増える被害者(下)

文字数 12,726文字

 園内には、いっそううら寂しい(、、、、、)雰囲気が漂っていた。遠くにジェットコースターやメリーゴーラウンド、お城のような建物も見える。

「肝試し……」

 つい言葉が漏れる。
 なるほど、これは想像以上だ。一時期は多くの人で賑わった施設も、こうも荒廃しては不気味さしか感じない。

「たしか、ドリームランドにはいくつか噂がありましたよね」
「ああ」

 人づてに、あるいはインターネットでまことしやかに交換される噂。

 紗映子と牧宮は、それぞれ聞き及んでいる噂を交互に披露し合った。

 たとえば誰も乗っていないメリーゴーラウンドが動き出すとか、ジェットコースターで人が死んだとか、ドリームキャッスル――あの向こう見える城を模した施設――の地下には拷問部屋がある、などだ。

「ここが廃園になったのは子どもが失踪したからだ、なんて噂もありますね……今回とは逆ですけれど」

 そう、今回はいなくなるどころか増えているのだ。

「ふん」

 振り向きもせず牧宮は応える。

「案外、何もかも本当のことなのかもしれんな」
「…………」
「今回のことはあまりに常識を越えすぎている」
「幽霊、信じないんじゃなかったですっけ?」
「この目で見て、経験したことだ。自分自身まで信じられなくなったら何を信じる」
「まあ、そうですけど――」

 出来ることなら全部嘘であって欲しいとは思う。
 だがそうもいかない。

「あの、自首してきた男子学生って、今どうなってるんですか?」
「日高とは別のところに収容されている」
「……やっぱり、死んじゃう、んですか?」
「いや」

 歩きながら牧宮は言う。

「逮捕してくれ、保護してくれ、と繰り返すばかりだ。ずっと何かに怯えるようにしている」
「……じゃあ」
「ああ、増えつづけて――それだけだ」

 ――死なない?
 では、あの病院で見た日高美奈の異様はなんだというのだろう。

「現場はこっちだ」

 牧宮は大股で歩を進める。置き去りにされないよう紗映子も急ぐ。そうしながら、紗映子はなんとなく、今日の牧宮は饒舌だなと思っていた。そのほうが気が紛れて助かるし、別に雑談ではなく事件の話なのだから、当然と言えば当然の会話なのだが。

 だが、それにしても、である。

 そして事件は解決しているのだ。少なくとも人知の及ぶ範囲においては。被害者は保護され、加害者は死亡あるいは逮捕されている。事件はすべて終わっている。終わりきっている。

 なのに――牧宮は、見えない何かを追うように、夜の廃園をずんずん進んでいる。何を求めているのか。紗映子に何をさせようというのか――何を期待しているのだろうか。

「あの、事件現場って」
「ミラーハウスだ」

 牧宮はきっぱりとした口調で言う。

「被害者の日高は、そこで強姦された」
「…………」

 事件。発端となった事件。そこで何かがあったのだ。ミラーハウスにまつわる噂は……。

「『ミラーハウスから出てきたらまるで別人のようになっていた』……」
「ふん」

 牧宮はあざけるように鼻で笑う。

「別人、か――逆だろうに」
「逆?」

 それ以上牧宮は何も言わなかった。

 逆――逆とはなんだろう。
 ミラーハウスに入り、本人が出てきた……それはなんの異常でもない。

 だが、
 しかし――。

 紗映子は首を振る。何かが掴めそうで掴めない。あと少しで本質に迫れそうな気がする。人が増える理屈はまったく分からないし、自分には分かりそうもない。白衣の学者たちや、心霊の専門家にでも任せるしかないと思っている。

 だが。
 刑事である自分にとって大事なもの――いや、普段追っているもの。その糸口となるもの。この事件の――加害者の、被害者の――。

「ここだ」

 はっとして紗映子は顔をあげる。
 目の前には3階建てほどの大きさがある建物。朽ちた看板から、かろうじて英語で綴られた『ミラーハウス』の文字が読み取れた。

 懐中電灯の明かりを入口に向ける。一応、立入禁止のテープで封鎖されているが、本来の扉は損壊していて、斜めに張られたテープの間から、濃い闇が覗いている。

 ――犯行はここで行われたのだ。

 この廃墟で被害者は、友人だと思っていた女性に騙され、他の3人の男の慰みものになった。

 その光景を想起すると、腹の底で、怒りが渦を巻いた。

 人間が増えるという怪奇さに覆われて見失いそうになっていたが、本来、それこそがもっとも忌むべき事件なのである。同じ女性の身だから、というわけではない。もっと根源的なやるせなさが紗映子に怒りを覚えさせていた。

 そんな卑劣な人間は許せない――。

 そう考えると、加害者たちの顛末は天罰のようにも思える。警察官としてそのように感じることはあまり良いことではないのだろう。この法治国家において、人を裁いていいのは法だけだ。人が人を裁くことがってはならないし、ましてや神罰などを期待するのもあまりに前時代的だろう。

 しかし、そうやって冷静に考えられるのは、紗映子が刑事だからではなく、被害者と直接的なつながりがないからではないか。

 もし、紗映子が日高美奈と友人であったなら。あるいは、もっと親しい間柄――例えば家族であったなら。妹であったなら。加害者を許せるだろうか。

 そしてもし、その許されざる犯罪者が誰にも裁かれることなく生き長らえていたとしたら――。もし、牧宮の――。

「おい、さっきから何をぼやぼやしている」

 封鎖用テープの一部を除きながら、牧宮が振り向く。

「あ、はい、すみません」

 紗映子も手伝い、ミラーハウスへと足を踏み入れた。


 ■ ■ ■


 ミラーハウスは、壁面がすべて鏡で覆われた迷路である。

 その鏡面が複雑に入り組み、天井や床そして侵入者の像を映し出し、それがさらに他の鏡に反射して侵入者の視覚を惑わす迷宮となるのだ。

 紗映子は、ミラーハウスを体験するのは初めてだった。

 お化け屋敷のように、こちらを脅かそうとする仕掛けなどはないようだ。だが夜の――照明が懐中電灯2つしかないこのシチュエーションでは、それだけで十分過ぎるほどの雰囲気があった。

 ごくりと生唾を飲み込み、紗映子は迷宮を進む。

 いやに静かだ。ミラーハウスの外では、いくら静寂とはいえ、まだ虫の音などが響いていた。だがこの中ではその音すら届かない。あるのは、牧宮と自分の靴音。そして息づかい――ただそれだけだ。

 紗映子が歩くと、当然、鏡の中の紗映子も動く。手元の懐中電灯の光線はそのたびに揺れる。それも1つではなく、鏡面に写るすべての光がゆらゆらと上下や左右に動いて、視界のあちこちで目障りに動く。そして紗映子が足を止めるとぴたりと止まる。

 ――止まるはずなのだが、そのうちのひとつが、一拍遅れて止まったように感じられた。

 もちろん気のせいだ。おそらく、先を行く牧宮の光を、自分の像だと勘違いしたのだろう。そうとしか考えられない。

 錯覚だと頭では理解していても、紗映子は小さく震えた。

「せ、先輩。ちょっと待ってくださいよ……」

 牧宮は道順を覚えているのだろうか。さほど迷うでもなく、迷路を奥へ奥へと進んでいく。紗映子は勝手が分からず壁にぶつかりそうになったりして、そのたびに針路を修正せねばならなかった。


 しばらく行くと開けた場所に出た。鏡の壁面で囲まれた小さなホールだ。そこで牧宮は立ち止まった。

 迷宮はまだ道半ばらしく、道が3つに分かれている。

「ここだ」

 暗闇の中、牧宮があごでホールの中心辺りを示す。

 ここが犯行現場――。

 紗映子はホールの壁面へ懐中電灯を向ける。その壁は懐中電灯の光を反射してくる。そうすると、その光に当てられた自分の体が、胸から下の部分が鏡に映って見える。

 いくつか懐中電灯を床にでも置けば、このホールはそれなりの明るさを得るだろう。
 
 大学生の日高美奈は、本人はあくまで肝試しのつもりでここまで進んできて、男たちに組み伏せられた。

 そして残酷な犯行は、ついに本番を迎えた。どれだけ叫んでも聞きとがめる者はいない。悲痛な叫び声は、壁に反響して自分の耳に届く。男3人が相手では、あの細腕での抵抗など無意味だったろう。心を許していた同性の友人は、スマートフォンを構えてその様子を笑いながら見ている。

 混乱と恐怖、絶望と諦観の果てに顔を背けると――

 鏡だ。
 鏡がある。

 たくさんの――

 増えている。
 自分が。
 たくさんの。

「まったく、悪趣味だな……」

 牧宮が忌々しげに独りごちた。
 
 そうだ。そうなのだ。この空間は鏡で囲まれている。ならば、被害者は、そして加害者も自分たちの姿を見て取ることができるのだ。そして、それが目的であったならば――加害者たちは、強姦する自分たちの姿を見て興奮し、被害者はそのおぞましい光景をみずから目にし、絶望を色濃くする。

 それこそがこのドリームランドの、そしてこのミラーハウスを犯行現場に選んだ目的であったならば。

「……ひどい」

 と、心の底から思った。

 だが同時に、何かが噛み合ったようなひらめきが、驚きを伴って紗映子の胸をよぎった。


 何かが符合する。
 この犯行現場と、あの被害者と――そして加害者の。

 彼女たちが増えた(、、、)状況とは、なんだったろうか。一見、そこに一貫性はないように思える。

 病室で増えた日高美奈。その初めは、映像として記録には残っていない。ただ、夜であったことは間違いないようだ。

 紗映子は病室の様子を思い描く。彼女は別の病院に運ばれていたというが、それでも病室の設備などはそう変わりはないだろう。
 無機質なベッドにカーテン。枕元にはナースコールのボタンと、わずかばかりの明かりを提供する読書灯。栄養状態が良くないようだったので、点滴を受けていたかもしれない。

 夜になると明かりは落とされ、静寂が辺りを支配する。

 もし自分が彼女なら、そんな夜は恐ろしく感じるだろう。このミラーハウスで、あのような悲惨な目に遭ったあとなら、特に。そうして寝付くことができずに、体を起こすかもしれない。

 ベッドを下り、スリッパを履いて、ほんの少し、ここではないどこかへ行こうとして――。

「あ」

 窓を見るかもしれない。いや、明確な意思を持って外を窺おうとしなくても、たとえばカーテンのすき間から、窓を見ることがあるかもしれない。そしてそのとき、わずかでも室内のほうが明るければ――読書灯のほんの少しの明かりでもあれば――窓には像が映る。

 自分の姿が――顔が。

 では加害者たちはどうだっただろうか。
 軽自動車の中で増えて、自分たちの肉の圧力で押し潰された3人は。

 考えるまでもない。先ほども、紗映子自身が目にしていた通りだ。夜道を走る自動車――ふと横を見れば、窓には自分の顔が映る。

 だから――増えた?

 しかし、牧宮に見せられた例の映像はどうだったか。あのとき、日高美奈は鏡を見ていただろうか。不安定なタイムラグがあるのかもしれない。鏡を見て、しばらくしたのちに増えるということも考えられる。

 いや、そうだろうか。
 タイムラグ自体はあるのかもしれないが――何かが引っかかる。

 見ている気がする。その重要な瞬間を。目撃している。
 自分の姿を映すもの――写し取るもの。

「カメラ……」

 紗映子はつぶやいた。

 ――そうだ、目を開いたのだ。
 日高はあの映像の中で、一度こちらを睨むようにして目を剥いた。そこには何があったか。ビデオカメラのレンズだ。天井に取り付けられたそのカメラのレンズは、ほんの小さなものであったろう。距離もある。だが、間違いなく日高の姿を捉えたものがそこにはあったのだ。

 そして――増えた。

 牧宮の声がする。

「カメラだと。それがどうした」

 牧宮が懐中電灯をこちらに向ける。
 まぶしさに顔を逸らす。

「ひっ」

 壁には紗映子の姿が映し出されていた。
 まるで増えたかのように。


 ■ ■ ■


 迷宮の鏡に包囲されたホールで、紗映子は立ちすくむ。蒸し暑いくらいのはずなのに震えが止まらない。

 牧宮はそれを怪訝(けげん)に思っていたようだったが、鼻を鳴らすと、懐中電灯を床に向けてしゃがみ込んだ。そこは事件現場だ。ここで何かがあったのだ。牧宮の斜めうしろに立ち、紗映子は小刻みに震える左手で懐中電灯をかざす。牧宮の手元にその明かりを当てる。

 右手は――右手は、横腹にあるホルスターの拳銃に添えられていた。
 紗映子に自覚はない。

不憫(ふびん)なもんだ」

 牧宮が言った。

「たった一夜で世界が変わっちまったんだからな」
「日高のこと……ですか」
「ああ。彼女も、その家族もだ」
「…………」

 やはり牧宮は感傷的に過ぎる気がする。普段の彼は、良くも悪くも多くを語らない。仕事に支障が出るほどに語らない。被害者や加害者への入れ込みようが、この事件に限っては強すぎる気がする。

 気持ちは分かる。
 あまりにも奇異な事件だ。人知を越えた事件だ。平常でいられない気持ちは紗映子も同じだ。

「先輩……『逆』って、そういうことですか?」
「あん?」
「だからさっき言ってた噂の話です。ミラーハウスから出てきたら別人になる――のではなく――別世界になっているっていう。たしかに、被害者の日高にとってはここでの事件が周囲を一変させてしまった」

 ――妹さんの事件によって先輩の世界が歪められたように。と、紗映子は胸のなかでつぶやいた。

「でも、じゃあ、加害者たちには何が起こったんでしょうか。彼らは常習犯だった。とすれば、事件の日にここで起きたことは――犯した罪は――こう言うのは何ですが、彼らにとっては日常の範囲内だった。けれど、彼らは被害者を置いて逃走した――ですよね?」

 そうだ。結局疑問はそこに収束される。
 何かがあった。
 だから逃げた。

「――ああ、そうだ」

 やや間があって牧宮が答える。
 彼はしゃがんだまま、床のタイルを撫でている。

 その背中に向かって紗映子は続ける。

「これまでも同じだったんでしょうか――つまり強姦ののち被害者を置き去りに」
「いや。他の被害者からの証言では、放置はしなかったそうだ」

 律儀に街まで連れ帰っていた、のだという。

 たしかにここに置き去りにしては、事件が無駄に大きくなる可能性がある。歩いて山を降りるにはかなりの時間がかかる。自暴自棄になった被害者が行方不明になったり、あるいは気の迷いから自ら命を――

 命を、断つかもしれない。

「では、彼らにとって想定外の何かが起こった。ここで――あるいは、車に乗り込むまでの間に。そして逃走した」
「そうだな」

 紗映子は牧宮の背中を照らす。シャツ越しにも分かる筋肉質の背中。そして太い首――うなじ。

 あの映像を思い出す。
 日高が増える(、、、)その様を。

 彼女の黒髪を掻き分けて、(くび)から産まれたもう一人の彼女を。

「気が動転していたんでしょうか。それにしても、とっさに逃げるなら普通は見知った道を行きますよね。余程のことがない限りは」

 余程のこと――人知を越えたおそろしいこと。

 もう一度ホールを見渡す。長方形の鏡に囲まれた部屋。

 1枚の鏡に映った紗映子の像は、向かいにある鏡に映り込み、さらに斜めにある別の鏡が、紗映子の姿を模写する。そうして、鏡の世界がどこまでも続いている。

 その中央部で日高は組み伏せられ、犯された。ちょうど牧宮がかがんでいる辺りで。憔悴しきった彼女の耳元で、誰かが囁いたかもしれない。誰にも言うな、いいか、弱みは握っているんだ――。

 そして、(わら)っていたかもしれない。彼女の悲惨な有り様を見て。

「先輩。牧宮先輩。日高が保護されたのは、どこなんですか」
「――ここ(、、)だ」

 やや間があって、牧宮が答える。振り向かない。

「出頭してきた犯人が供述した。それで駆けつけた警官が発見したんだ」
「じゃあここで――」

 紗映子は言う。

「――ここで増えたんじゃないですか、日高は」

 牧宮は答えない。
 
 絶望に沈んだ被害者が、増える。
 4人はそれを()の当たりにする。そして逃走する。あんなもの(、、、、、)を見れば、誰だって平常ではいられないだろう。十分にあり得る話だ。

 なぜ増えたのかは――分からない。
 どうして増えた日高は死んでしまうのかは――分からない。

 増えたその1人はどこへ行ったのか。まだどこかを、暗い森をさまよっているのか。死んでいるのか。

 そして牧宮はなぜ黙っているのか。どうして紗映子を連れて来たのか。ここで何をしているのか。ここはなぜこうも恐ろしいのか。ここには何があるのか。分からない――分からない――分からない。どうしても。

 紗映子には何も――分からない。
 それが悔しい。

 知りたい。どうしてでも知りたい。この事件を、牧宮の考えていることを。

「どうした」

 牧宮がゆっくりと立ち上がる。すると周囲の――鏡に写った牧宮も、全員立ち上がる。囲まれている――懐中電灯を当てられる。見えない。何も見えない。牧宮の顔も見えない。

「どうした――祥子(、、)

 しょうこ?
 祥子とは誰だろうか。彼の妻の名だろうか。それとも娘か。あるいは――。

「安心しろ。俺が()いてやる。解放してやる。その苦しみを」

 おかしい。
 何かがおかしい。
 彼は何に(とら)われているのだろうか――知りたい。

「理不尽だ。何もかもが」

 静かな、それでいて力強い声で牧宮は言う。

「俺は許さない。なあ祥子――痛かったか、苦しかったか。なぜ裁けない。お前の無念は。どうすれば」

 ぬっと手が伸びてくる。牧宮の右手だ。紗映子を掴もうとしている。とっさに紗映子はホルスターから拳銃を抜き放つ。銃口を牧宮に向ける。

「――なんのつもりだ、日高(、、)

 今度は彼女の名だ。彼は一体どこをさまよっているのだろうか。妹を失った6年前か。日高美奈が犯された1月前か。この現場に足を踏み入れたそのあとか。

 ――知りたい。

 この寡黙な男がなぜ取り乱すのか知りたい。伸ばした右手で自分をどのようにするつもりなのか、知りたい。犯されるのか、殺されるのか――駄目だ。死んだら、死んだら、分からないままじゃないか!

 紗映子の左手から滑り落ちた懐中電灯が、床から2人を照らす。鏡に対峙する2人の像が写し出される。

 鏡の中で虚像(きょぞう)たちがさざめく。

 なぜ。
 どうして。

 知りたい。
 本当の――

「……それ(、、)は、冗談では済まんぞ」

 牧宮の低い声が、いっそう強く響いた。

 いつの間にか、紗映子の握る拳銃は準備を済ませていた。標的を撃ち抜く準備を。安全装置は解除されてある。紗映子の手が汗ばむ。その指が、引き金に乗せられる。両手が銃のグリップを強く握りしめる――震える。

「おい、北原(、、)――」

 牧宮が踏み出す。周囲の像も紗映子に詰め寄る。

 限界だった。紗映子は照準を合わせ、間違いなく合わせ、引き金を絞った。発砲音。放たれた弾丸が牧宮のこめかみに命中する。牧宮の頭部が砕け、ガラスの砕け散るけたたましい音が響いた。

「な――」

 牧宮はさすがに肝を冷やしたらしい。
 紗映子の放った弾丸は、彼女から見て右方向の――牧宮にとって左方向の――壁、つまり鏡を撃ち抜いていた。鏡に映っていた牧宮の側頭部を撃ち砕いていた。

「なにを」
「鏡――」

 紗映子は叫ぶ。

「鏡を壊しましょう、先輩。ここは良くない、きっと良くない!」
「おい待て」
「先輩の指示じゃないですか、何を撃つかはお前が決めろって。ここは――特に良くない。そんな気がするんです」
「気がする――そんな」
「鏡に映るんです――」

 紗映子は言う。

「――自分が」
「自分? そりゃあ当たり前だろう」
「ここは、迷路の中でも特に鏡が多い。合わせ鏡の比じゃないくらいに、です。永遠に反射を繰り返す部屋。反射して――増えている」

 紗映子は荒くなった息を整えながら話す。

「『別人のようになって出てくる』――それがこのミラーハウスにまつわる噂でしたよね。でも、さっき先輩が言ったようにやっぱり『逆』なんじゃないかって思うんです」
「逆――」
「はい。より『本人らしくなって出てくる』のではないかと。つまりですね、ここでは自分の()()()増える(、、、)――増幅されるのではないでしょうか」
「なんだそれは。何を根拠に」
「――先輩、ちょっと最近おかしくないですか」
「――なに?」
「執着し過ぎではないですか、と言っているんです」

 紗映子は、一旦ためらってから続ける。

「被害者――日高美奈にこだわるのは、妹さんのことがあったからですか?」
「……違う」
「重ねてるんじゃないですか? あの子と、妹さんを」
「違う!」
「理不尽な暴力によってただただ傷ついたあの子を、救いたいと、解放してやりたいと――」
「だから違うと言っている!」

 今にも噛みついてきそうな牧宮へと、紗映子は銃口を向ける。今度は引き金からは指を離している。

 牧宮はあごを引いて、紗映子を睨む。

「警官にあるまじきことだ、私怨を持ち込むなど」
「むちゃくちゃ持ち込んでるじゃないですか。捜査方針に反して――いやもう、まとも捜査すら行われていないようですけど――それでも単独で事件を追うなんて」
「…………」
「でも、それが本来の先輩なんですよね?」

 紗映子の頬を汗が伝う。

「妹さんの事件のときにも、そうしたかったんじゃないんですか。でも必死で押さえていた。バランスが取れなくなって、家庭にも危機を持ち込むほどに。警官であろうとしていた。けれどそれなのに――」

 今は、思うままに事件を追っている。

そう(、、)なったのはいつからですか。自分の願望を抑えきれなくなったのは。このミラーハウスを出てから――いいえ、もしかしたらここに入ってから、じゃないですか」

 紗映子は問う。牧宮は答えない。

「ここは、良くない――」

 鏡に、自分自身が映る。その時の、その瞬間の自分が、わずかに光の速度だけ遅れて鏡に映し出される。その像は正確なのだろうか。あるいは、その鏡面に対する別の鏡面に写った自分は。

 ただでさえ認識を狂わせる仕掛けだ。もし、本当に噂通り良く(、、)ない(、、)もの(、、)がここにあるのなら。漂っているのなら。充満しているのなら。何かが――()みついているのなら。

 鏡に映った自分の、その思いが、欲望が、願望が――その何者かによって、見抜かれて、写し取られているのであれば。

 鏡に囲まれたこの部屋で、それらが際限なく増えて(、、、)いるとしたら。

「願望――そうですね、刑事的には動機、と呼ぶべきですかね」
「なにを――くだらん」
「『死にたい』――自殺の動機です」
「…………」
「日高美奈はここで強姦の被害に遭った。彼女はなにを思ったでしょうか。友人に裏切られ、陵辱されて。引き裂かれて。鏡に映った彼女は、どれほど絶望していたでしょうか」
「…………」

 めまいでもするかのように、牧宮がふらつく。紗映子は続ける。

「『死にたい』。その願望を、この鏡がいつまでも叶えつづけているとしたら。増やしつづけているとしたら。『増えた日高美奈』は、その願いをかなえつづけていることになる。何度も、何度も――」

 紗映子は、頭の奥で冷静さを取りもどしつつある。

「ふん。願いを叶える鏡だとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい」

 牧宮は言う。あざけるような言葉だが、どこか力がない。紗映子は言う。

「車内で発見された『肉塊の3人』については分かりません。ですが『出頭してきた1人』は、みずからの罪を告白しているんですよね。何度も。そして、何かを恐れている。過度に」
「それは――」

 牧宮は、かろうじて小さくうなずいた。

「ああ、そうだ……」
「先輩も囚われている。この事件に。被害者を救いたい、理不尽な加害者に罰を。事件の真相を。ここで囚われたんじゃないですか。『本当の自分』って相手に。刑事としての体面をかなぐり捨てて、叶えたい望みを剥き出しにして動くようになったのは、ここを出てからのことでは?」
「…………」
「私も今の今まで、知りたくてたまりませんでした」
「――知りたい?」
「はい。先輩の頭の中身を。何を考えているのか、知りたくて知りたくて。撃って、中身を見たら分かるかな、って」
「お前、そんな恐ろしいことを――」

 牧宮は顔を引きつらせる。

「……百歩譲って、ここがそういうおかしな(、、、、)空間だとしよう。そうだとして、しかし鏡を壊して解決になるのか」
「分かりません。私、専門家じゃないので。でも――」
「でも?」

 紗映子はすうと息を吸って、吐きだした。

「ここは、本当に胸くそ悪いです。あのクズどもがここでやってたことを思うと、むちゃくちゃ気持ち悪いです。だから、ぶっ壊しちゃいましょう、ってことでもあります」
「お前な……」
「そしてさっさと帰って、もっと日高美奈と話しましょう。増えた彼女たちとも。時間をかけてじっくりと――まあ、それこそ刑事の仕事じゃないかもしれませんけれど。それこそ専門家の出番でしょうけど。被害者の心を癒やすしか、もう私たちにできることはありませんよ」
「俺には向かない仕事だな」
「まさか」

 紗映子はいたずらっぽく笑ってみせる。

「先輩、日高と話すとき、すごく優しい声でしたよ。私に対するときとは全然違って」
「……ここを壊して、なんになる」
「さあ。ただの憂さ晴らしですよ。事件の犯人のうち、3人は死んでしまった。1人はすでに拘留されて――けれど、『増える』現象を確認するため隔離されてしまった。もう、私たちの手には届かない」
「なら、せめてここを――か。馬鹿げているな」

 言って、牧宮は鼻で笑う。

「だが、悪くないかもしれんな」
「虚しいだけかもしれませんけどね。それに――あとで何か(、、)に祟られるかもしれませんけど。ああ、先輩はそういうの信じる派でしたっけ」
「ふん」

 牧宮はやれやれと首を振る。右手を差し伸べてきて、

「貸せ。俺にも撃たせろ」

 紗映子は拳銃を逆さにして手渡す。

「始末書で済みますかね」
「さあな。知らん」

 牧宮は受け取った拳銃で鏡を撃った。悲鳴のような破砕音がミラーハウスに響いた。




 ■ ■ ■ ■ ■ ■




「暑い……」

 M県警のビル、捜査一課のフロア。
 冷房の効いたその部屋に戻ってきた紗映子は、自分のデスクについてうなだれる。

「お、お疲れさん」

 うしろから声を掛けられる。背後のデスクに座っていた原田だ。

「どう、進展は」
「原田さん」

 振り向きながら紗映子は言う。

「まあ、そこそこです」
「なんだよ曖昧な返事だな」

 言って、原田はからからと笑う。紗映子より4つ年上の先輩刑事だ。

「今日は相棒(、、)は一緒じゃなかったんだ」
「やめてくださいよ、それ。牧宮さんと組んだ覚えはありませんから。今日は1人で動いてたんです」

 うんざりした声で紗映子は言う。それを聞いた原田はまた笑う。



 あの日から――裏野ドリームランドを牧宮とともに訪れてから、3週間が経過していた。

 独断捜査、担当外である紗映子の同伴、拳銃の発砲――牧宮は、そして紗映子も、厳罰を受けても仕方のないほどのことをしていた。懲戒免職もあり得るのでは、と密かに戦々恐々としていたのだが、結果はお咎めなし。2人とも、元通りに職務を遂行している。

 ――誰かが2人の罪を隠蔽(いんぺい)したのだろうか。

 牧宮によると、あの事件については県警の上層部でも特異な事案として扱われており――当然だろう――捜査から完全に手を引くべきだという派閥と、県内で起きた事件を理解不能のまま手放すことを嫌う派閥などに分かれているという。

 2人のしたことがどちらの派閥を利することになったのかは判然としない。しかし紗映子たちを処分するには、今は間が悪い――ということなのかもしれない。いずれ処分は下されるのかもしれないが、ともかく紗映子は捜査一課に在籍することを許されている。

 牧宮は、裏で相当に絞られたようではあるが。

 2人にとって最大の心残りといえば、やはり日高のことである。彼女への面会は難しくなってしまった。以前のような手は使えない。

 彼女はまだ増えつづけているのだろうか。死につづけているのだろうか。

 あれ以来、上は2人をまとめて監視するつもりのようで、チームを組ませて事件を担当させている。

「いいコンビだと思うけどなぁ」

 原田はからかうような口調で言う。

「勘弁してくださいって。あの人、雑談が通じないんですから。しんどいんですよ」

 うしろで束ねた髪をほどいて、紗映子は肩を落とす。だが、言うほど牧宮を毛嫌いしているわけでもなかった。あの無愛想にも、意外と人情深い一面があったりする。だからと言って好きになるわけでもないのだが。

「バツイチかどうかも、微妙なところですしね……」
「ん、何だって?」
「いえ、なんでもありません」

 言ったところで、デスクの上の電話が鳴った。内線だ。嫌な予感がしつつも紗映子は受話器を取る。案の定、電話の相手は牧宮だった。

「――え、はい? なんですか、いや、だから」

 またも一方的に電話を切られた。

「はは、デートのお誘いか?」
「……だから勘弁してくださいってば。はあ」

 ふらりと立ち上がり、重い足取りで紗映子は部屋を出る。まったく、こちらも暇じゃないのに。

 事件は増える。紗映子たちが立ち止まろうと、うつむこうと、世間は次々に事件を量産する。警官でいられるうちは、その1つずつと向き合っていこう。紗映子は深く息を吐いて、牧宮の待つ会議室へと向かった。


 ・・・・・・

 北原紗映子が出て行ったドアを見てから、原田は首をかしげる。

 ――あれ(、、)はなんだったのだろう。

 原田はさっき見たものを思い出している。女性に身体的特徴を指摘するのは(はばか)られたため、あえて(たず)ねはしなかったが。

 何かの傷跡だったのだろうか。

 席に着いた北原の首筋を思い出す。
 なんだったのだろうか、あの、彼女のうなじに伸びた一本の細い線は――。


(終)
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