【Tー②】リバースグッドデイ
文字数 7,128文字
「ほうらいけいけ」
「か、勘弁して下さい」
グラスになみなみと注がれた酒は……もはや何杯目を迎えたか。
呆けた頭は目の前の景色を少しだけぼやけさせ、先輩の輪郭を歪ませつつある。
「アルハラってやつですよ」
「そんな名前の知り合いはいねえ」
俺の返しを鼻で笑いながら、自分のグラスを傾けた。
……夜も暗に暮れ、がやがやと喧騒が乱れる最中に俺達は居る。
俗に言う、大衆居酒屋と銘打たれたここには。時間を持て余した若者や仕事終わりの社会人、むしろ仕事中? とも取れる女と。
多種多様な人物で溢れ返っている。
なぜ我々がそこに身を置いているかといえば……
「ようし改めて乾杯だほらほら。では……おまえの門出を祝ってーーっっ」
「もう五回目ですよ」
こつんと互いのグラスを合わせる。
……こ れ は、どうやら俺の昇進祝いとの事だ。
社長から話を受けたその当日に呼び出され、勤め先から最寄りの盛り場へこうして席を設けられている。
失礼ながら単に呑みの口実なだけなのでは、とも思ったが──
「……社長に恥かかすなよ。しっかり俺らの仕事学んで貢献しろ、それがおまえの役目だ。わからない事があったらいつでも聞け」
「はい、精進します。……ありがとうございます」
──厚意は、有難く受け取っておこう。
────────────
──────
──
「そこで俺は言ってやったワケよ。……終電、無くなっちゃったね……ってな」
「男側が言うものなんですね」
先程見せた真剣な表情は幻であったのか。
”意中の女をさりげなく落とす方法”をレクチャーし始めた先輩は、今日一番の盛り上がりを見せている。
……気付けば、ラストオーダーの時間も近付いていた。
「先輩。ご指導非常に有難いんですが、そろそろいい時間ですよ」
「わーってるって、ちゃんと俺の采配は唸ってる。次で締めだよ」
そう言いながら、別のテーブルを片付けている従業員に手で合図を送る。
「はーい承りまーす。このご注文が最後になりますよー」
「了解っす、えっとですねー……」
駆け寄る利発そうな女性店員に対し。
先輩は、メニューを指しながら──
「この、大吟醸ヤマトを冷でふたつお願いしまーす」
──利き手にVサインを作り、そう答えた。
「ヤマト……ふたつ、ですねー。少々お待ち下さい、すぐご用意しますねー」
慣れた手つきでハンディを操作し、そう言い残しながら従業員は去る。
「いやー最近ハマっててさ、やっと自分に合う日本酒見つけたわー」
「……そうなんですね。ヤマト、ですか」
少しだけ過る思考は、その名前に対して……
「ふたつ頼んだからさ、おまえもいけよ」
「頂きます」
……だが決して対面の相手に悟られぬように。
「……そういやさあ」
「はい?」
先輩の呼び掛けに応を向ける。
ヤ マ ト への意識を、乗じて払拭させた。
「先輩って呼び、そろそろ辞めようぜ。……いいよ、他の皆と同じ様に言えよ」
少しだけ小恥ずかしそうに……鼻の頭をぽりぽりと掻きながら、そう言う。
「他の皆と同じ、というと……」
……思い当たるところはあった。
先輩は、名前を虎太郎 という。
それに伴い社長含め諸先輩は皆、親しみの意味を込め彼をトラと呼ぶ。
……オールバックを象った金色に染められたその髪も、その所以を後押ししている様な気がしないでもない。
「いや、でも。自分なんかが恐れ多いですよ」
「俺が良いっつってんだからいいんだよ。……ほら、おまえが龍 を背負ってて俺が虎 ってな。イケてんじゃん?」
なーんつってな、と続けながら。
先輩は豪快に笑ってみせた。
「お待たせしましたーっ。ヤマトの冷、おふたつですねー」
程なくして、注文したモノがテーブルに届く。
従業員へ会釈を返しながら、先輩は盃を手に取りこちらへ向ける。
「おら龍宮、業務命令だぞ」
「……命令でしたら、逆らえませんね」
俺も動作を同じくして、手に取った。
「おまえの門出を祝って」
「ありがとうございます、トラさん」
杯の会合をそのまま果たし。
俺達は、ヤマトを一気に呷った。
────────────
──────
──
「ふあ……」
思わずあくびが零れた。
お開きとなった祝賀会に少しの名残を惜しみながら店先で先輩……トラさんと別れ、微かに吹く生温い風を浴びながら帰路に着いている。
互いに明日も仕事だというのに、耽った夜は今日の時間を忘れていた事を改めて自覚させた。
『……浮かれて仕事中に怪我でもしたらそれこそ迷惑になるな』
さっさと帰って寝よう、と。
少しだけ千鳥足になっていた歩へ、加えて意識を向けた。
勤め先の借り上げ住宅として用意してもらっているアパートは、ここからそう遠くはない。
それなりの喧騒に塗れていた近場のネオン街からは打って変わって、少しの街灯だけが明かりを許すあぜ道を歩く。
……視界の先に広がる【空】には、光の粒が満遍なく敷き詰められていた。
俺は、それを美しいと感じる。
情緒の変動をいとも簡単に引き起こし、そして人間は何度でもそのブレを求める。
惹き付けて止まないその点在を、この手へ掴み込もうしても実際に届く事は難しい。
明滅する光は、体現させられた希望としてこの目に──
「──っと……」
……まだ酔いが醒めきっていないのだろうか。
無駄に膨らんでしまった思考を収縮させながら、携帯電話を取り出し時間を確認する。
液晶画面に表示された時刻は、ちょうど日付の変わりを映し出していた。
『……余計な事考えてる場合じゃないな、急ごう』
そう、心の中で考え。
再び意識を眼前へ向けた時──
「──────」
通る道の先に。
もはや異 物 とも言える程の存在感を携えた気配が、そこに在った。
蠢いているモノは、無形の黒。
精巧な絵画に一滴の墨汁を垂らすように、目の前に広がっていた道はひとつのイレギュラーによってその景観を崩す。
「……!?」
たじろぐ俺を余所に。
黒を模した不定形は、やがて歪を喪い。
…………四肢を携えた、狼の様な姿へと変化した。
「な──」
──何だ、と。
自らの口から言葉を発する暇さえ無かった。
狼 が少しだけ体を沈めるのを確認した直後、疾風の如く俺に向かって飛び込む。
「っっ──!!」
横に転がり込み何とか回避を成す。
すぐに狼へ視線を戻し、その動向を伺った。
……声を上げるでも無く。
こちらを威嚇でもしているかの様に、口──と思われる箇所──をぱくぱくと動作させながら。
再びこちらへ疾駆してくる。
対し、後ろへ飛び退いて脅威を免れた。
……狼の口ががちりと噛み合わさった箇所は、首 があった部分だと認識する。
俺の喉笛を噛みちぎろうとでもしていたのか。
「────」
尚も音を発さぬ障害は、こちらへ意を向ける。
狼……黒いモノが何であるのか、だとか。
なぜ俺がこんな目に遭っているのか、だとか。
少しの過りを携えた思考は、そのまま置き去りにする。
土埃の付着した服を払いながら、俺は──
「調子に乗るなよ犬畜生が」
──狼に深い憤りを覚えた。
意識を臨戦へと移行させた事を、生意気に察知でもしたのか。
狼は、さらに深く姿勢を落とす。
──意に介さず、こちらから駆ける。
同時に、付近の状況を再度確認。
通るあぜ道は……
視界が何とか確保出来る程度の灯りを見せ。
地面にぬかるみは感じず、踏み込みに不備は無い。
そして、周りに人気 は全く感じられない。
次いで──
──微量ながら、マナが滞留している。
『充分だ』
伴う要素は行動を満たすには事足りる。
駆ける足をそのままに、願望を成す。
獣を模したその体躯であれば、ある程度の動作は予想するに容易い。
先刻首を狙いに来たことからも、奴の目 的 は明確と判断。
……そして、思案する俺に向かい。
狼は三度 飛びかかってきた。
いくらそれなりの疾さを以ていようが、方向を絞れるのであれば対応の仕様はある。
……変わらず、狼は俺の喉元を目掛けていた。
上体を逸らし、狼とすれ違いの形を成したところで。
その土手っ腹に拳を打ち付けた──
──同時に。
固めておいたイメージは具現を化す。
狼と接触している俺の手元から、青白い閃光を放ちながらバチバチと音が鳴る。
次の瞬間。
一際大きい音と共に狼の体が跳ねた。
そのままどさりと地面へ打ち付けられた狼へ、合間を置かず利き手を向ける。
……狼は体勢を立て直そうと身動ぎをするが、体が言う事を聞かないのか。
びくんびくんと痙攣を起こしながら、そのまま這いつくばっていた。
当たり前だ。
そう簡単に居直せる程度の電 流 ではない。
『感電注意ってな……!!』
そう唱えながら、差し出した手へさらなる意を生ずる。
漂うマナを掻き集め、願う事象をイメージし──
──発現させるモノは、氷の弾丸。
目標を射る事のみを制約とし、そのまま心中でトリガーを引いた。
横っ面、肩部、後ろ足。
今 の 状 態 では三発が限度であったが、それぞれは確実な着弾を果たした。
狼に出来上がった穴からは、その向こうの景色が覗いている。
受けた狼は堪らず転げ回る。
恐らく……最後の力を振り絞って、こちらへ踵を返そうとしていた。
……痺れが多少でも収まるのが、著しく早い。
──俺は、撃ち出したままの手にさらなる事象を生む。
局地的に発生する空間は……その具現を顕にしていた。
付近のマナの残量からして……多分、これが最後の一発だ。
いよいよ走り出そうとしていた狼へ、それを放つ。
……円形を象った真空の刃は、背を向けた相手に対し真正面へ控え──
──狼を、ひ と つ か ら ふ た つ にしてみせた。
「……ふう」
一呼吸空け、思わず膝をつく。
俺の放った刃と、狼だったモノは……
……動作を停止させ地面へ溶けていった。
『一体なんだったんだ……』
何とか対応はしたものの、ついぞ経験した事の無い状況への整理が追い付いていない。
……あの黒いモノが俺に向けていた意識は、紛れも無い殺意だった。
「──ッッ……」
思考を過ぎらせると共に立ちくらみが起きる。
……酒がまだ残っている、というわけでは無い。
恐らく。
ここまでの行 使 を長い間行っていなかっただろう──
『──【ヤマト】』
そう称された力は。
未だ、俺の手から感触が消える事は無かった。
────────────
──────
──
「おーい龍宮プライヤー取ってくれ」
「どうぞ」
指定された工具を渡す。
サンキュ、と返事をしたトラさんがひょいと受け取った。
「あーあと、あそこのエルボから伸びてる20Aのとこのユニオンのパッキン、ヤバそうだから今の内に交換しといてくれ」
「了解です、予備のパイレン使いますね」
やり取りを交わしながら組まれた足場を移動していく。……高い所に恐怖を感じないというわけではないので、慎重に動いた。
受けた指示を遂行する為、必要な道具を準備しながら自身の手入れ場所を視線で追う。
頭上に引かれた配管を定め、仕事に移る。
……あの後。
帰宅した俺は件の黒いモノへ思考を巡らせる間も無く、シャワーだけ済ませ泥の様に眠った。
明朝。
危うく遅刻しそうになっていた時間を何とか埋め、こうしてトラさんと仕事の続きを行っていた。
『……ここから外せるな。パイレン噛ませる位置は──』
配管の繋ぎを確認し、作業に入る。
……昨日の立ち回りを引きずっているのか、体が少しだけ軋みを上げていた。
「っっ……!!」
工具を持つ手に力を込める。
程なくして想定通りの挙動を見せ、工程を続けていった。
『パイプがこの程度であれば、一旦締め込みは八割程度で留めて……シールテープは少し多めに──』
脳内で先々のイメージを固める。
必要な道具を再度選定し、手に取る。
……それは、昨日に狼を屠るために奮った利き手。
【ヤマト】を放つ為にマナを用いて具現を灯した事象は……しかし。
『……仕事 は、イメージだけで何とかなるなら苦労しないな』
……などと。
誰に言うでもない言葉を自分の中だけで反芻し。
刻まれた経験と手にした感触を糧に、作業を続けていった。
────
──
「……よし」
最後の増し締めを以て、トラさんの指示を終了させる。
しばらくは手を入れずとも大丈夫なはずだ。
「龍宮ーー!! 終わったかーー!?」
「今終わったところでーす!!」
タイミング良く依頼主から声が掛かる。
使用した道具を片付けながら、俺も返した。
「あーじゃあちょうど良いや!! 手空いたら社長が電話くれってよー!! 昨日の事じゃねーー!?」
一際響く声で頭上からトラさんがそう言う。
「わかりましたー!! 一旦下降りますねー!!」
「はいよーー!! ついでに涼んでこい!!」
ちょっとした厚意に会釈を返し。
トラさんと合図を交わしながら、足場を下りていった。
着けてあったトラックへ乗り込み、空調を効かせた。
……体にぶつかる冷風が心地良い。
車内に置いてあったスポーツドリンクをひと飲みし、煙草を一本吹かす。
そのまま、自分の携帯電話を取り出して勤め先へ発信を飛ばした。
『はい、こちら○○の──』
数コールであちらと繋がる。
俺の電話に出たのは、受付を担当している別の先輩だった。
「お疲れ様です、龍宮です。社長から連絡をするようにと言われて折り返したのですが」
『おーっ龍宮君お疲れ様ー。ちょっと待っててね、社長起こすから』
「ね、寝てたんですね」
『うん。任せといて』
何とも頼もしい声を聞かせてもらった後。
電話口の先から、んが!? という聞きなれた音が耳に入った。
『おーっ、お疲れ様ーっ』
「社長、お疲れ様です。龍宮です」
少しして、目的の相手の声が届いた。
『悪いね仕事中に。トラから聞いた?』
「とんでもないです。はい、一回社長に連絡するようにと。……もしかして、昨日の件ですか?」
『そーそー、ちょっとした長期出張になりそうなんだよね。とりあえず、今のとこわかる詳細を伝えておくよ。メモ取れる?』
「了解です、ちょっと待って下さいね」
言われ、胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出して備えた。
「大丈夫です、お願いします」
『ほいよー。えっとね──』
──社長から伝えられた事をまとめると。
まず大きな名目としては、保全が遅れている公共箇所の開発である事。
時期はもう少し先である事と、今俺やトラさんが行っている仕事はどちらにせよ先に終わらせなくてはいけないという事。
場合によってはそれなりに長く出向先へ滞在する可能性もある、という事。
あちらでやる事は……必要な場所へ電気や水道が通っていなかったりだとか、そもそもの井戸水や変電設備等の供給を新たに設置しなくてはいけないのか、だとか。
まずはその現調、そしてお客の補助。
必要であれば現地人とのコミュニケーションを取り、使用者に沿ったサービスの提供を心掛ける。
『といったところ、かなー。あ、なにも一人で全部こなせって訳じゃないよ。別の部門はそれぞれ他の企業や業者もいるから、何ならそことやり取りしちゃっても良いからね』
「……了解です。正直なところ、行ってみないとわからない事も多そうですね」
今まで俺がここで取り扱ってきた仕事とはかなり毛色が違うとは感じる。
だが……トラさんや社長、先輩方の期待には応えたいとは思う。
『まあそうだねー。言っちゃえば田舎の開拓……って感じだから、もしかしたら余計なトラブルとかもあるかもだけど、ね』
「……そこは、何とかやりくりしてみますよ」
『……悪いね、頼むよ。しっかし、ウチみたいな零細企業にお声が掛かるとはねー』
「何言ってんですか。自分達からしたら社長が日本一ですよ」
電話越しにお互いの笑い声が反響した。
「あ、社長。そういえば聞き忘れてました。肝心の行き先ってどこなんですか?」
『あーそうだこっちも言い忘れてたよ。えっとね──』
『──歴史が深いみたいでね。”始まりの島”……なんて、呼ばれてるところみたいだよ』
────────────
──────
──
社長との電話も終え。
咥えていた煙草も役目を全うし。
『始まりの島、ねえ……』
と、聞き慣れぬ単語を脳内に漂わせながら。
トラックのドアを開け、外へ出ようと──
「──あああああああアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
──紡ぐ俺の行動を遮ったのは。
絶叫……怒号……咆哮……
…………違う。
脳を掻きむしる様な鋭さを持った衝撃。
もはやそれは──
────断末魔だ。
「──ッッ!?」
発せられた音 へ意識と視線を向ける。
その先は、今の仕 事 場 の方からだった。
そちらへ全力で駆けた。
────
──
……地面を蹴り飛ばしながら、組まれた足場を目前にした所までやって来る。
逸る呼吸を鎮めつつ、眼前へ意識を置いた。
「──アアアアアアアアァァアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
先程よりもさらに強く、俺を穿つ。
音の所在は包む深淵へ身を投じ、その存在を不定のまま歪として成す。
思わず、誰かの最期──とも取れたあの声は…………違う。
目の前のそれから、断続的に発せられているモノだった。
『昨日の黒いモノ……!!』
呼吸をさらに鎮め、足を大きく開いた。
まだ日中、視界は良い。
逸らさぬ様に……見据えた眼を指定させる。
……臨戦の体勢を組み立てながら、懸念が浮かぶ。
その異物は、……人の形をしていた。
「アアアアアアアァァアアアアアアアアァァアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
一際、音が響く。
──その時俺は。
視界に入ったそ れ の意味するところへ理解を及ばせるには、僅かばかりの時間を必要とした。
なぜなら。
その人型の”頭部から伸びているもの”が……
見覚えのある金 色 をしていたからだ────
「か、勘弁して下さい」
グラスになみなみと注がれた酒は……もはや何杯目を迎えたか。
呆けた頭は目の前の景色を少しだけぼやけさせ、先輩の輪郭を歪ませつつある。
「アルハラってやつですよ」
「そんな名前の知り合いはいねえ」
俺の返しを鼻で笑いながら、自分のグラスを傾けた。
……夜も暗に暮れ、がやがやと喧騒が乱れる最中に俺達は居る。
俗に言う、大衆居酒屋と銘打たれたここには。時間を持て余した若者や仕事終わりの社会人、むしろ仕事中? とも取れる女と。
多種多様な人物で溢れ返っている。
なぜ我々がそこに身を置いているかといえば……
「ようし改めて乾杯だほらほら。では……おまえの門出を祝ってーーっっ」
「もう五回目ですよ」
こつんと互いのグラスを合わせる。
……
社長から話を受けたその当日に呼び出され、勤め先から最寄りの盛り場へこうして席を設けられている。
失礼ながら単に呑みの口実なだけなのでは、とも思ったが──
「……社長に恥かかすなよ。しっかり俺らの仕事学んで貢献しろ、それがおまえの役目だ。わからない事があったらいつでも聞け」
「はい、精進します。……ありがとうございます」
──厚意は、有難く受け取っておこう。
────────────
──────
──
「そこで俺は言ってやったワケよ。……終電、無くなっちゃったね……ってな」
「男側が言うものなんですね」
先程見せた真剣な表情は幻であったのか。
”意中の女をさりげなく落とす方法”をレクチャーし始めた先輩は、今日一番の盛り上がりを見せている。
……気付けば、ラストオーダーの時間も近付いていた。
「先輩。ご指導非常に有難いんですが、そろそろいい時間ですよ」
「わーってるって、ちゃんと俺の采配は唸ってる。次で締めだよ」
そう言いながら、別のテーブルを片付けている従業員に手で合図を送る。
「はーい承りまーす。このご注文が最後になりますよー」
「了解っす、えっとですねー……」
駆け寄る利発そうな女性店員に対し。
先輩は、メニューを指しながら──
「この、大吟醸ヤマトを冷でふたつお願いしまーす」
──利き手にVサインを作り、そう答えた。
「ヤマト……ふたつ、ですねー。少々お待ち下さい、すぐご用意しますねー」
慣れた手つきでハンディを操作し、そう言い残しながら従業員は去る。
「いやー最近ハマっててさ、やっと自分に合う日本酒見つけたわー」
「……そうなんですね。ヤマト、ですか」
少しだけ過る思考は、その名前に対して……
「ふたつ頼んだからさ、おまえもいけよ」
「頂きます」
……だが決して対面の相手に悟られぬように。
「……そういやさあ」
「はい?」
先輩の呼び掛けに応を向ける。
「先輩って呼び、そろそろ辞めようぜ。……いいよ、他の皆と同じ様に言えよ」
少しだけ小恥ずかしそうに……鼻の頭をぽりぽりと掻きながら、そう言う。
「他の皆と同じ、というと……」
……思い当たるところはあった。
先輩は、名前を
それに伴い社長含め諸先輩は皆、親しみの意味を込め彼をトラと呼ぶ。
……オールバックを象った金色に染められたその髪も、その所以を後押ししている様な気がしないでもない。
「いや、でも。自分なんかが恐れ多いですよ」
「俺が良いっつってんだからいいんだよ。……ほら、おまえが
なーんつってな、と続けながら。
先輩は豪快に笑ってみせた。
「お待たせしましたーっ。ヤマトの冷、おふたつですねー」
程なくして、注文したモノがテーブルに届く。
従業員へ会釈を返しながら、先輩は盃を手に取りこちらへ向ける。
「おら龍宮、業務命令だぞ」
「……命令でしたら、逆らえませんね」
俺も動作を同じくして、手に取った。
「おまえの門出を祝って」
「ありがとうございます、トラさん」
杯の会合をそのまま果たし。
俺達は、ヤマトを一気に呷った。
────────────
──────
──
「ふあ……」
思わずあくびが零れた。
お開きとなった祝賀会に少しの名残を惜しみながら店先で先輩……トラさんと別れ、微かに吹く生温い風を浴びながら帰路に着いている。
互いに明日も仕事だというのに、耽った夜は今日の時間を忘れていた事を改めて自覚させた。
『……浮かれて仕事中に怪我でもしたらそれこそ迷惑になるな』
さっさと帰って寝よう、と。
少しだけ千鳥足になっていた歩へ、加えて意識を向けた。
勤め先の借り上げ住宅として用意してもらっているアパートは、ここからそう遠くはない。
それなりの喧騒に塗れていた近場のネオン街からは打って変わって、少しの街灯だけが明かりを許すあぜ道を歩く。
……視界の先に広がる【空】には、光の粒が満遍なく敷き詰められていた。
俺は、それを美しいと感じる。
情緒の変動をいとも簡単に引き起こし、そして人間は何度でもそのブレを求める。
惹き付けて止まないその点在を、この手へ掴み込もうしても実際に届く事は難しい。
明滅する光は、体現させられた希望としてこの目に──
「──っと……」
……まだ酔いが醒めきっていないのだろうか。
無駄に膨らんでしまった思考を収縮させながら、携帯電話を取り出し時間を確認する。
液晶画面に表示された時刻は、ちょうど日付の変わりを映し出していた。
『……余計な事考えてる場合じゃないな、急ごう』
そう、心の中で考え。
再び意識を眼前へ向けた時──
「──────」
通る道の先に。
もはや
蠢いているモノは、無形の黒。
精巧な絵画に一滴の墨汁を垂らすように、目の前に広がっていた道はひとつのイレギュラーによってその景観を崩す。
「……!?」
たじろぐ俺を余所に。
黒を模した不定形は、やがて歪を喪い。
…………四肢を携えた、狼の様な姿へと変化した。
「な──」
──何だ、と。
自らの口から言葉を発する暇さえ無かった。
「っっ──!!」
横に転がり込み何とか回避を成す。
すぐに狼へ視線を戻し、その動向を伺った。
……声を上げるでも無く。
こちらを威嚇でもしているかの様に、口──と思われる箇所──をぱくぱくと動作させながら。
再びこちらへ疾駆してくる。
対し、後ろへ飛び退いて脅威を免れた。
……狼の口ががちりと噛み合わさった箇所は、
俺の喉笛を噛みちぎろうとでもしていたのか。
「────」
尚も音を発さぬ障害は、こちらへ意を向ける。
狼……黒いモノが何であるのか、だとか。
なぜ俺がこんな目に遭っているのか、だとか。
少しの過りを携えた思考は、そのまま置き去りにする。
土埃の付着した服を払いながら、俺は──
「調子に乗るなよ犬畜生が」
──狼に深い憤りを覚えた。
意識を臨戦へと移行させた事を、生意気に察知でもしたのか。
狼は、さらに深く姿勢を落とす。
──意に介さず、こちらから駆ける。
同時に、付近の状況を再度確認。
通るあぜ道は……
視界が何とか確保出来る程度の灯りを見せ。
地面にぬかるみは感じず、踏み込みに不備は無い。
そして、周りに
次いで──
──微量ながら、マナが滞留している。
『充分だ』
伴う要素は行動を満たすには事足りる。
駆ける足をそのままに、願望を成す。
獣を模したその体躯であれば、ある程度の動作は予想するに容易い。
先刻首を狙いに来たことからも、奴の
……そして、思案する俺に向かい。
狼は
いくらそれなりの疾さを以ていようが、方向を絞れるのであれば対応の仕様はある。
……変わらず、狼は俺の喉元を目掛けていた。
上体を逸らし、狼とすれ違いの形を成したところで。
その土手っ腹に拳を打ち付けた──
──同時に。
固めておいたイメージは具現を化す。
狼と接触している俺の手元から、青白い閃光を放ちながらバチバチと音が鳴る。
次の瞬間。
一際大きい音と共に狼の体が跳ねた。
そのままどさりと地面へ打ち付けられた狼へ、合間を置かず利き手を向ける。
……狼は体勢を立て直そうと身動ぎをするが、体が言う事を聞かないのか。
びくんびくんと痙攣を起こしながら、そのまま這いつくばっていた。
当たり前だ。
そう簡単に居直せる程度の
『感電注意ってな……!!』
そう唱えながら、差し出した手へさらなる意を生ずる。
漂うマナを掻き集め、願う事象をイメージし──
──発現させるモノは、氷の弾丸。
目標を射る事のみを制約とし、そのまま心中でトリガーを引いた。
横っ面、肩部、後ろ足。
狼に出来上がった穴からは、その向こうの景色が覗いている。
受けた狼は堪らず転げ回る。
恐らく……最後の力を振り絞って、こちらへ踵を返そうとしていた。
……痺れが多少でも収まるのが、著しく早い。
──俺は、撃ち出したままの手にさらなる事象を生む。
局地的に発生する空間は……その具現を顕にしていた。
付近のマナの残量からして……多分、これが最後の一発だ。
いよいよ走り出そうとしていた狼へ、それを放つ。
……円形を象った真空の刃は、背を向けた相手に対し真正面へ控え──
──狼を、
「……ふう」
一呼吸空け、思わず膝をつく。
俺の放った刃と、狼だったモノは……
……動作を停止させ地面へ溶けていった。
『一体なんだったんだ……』
何とか対応はしたものの、ついぞ経験した事の無い状況への整理が追い付いていない。
……あの黒いモノが俺に向けていた意識は、紛れも無い殺意だった。
「──ッッ……」
思考を過ぎらせると共に立ちくらみが起きる。
……酒がまだ残っている、というわけでは無い。
恐らく。
ここまでの
『──【ヤマト】』
そう称された力は。
未だ、俺の手から感触が消える事は無かった。
────────────
──────
──
「おーい龍宮プライヤー取ってくれ」
「どうぞ」
指定された工具を渡す。
サンキュ、と返事をしたトラさんがひょいと受け取った。
「あーあと、あそこのエルボから伸びてる20Aのとこのユニオンのパッキン、ヤバそうだから今の内に交換しといてくれ」
「了解です、予備のパイレン使いますね」
やり取りを交わしながら組まれた足場を移動していく。……高い所に恐怖を感じないというわけではないので、慎重に動いた。
受けた指示を遂行する為、必要な道具を準備しながら自身の手入れ場所を視線で追う。
頭上に引かれた配管を定め、仕事に移る。
……あの後。
帰宅した俺は件の黒いモノへ思考を巡らせる間も無く、シャワーだけ済ませ泥の様に眠った。
明朝。
危うく遅刻しそうになっていた時間を何とか埋め、こうしてトラさんと仕事の続きを行っていた。
『……ここから外せるな。パイレン噛ませる位置は──』
配管の繋ぎを確認し、作業に入る。
……昨日の立ち回りを引きずっているのか、体が少しだけ軋みを上げていた。
「っっ……!!」
工具を持つ手に力を込める。
程なくして想定通りの挙動を見せ、工程を続けていった。
『パイプがこの程度であれば、一旦締め込みは八割程度で留めて……シールテープは少し多めに──』
脳内で先々のイメージを固める。
必要な道具を再度選定し、手に取る。
……それは、昨日に狼を屠るために奮った利き手。
【ヤマト】を放つ為にマナを用いて具現を灯した事象は……しかし。
『……
……などと。
誰に言うでもない言葉を自分の中だけで反芻し。
刻まれた経験と手にした感触を糧に、作業を続けていった。
────
──
「……よし」
最後の増し締めを以て、トラさんの指示を終了させる。
しばらくは手を入れずとも大丈夫なはずだ。
「龍宮ーー!! 終わったかーー!?」
「今終わったところでーす!!」
タイミング良く依頼主から声が掛かる。
使用した道具を片付けながら、俺も返した。
「あーじゃあちょうど良いや!! 手空いたら社長が電話くれってよー!! 昨日の事じゃねーー!?」
一際響く声で頭上からトラさんがそう言う。
「わかりましたー!! 一旦下降りますねー!!」
「はいよーー!! ついでに涼んでこい!!」
ちょっとした厚意に会釈を返し。
トラさんと合図を交わしながら、足場を下りていった。
着けてあったトラックへ乗り込み、空調を効かせた。
……体にぶつかる冷風が心地良い。
車内に置いてあったスポーツドリンクをひと飲みし、煙草を一本吹かす。
そのまま、自分の携帯電話を取り出して勤め先へ発信を飛ばした。
『はい、こちら○○の──』
数コールであちらと繋がる。
俺の電話に出たのは、受付を担当している別の先輩だった。
「お疲れ様です、龍宮です。社長から連絡をするようにと言われて折り返したのですが」
『おーっ龍宮君お疲れ様ー。ちょっと待っててね、社長起こすから』
「ね、寝てたんですね」
『うん。任せといて』
何とも頼もしい声を聞かせてもらった後。
電話口の先から、んが!? という聞きなれた音が耳に入った。
『おーっ、お疲れ様ーっ』
「社長、お疲れ様です。龍宮です」
少しして、目的の相手の声が届いた。
『悪いね仕事中に。トラから聞いた?』
「とんでもないです。はい、一回社長に連絡するようにと。……もしかして、昨日の件ですか?」
『そーそー、ちょっとした長期出張になりそうなんだよね。とりあえず、今のとこわかる詳細を伝えておくよ。メモ取れる?』
「了解です、ちょっと待って下さいね」
言われ、胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出して備えた。
「大丈夫です、お願いします」
『ほいよー。えっとね──』
──社長から伝えられた事をまとめると。
まず大きな名目としては、保全が遅れている公共箇所の開発である事。
時期はもう少し先である事と、今俺やトラさんが行っている仕事はどちらにせよ先に終わらせなくてはいけないという事。
場合によってはそれなりに長く出向先へ滞在する可能性もある、という事。
あちらでやる事は……必要な場所へ電気や水道が通っていなかったりだとか、そもそもの井戸水や変電設備等の供給を新たに設置しなくてはいけないのか、だとか。
まずはその現調、そしてお客の補助。
必要であれば現地人とのコミュニケーションを取り、使用者に沿ったサービスの提供を心掛ける。
『といったところ、かなー。あ、なにも一人で全部こなせって訳じゃないよ。別の部門はそれぞれ他の企業や業者もいるから、何ならそことやり取りしちゃっても良いからね』
「……了解です。正直なところ、行ってみないとわからない事も多そうですね」
今まで俺がここで取り扱ってきた仕事とはかなり毛色が違うとは感じる。
だが……トラさんや社長、先輩方の期待には応えたいとは思う。
『まあそうだねー。言っちゃえば田舎の開拓……って感じだから、もしかしたら余計なトラブルとかもあるかもだけど、ね』
「……そこは、何とかやりくりしてみますよ」
『……悪いね、頼むよ。しっかし、ウチみたいな零細企業にお声が掛かるとはねー』
「何言ってんですか。自分達からしたら社長が日本一ですよ」
電話越しにお互いの笑い声が反響した。
「あ、社長。そういえば聞き忘れてました。肝心の行き先ってどこなんですか?」
『あーそうだこっちも言い忘れてたよ。えっとね──』
『──歴史が深いみたいでね。”始まりの島”……なんて、呼ばれてるところみたいだよ』
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──────
──
社長との電話も終え。
咥えていた煙草も役目を全うし。
『始まりの島、ねえ……』
と、聞き慣れぬ単語を脳内に漂わせながら。
トラックのドアを開け、外へ出ようと──
「──あああああああアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
──紡ぐ俺の行動を遮ったのは。
絶叫……怒号……咆哮……
…………違う。
脳を掻きむしる様な鋭さを持った衝撃。
もはやそれは──
────断末魔だ。
「──ッッ!?」
発せられた
その先は、今の
そちらへ全力で駆けた。
────
──
……地面を蹴り飛ばしながら、組まれた足場を目前にした所までやって来る。
逸る呼吸を鎮めつつ、眼前へ意識を置いた。
「──アアアアアアアアァァアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
先程よりもさらに強く、俺を穿つ。
音の所在は包む深淵へ身を投じ、その存在を不定のまま歪として成す。
思わず、誰かの最期──とも取れたあの声は…………違う。
目の前のそれから、断続的に発せられているモノだった。
『昨日の黒いモノ……!!』
呼吸をさらに鎮め、足を大きく開いた。
まだ日中、視界は良い。
逸らさぬ様に……見据えた眼を指定させる。
……臨戦の体勢を組み立てながら、懸念が浮かぶ。
その異物は、……人の形をしていた。
「アアアアアアアァァアアアアアアアアァァアアァァァァァァーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!」
一際、音が響く。
──その時俺は。
視界に入った
なぜなら。
その人型の”頭部から伸びているもの”が……
見覚えのある