですか?」
「そう。こんなに美味しいんだもの、売っても支障ないと思うわ」
エモア朱神官はまた考え込んだ。
軽く眉間にしわを寄せ、しきりに自分の頬を撫でる。
「そうですね……。それも、面白いかもしれませんね」
「そうでしょう?」
「では、さっそく手配してみましょうか。そんなに多くない数の手作りジャムなら、材料をそろえて一日あれば出来るでしょう」
ざっとエモア朱神官は計算しているようだった。
わたくしもなんだか楽しくなってきて。
「そうと決まれば、わたくしもその手作りジャムをつくるのを、手伝わせてもらうわ」
「そうですか……えっ? はい? いまなんと?」
思案顔のところにエモア朱神官には寝耳に水だったようで。
わたくしの言葉を確認するために、驚いた顔でこちらを見る。
「わたくしも、ジャム作りに参加します。面白そうだから」
「は、はい……。ルファさまがそうおっしゃるのなら、見学くらいなら、まあ何とか」
「見学? それじゃ、おもしろくないわね。気を遣わせるのは十分承知しているけれど、やってみたいと思うの」
エモア朱神官は苦笑して、わたくしを見た。
「ルファさまが、じきじきにですか?」
「そうよ」
「はあ。仕方がないですね。分かりました。手配しておきます」
最後はあきらめたような顔でわたくしの思いつきのわがままを聞いてくれた。
その日、わたくしはおいしいジャムをつくるという仕事に夢中になった。
その作業を通して、こころに痛い『想い』と『愛』も、知ることになる。