第1話

文字数 1,949文字

 小学六年の時、同じクラスに柳井くんという男の子がいた。天然パーマの明るい髪でバタ臭い顔をした彼は、田舎の小学校で浮いていた。
 六年生は学校の委員会活動をしなければならない。クラスでそれぞれの委員を決める。黒板に放送や図書、体育や文化といった漢字二文字できっちり主張し、わかりやすいけれどたいへんそうな委員会が並んで書かれた。自分をわかっている子ほどさっさと決めることができる。例えば、運動ができる子は体育委員、本が好きなら図書、声がよければ放送委員といった風に。その最後尾にベルマークというカタカナのくせに地味そうでたいした仕事もなさそうな、いかにも他に行くあてのない生徒の救済のような委員会があった。
 私と柳井くんはベルマーク委員の三人のうち二人になった。実際ベルマーク委員会の主な仕事、集めたベルマークの整理、点数計算や送付などはお母さんたちが担っていて、生徒にたいした仕事はない。ベルマークを切りそろえる手伝いをしたり、各教室からベルマークを回収したりするぐらいだ。
 ベルマークを集めるため、放課後、人気のない廊下を三人並んで歩いている時なんかに、柳井くんはいきなり私に抱きついてきた。発作的で荒々しいそれに全く好意は感じられなかった。周囲も私も柳井くんは乱暴な問題児だと認識していた。たまたま側にいた私が標的になっただけの嫌がらせだと思っていたので、驚きもせず声も上げず、淡々と受け流していた。私はジェットコースターで悲鳴をあげられない可愛げのない女子だった。ベルマーク委員のもう一人も女子だったのだけれど、柳井くんは私のほうが安心して抱きつけたのだろう。
 今にして思えば、彼はよく私の側にいたのに、全く気づいていなかった。例えば修学旅行のスナップ写真の中、岩国錦帯橋を腕組し難しい顔をして渡っている私に並んで足取り軽く満面の笑みを浮かべている彼がいた。その白黒写真が手元に届くまで彼が居たことさえ知らなかった。多分、錦帯橋の構造や古い木造の橋の歩きかたで頭がいっぱいだったのだ。私はあまり回りが見えない女子だった。
 柳井くんが自転車で私の家に突然訪ねて来たことがあった。私の家は曾祖父の代からの土建屋だった。父は勤め人だったけれど、図面を描いて自分の家を建てるぐらいの大工仕事はこなした。祖父は左官で屋根の雨漏りを直すのがうまく遠くからの依頼もあるほどの名人だった。屋根には梯子がいつも掛けてあり、私は祖父に屋根の上の歩きかたを習っていた。祖父母の家と私の家の間には、広場というには厚かましく、隙間というには謙遜しすぎな、ちょっとした狭間があった。カンナかけ途中の木材がいつも置いてあったそこに柳井くんは私を呼び出した。
 古い寺の地所で商店街と官公庁のあいだ、商家や住宅が混じっていた。近所には幼馴染がたくさんいて、知らない顔はなかった。町内会対抗の小学生のスポーツ大会が盛んで縄張り意識も高い。柳井くんの家がどこにあったのかは知らなかったけれど、私の町内から遠かったのはわかっていた。六年生といえども小学生が自転車で自分の町内の外に出るのは勇気のいることだ。
 彼が何をしに来たのか全く分からなかった。聞いても答えなかった。ただなんともくすぐったそうな何か言いたげな顔をしていた。私にはそんな彼の気持ちを思いやるデリカシーも口を開かせるテクニックもなかった。その上少々短気で彼を邪険に扱った。なんの会話もせずに柳井くんは帰って行った。
 数日後、柳井くんは突然、松浦くんになった。担任の先生がわざわざ柳井くんを教室の前の壇上に立たせ、ご丁寧にも黒板に名前を書いて、そう言った。なぜなのかは一切説明がなかった。察するぐらいの知恵は小学六年生にもあり、だれも騒がない。今時とちがって離婚は非日常的で珍しいことだった。柳井くんもとい松浦くんは、それから間もなく卒業を待たず転校していった。それっきり、だ。
 柳井くんは私に言うことが何もなかったわけではなく、小学六年生が言葉にできないほど多くの複雑な感情を抱えていたのだろう。泣き顔でも笑顔でもなくどちらにもなりそうな何か言いたげなくすぐったそうな顔を思い出す。
 あの頃、柳井くんの日常は楽なものではなかったはずだ。不愛想な女の子がすこしは救いになっていただろうか。ただ会いたくて、自転車を走らせるほどには。会ったところでどうにもならない。私にもどうすることもできなかった。私たちがもうすこし大人だったらちがう未来もあったかもしれない。
 ただ、私のような薄情者がだれかの笑顔のもとになれていたことに感謝したい。白黒写真の中の幸せそうな笑顔で、柳井くんでも松浦くんでもどっちでもいい、他の名字になっていたとしても、今もいてくれることを願うばかりだ。
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