第19話 サクラ、サ、ク、ラ……
文字数 3,437文字
〜桜子のいる風景〜
桜が満開だ。
月明かりのなかでは雪景色のようにも見える。
少し、ひんやり、薄気味悪い。
土をほる音が単調に続く。
人の気配はない。
風も吹かない。
静寂。
おまえが悪いんだからな——と、タカトは胸の内で、つぶやく。
おれは別れようと言ったのに、おまえがイヤがるから……。
桜子のことは、ほんとに好きだった。
こんなに人を愛するのは最初で最後だろうとすら思った。
彼女は、まるで天使だった。
あれほど、はかなげに美しい人は、ほかにいない。
できることなら、桜子と結婚したかった。
結婚して、平凡に子どもなんて二、三人作って、ささやかな幸福なんてのを味わいたかった。
でも、タカトには、あきらめきれない夢があった。
自分に才能がないことは、わかっていたが。
子どものころから絵を描くのが好きだった。一生、絵だけを描いていたいと思った。だが現実には、そうはいかなくて、小さな広告会社でチラシの絵なんか描いてる。
このまま、一生、埋もれていくのかなと、思っていた。ほんとにやりたいことと、生きるためにやらなければならないことの、はざまで。
ゆっくり、静かに、つもっていく。
灰色の絶望感。
それは、静かに降りつもる雪のような。風に吹かれる桜の花びらのような……。
桜子と出会ったのは、そのころだ。
夢はやぶれた。でも、桜子との静かな時間は、その穴を埋めてくれた。
彼女となら、このまま、平凡な一生に埋もれてもいい……。
そう思った。
桜子は、ふしぎな女だ。
激しく存在を主張するわけじゃない。そこにいるのが、あたりまえのように、景色にとけこむ。
だからって、影が薄いわけでもない。
彼女が、そこにいることによって、すべての景色が数段、美しくなる。
景色が桜子色に染まる。
タカトのわびしい安アパートの一間も。さびれた商店街も。誰もいない小学校の校庭も。ゴミ捨場でさえ。
桜子がいれば、美しい。
そう。花にたとえれば、桜。
桜子は桜の精のような女。
「おまえって、桜みたい」
タカトが言うと、桜子は笑った。
「そうなの。どうして、わかったの?」
真剣な顔で答えるので、タカトも笑った。
「わかるよ。だって、まんまだもんな」
ささやかで、幸福な日々。
「ずっと、いっしょにいよう」
おまえと名もなき生涯を送ろう。
それも、きっと、よき人生……。
でも、そのあと、すぐ事態は変わった。
何かを求めたわけじゃない。
最後に、もう一度、賭けてみようとすら思ったわけじゃない。
桜子と暮らすために、今のせまいアパートを引っ越すことにした。そのために、不必要なものは全部、処分しようとした。ただ、それだけ。
描きためたガラクタを画廊に、まとめて持っていった。廃品回収のようなつもりで。
画廊の女社長は言った。
「この絵、高く売ってあげようか? あたしといれば、きっと、あなたは成功するわ」
タカトの絵に価値があるわけじゃないことは、わかっていた。女はタカト自身に価値を見いだした。
どぎつい鬼百合みたいな女。
まったく好みじゃないが、でも、絵は売れる。それだけのコネが、女にはある。
「ごめんな。桜子。形式だけだから。あいつのことは利用するだけだよ。あいつの手を離れて、おれの名前だけで売れるようになったら、かならず、おまえを迎えに行くから」
もちろん、桜子はゆるしてくれなかった。
責めはしない。ただ、泣きじゃくる。
愛をとるか、夢をとるかの二者択一。
タカトは夢をとった。
それは、何度、ざせつしても、焦がれ続けた夢だったから。
それで、今、ここで、こうしている。
桜子の郷里だという山里で。
桜の古木にかこまれながら、ザクザク。ザクザク。穴をほる。
ウソみたいと言われそうだが、タカトは泣いた。
桜子への愛は高まるばかりだ。
さよなら。おれの愛した、ただ一人の人。
おれはもう一生、恋はしないよ。
今ここで、おまえとともに葬ったから。
おれの心も。ここへ。
泣きながら、車をとめた車道まで帰った。
なんだか、おかしいとは感じていた。
車道に帰るまでのあいだ、何度も背後をふりかえった。
何かが、あとをつけてくる……。
ウソだろ? 気のせいだ。
きっと、愛する人を殺した罪の意識が、そんな錯覚を感じさせるんだ。
車道に出た。
人影は、やはりない。
タカトは安心して、運転席に乗った。
エンジンをかけ、ライトをつけたとたん、光のなかを何かが、よぎった。
一瞬、白いワンピースを着た女に見えた。
心臓が止まりそうになる。
が、よく見れば、風だ。風のせいだ。
薄闇のなか舞い散る桜吹雪が、人影に見えたのだ。
山道に車を走らせた。
静けさが、のしかかるように迫る。
トンネルに入ったとき、音が聞こえた。
なんだろう? あれは?
何かが走っているような……?
裸足で走る人の足音……。
まさか、この深夜にランニングか? それも裸足で?
そんなやつ、いるはずない。
なら、なんだっていうんだ。この音……。
バックミラーを見るのが、怖い。
そこに、あるはずのないものを見てしまいそうで。
呼吸が速まる。
動悸も激しい。
あの音が、せまってくる。
(桜子。おまえなのか? おれを恨んで?)
恐る恐る、バックミラーをのぞいた。
白いものが見える。
何かが追ってくる。
影のような、ふわふわしたもの。
タカトは悲鳴をあげた。
思いきり、アクセルをふかした。
急カーブの続く山道を右に左に、車体は振られる。
だが、どんなにスピードを出しても、影は追ってくる。
(ゆるしてくれ! 桜子。おまえを愛してたのは、ほんとなんだ。殺したくなかった。ずっと、いっしょにいたかった)
白い影が笑ったように見えた。
タカトはアクセルをふんだ。メーターは、すでに百キロ出てる。
影が笑う。
パタパタと足音が追ってくる。
やめろ! やめてくれ!
だから、おれは言ったじゃないか。
形だけだって。別れるふりしてくれたらいいって。
おまえがいけないんだ。
うんと言ってくれなかったから。
おれには夢があるんだよ。
泣きながらハンドルを切った。
前が見えない。後輪がすべった。
車はガードレールにぶつかり、止まった。
とたんに足音がやんだ。
影も見えなくなった。
急停車の衝撃で、タカトは気を失った。
気がついたときには、夜が明けていた。
東の空が白みはじめている。
タカトは周囲を見まわした。
桜子に追いかけられた、あの恐怖。
あれは、夢だったのか?
あたりに不審なものは何もなかった。
けっこうなスピードで事故ったが、大きなケガをしてるふうもなかった。
タカトはドアをあけ、車外に出た。
冷たい空気が気持ちを冷静にしてくれる。
車体の背後にまわりこんだタカトは、それに気づいた。
いったい、いつからだったのだろう?
たぶん、トランクから桜子の死体を出すときに、ひっかかったのだ。
桜子のしていた白いスカーフ。
トランクから、はみだし、地面に長く、ぶらさがっている。
これが車体をたたいたから、あんな音がした。そして、ふわふわと舞いあがる姿が人影に見えた。
見つめるうちに、タカトは涙があふれてきた。
これは、きっと、桜子の心だ。
暗く静かな山奥に、たった一人で置いていかれるのが、さみしかったにちがいない。
あなたといたいの。
殺されてもいいから。
ずっと、いっしょに……。
そう、彼女が、ささやいたような気がした。
スカーフを助手席に結んだ。
いっしょに帰ろう。
やっぱり、おれの恋人は、おまえしかいないよ。
数時間、車を運転して、自宅へ帰った。アパートのカギをあけると、桜子がすわっていた。
「遅かったのね。タカトさん。わたしのほうが早く、ついちゃったわ」
タカトは彼女を見つめた。
「……なんで、ここにいるの?」
「言ったじゃない。わたし、桜なのよ。桜の精。知ってる?ソメイヨシノって、一本の木の分身なのよ。今風に言うと、クローン?」
そうだ。ソメイヨシノは一本の木を接ぎ木で増殖させた。日本中にある何万本もの桜は、すべて、同じ木、同じ遺伝子……。
その一本ずつに、精霊が宿るのだとしたら。
その一人ずつが、同じ遺伝子なのだとしたら……。
おれが桜子と別れるためには、いったい、何人の桜子を殺し続ければいい……?
タカトは笑った。
もう笑うしかなかった。
桜みたいな女なんて、愛するもんじゃない。
思ってたより、ずっと、しぶとい。
桜が満開だ。
月明かりのなかでは雪景色のようにも見える。
少し、ひんやり、薄気味悪い。
土をほる音が単調に続く。
人の気配はない。
風も吹かない。
静寂。
おまえが悪いんだからな——と、タカトは胸の内で、つぶやく。
おれは別れようと言ったのに、おまえがイヤがるから……。
桜子のことは、ほんとに好きだった。
こんなに人を愛するのは最初で最後だろうとすら思った。
彼女は、まるで天使だった。
あれほど、はかなげに美しい人は、ほかにいない。
できることなら、桜子と結婚したかった。
結婚して、平凡に子どもなんて二、三人作って、ささやかな幸福なんてのを味わいたかった。
でも、タカトには、あきらめきれない夢があった。
自分に才能がないことは、わかっていたが。
子どものころから絵を描くのが好きだった。一生、絵だけを描いていたいと思った。だが現実には、そうはいかなくて、小さな広告会社でチラシの絵なんか描いてる。
このまま、一生、埋もれていくのかなと、思っていた。ほんとにやりたいことと、生きるためにやらなければならないことの、はざまで。
ゆっくり、静かに、つもっていく。
灰色の絶望感。
それは、静かに降りつもる雪のような。風に吹かれる桜の花びらのような……。
桜子と出会ったのは、そのころだ。
夢はやぶれた。でも、桜子との静かな時間は、その穴を埋めてくれた。
彼女となら、このまま、平凡な一生に埋もれてもいい……。
そう思った。
桜子は、ふしぎな女だ。
激しく存在を主張するわけじゃない。そこにいるのが、あたりまえのように、景色にとけこむ。
だからって、影が薄いわけでもない。
彼女が、そこにいることによって、すべての景色が数段、美しくなる。
景色が桜子色に染まる。
タカトのわびしい安アパートの一間も。さびれた商店街も。誰もいない小学校の校庭も。ゴミ捨場でさえ。
桜子がいれば、美しい。
そう。花にたとえれば、桜。
桜子は桜の精のような女。
「おまえって、桜みたい」
タカトが言うと、桜子は笑った。
「そうなの。どうして、わかったの?」
真剣な顔で答えるので、タカトも笑った。
「わかるよ。だって、まんまだもんな」
ささやかで、幸福な日々。
「ずっと、いっしょにいよう」
おまえと名もなき生涯を送ろう。
それも、きっと、よき人生……。
でも、そのあと、すぐ事態は変わった。
何かを求めたわけじゃない。
最後に、もう一度、賭けてみようとすら思ったわけじゃない。
桜子と暮らすために、今のせまいアパートを引っ越すことにした。そのために、不必要なものは全部、処分しようとした。ただ、それだけ。
描きためたガラクタを画廊に、まとめて持っていった。廃品回収のようなつもりで。
画廊の女社長は言った。
「この絵、高く売ってあげようか? あたしといれば、きっと、あなたは成功するわ」
タカトの絵に価値があるわけじゃないことは、わかっていた。女はタカト自身に価値を見いだした。
どぎつい鬼百合みたいな女。
まったく好みじゃないが、でも、絵は売れる。それだけのコネが、女にはある。
「ごめんな。桜子。形式だけだから。あいつのことは利用するだけだよ。あいつの手を離れて、おれの名前だけで売れるようになったら、かならず、おまえを迎えに行くから」
もちろん、桜子はゆるしてくれなかった。
責めはしない。ただ、泣きじゃくる。
愛をとるか、夢をとるかの二者択一。
タカトは夢をとった。
それは、何度、ざせつしても、焦がれ続けた夢だったから。
それで、今、ここで、こうしている。
桜子の郷里だという山里で。
桜の古木にかこまれながら、ザクザク。ザクザク。穴をほる。
ウソみたいと言われそうだが、タカトは泣いた。
桜子への愛は高まるばかりだ。
さよなら。おれの愛した、ただ一人の人。
おれはもう一生、恋はしないよ。
今ここで、おまえとともに葬ったから。
おれの心も。ここへ。
泣きながら、車をとめた車道まで帰った。
なんだか、おかしいとは感じていた。
車道に帰るまでのあいだ、何度も背後をふりかえった。
何かが、あとをつけてくる……。
ウソだろ? 気のせいだ。
きっと、愛する人を殺した罪の意識が、そんな錯覚を感じさせるんだ。
車道に出た。
人影は、やはりない。
タカトは安心して、運転席に乗った。
エンジンをかけ、ライトをつけたとたん、光のなかを何かが、よぎった。
一瞬、白いワンピースを着た女に見えた。
心臓が止まりそうになる。
が、よく見れば、風だ。風のせいだ。
薄闇のなか舞い散る桜吹雪が、人影に見えたのだ。
山道に車を走らせた。
静けさが、のしかかるように迫る。
トンネルに入ったとき、音が聞こえた。
なんだろう? あれは?
何かが走っているような……?
裸足で走る人の足音……。
まさか、この深夜にランニングか? それも裸足で?
そんなやつ、いるはずない。
なら、なんだっていうんだ。この音……。
バックミラーを見るのが、怖い。
そこに、あるはずのないものを見てしまいそうで。
呼吸が速まる。
動悸も激しい。
あの音が、せまってくる。
(桜子。おまえなのか? おれを恨んで?)
恐る恐る、バックミラーをのぞいた。
白いものが見える。
何かが追ってくる。
影のような、ふわふわしたもの。
タカトは悲鳴をあげた。
思いきり、アクセルをふかした。
急カーブの続く山道を右に左に、車体は振られる。
だが、どんなにスピードを出しても、影は追ってくる。
(ゆるしてくれ! 桜子。おまえを愛してたのは、ほんとなんだ。殺したくなかった。ずっと、いっしょにいたかった)
白い影が笑ったように見えた。
タカトはアクセルをふんだ。メーターは、すでに百キロ出てる。
影が笑う。
パタパタと足音が追ってくる。
やめろ! やめてくれ!
だから、おれは言ったじゃないか。
形だけだって。別れるふりしてくれたらいいって。
おまえがいけないんだ。
うんと言ってくれなかったから。
おれには夢があるんだよ。
泣きながらハンドルを切った。
前が見えない。後輪がすべった。
車はガードレールにぶつかり、止まった。
とたんに足音がやんだ。
影も見えなくなった。
急停車の衝撃で、タカトは気を失った。
気がついたときには、夜が明けていた。
東の空が白みはじめている。
タカトは周囲を見まわした。
桜子に追いかけられた、あの恐怖。
あれは、夢だったのか?
あたりに不審なものは何もなかった。
けっこうなスピードで事故ったが、大きなケガをしてるふうもなかった。
タカトはドアをあけ、車外に出た。
冷たい空気が気持ちを冷静にしてくれる。
車体の背後にまわりこんだタカトは、それに気づいた。
いったい、いつからだったのだろう?
たぶん、トランクから桜子の死体を出すときに、ひっかかったのだ。
桜子のしていた白いスカーフ。
トランクから、はみだし、地面に長く、ぶらさがっている。
これが車体をたたいたから、あんな音がした。そして、ふわふわと舞いあがる姿が人影に見えた。
見つめるうちに、タカトは涙があふれてきた。
これは、きっと、桜子の心だ。
暗く静かな山奥に、たった一人で置いていかれるのが、さみしかったにちがいない。
あなたといたいの。
殺されてもいいから。
ずっと、いっしょに……。
そう、彼女が、ささやいたような気がした。
スカーフを助手席に結んだ。
いっしょに帰ろう。
やっぱり、おれの恋人は、おまえしかいないよ。
数時間、車を運転して、自宅へ帰った。アパートのカギをあけると、桜子がすわっていた。
「遅かったのね。タカトさん。わたしのほうが早く、ついちゃったわ」
タカトは彼女を見つめた。
「……なんで、ここにいるの?」
「言ったじゃない。わたし、桜なのよ。桜の精。知ってる?ソメイヨシノって、一本の木の分身なのよ。今風に言うと、クローン?」
そうだ。ソメイヨシノは一本の木を接ぎ木で増殖させた。日本中にある何万本もの桜は、すべて、同じ木、同じ遺伝子……。
その一本ずつに、精霊が宿るのだとしたら。
その一人ずつが、同じ遺伝子なのだとしたら……。
おれが桜子と別れるためには、いったい、何人の桜子を殺し続ければいい……?
タカトは笑った。
もう笑うしかなかった。
桜みたいな女なんて、愛するもんじゃない。
思ってたより、ずっと、しぶとい。