ごめんね

文字数 1,023文字

 あなたの息遣いが、寝息に変わった。

 とっても分かりやすい。
 ほら。ほっぺをツンてしても、気づかない。

 いつの間にか寝落ちしちゃってることがよくあるね。
 寝てたでしょって指摘しても、寝てないよって慌てたように嘘をつく。そんなところは、とっても可愛い。
 でも、今夜はいいの。ゆっくり寝てて。

 どうせいい男ぶってるだけの、ただの金持ちのおぼっちゃまだと思ってた。なのに本当にいい男だったから、わたしとしたことが本気になりそう。

 出会いは、あなたの会社の前。
 よそ見してたわたしがぶつかって、持ってたラテをぶちまけちゃった。
 ごめんね。
 ううん。ぶつかったことじゃない。それは、あの時、すぐに謝ったもの。
 あれ、偶然じゃないの。よそ見してたわけでもない。
 むしろ逆。
 何日も前から計画を練ってた。
 あなたをじっと目で追いかけて、ぶつかるタイミングを計ってた。
 高そうなスーツを汚しちゃうのが、ちょっとだけ罪悪感だったかな。

 サイドテーブルの上のワイングラスと無邪気な寝顔とを見比べる。
 笑ってるみたい。
 ほんの少し良心が痛む。けれど、この痛みこそが快感だから、やめられない。

 ごめんね。

 ベッドのそばの壁。四か所を決められた順に指で押す。
 壁の一部が四角く切り取られたように開いて、A4サイズほどの金属の扉が現れる。
 
 一週間も前に分かってたんだけど。
 お別れするのが淋しくて、つい長居をしてしまったわ。
 ワイン、美味しかった?
 睡眠薬が入ってるなんて気づかなかったでしょ。
 ごめんね。

 左手を借りるわね。

 その指先がギリギリ届くところ。
 金属の扉の読み取り部分に、薬指を押し当てる。
 小さな電子音が鳴って、指紋認証完了。
 パスワードは、亡くなったお父様のイニシャルと誕生日の組み合わせ。

 あなたのお家に代々伝わる、お父様の形見とも言えるルビーをいただくのは気が引けるけれど。
 ごめんなさい。

 今夜は謝ってばかりだね。

 扉を開く。
 中には小さな宝石箱が——

 無いっ?!

 そんな馬鹿な。
 ここに仕舞うのを、この目で見たのに。

 中にあったのは、一枚のカードだけ。

《ごめんね。あのルビーはあげられないんだ》

 どうして??

 寝顔は、やっぱり小さく笑ってる。

 あなたってば、やっぱりただのおぼっちゃまじゃなかったのね。

 ああ、わたしの負けか。

 残念だけど。

 これは完敗のキス。

 さようなら——

 でも、きっと、またいつか——

 覚えてらっしゃい。


   —— 了 ——
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