第1話

文字数 1,993文字

滝のように流れる汗を拭きながらデスクに着くと、西浦さんが声をかけてくれた。

「永野さん、大丈夫? 課長が休ませてくれなかった?」

玉垣課長。仕事ができて爽やかで、職場の人との距離感も絶妙。上司や部下からの信頼も厚い。いわゆる理想の上司だ。なのになぜか私には冷たい。

課長だけでなく、この職場の男性はみんな私に冷たい。挨拶ですら目が合わない。

「いえ……。有給が消化されていないからさっさと休むようにと怒られました」

「怒られたの? 優しく言えばいいのにね」

今朝、私はひどい頭痛で午前の仕事を休んだ。

今までの職場では、まず西浦さんのようなお局様に一番に嫌われた。それから同性の同僚に。

今の職場ではお局様や同性の同僚とはなんとかうまくやれていると思う。でも課長や男性社員の態度は冷たい。

私のなにが人を嫌な気持ちにさせるのだろう。好かれようとするほど嫌われる気がする。この世の中を上手く渡るアイテムがお金で買えるなら、私はどんどん課金してしまうと思う。でも人生はゲームではないし、そんなアイテムもお金で買えない。経験を積んで、学んで生きていくしかない。


仕事を終えて帰る頃、暑さはいくらか和らいでいる。
街灯が灯る歩道に蝉が転がっていた。アスファルトにひっくり返る蝉が悲しく見えて手を伸ばす。そっと触れた瞬間、蝉はジジジッと鳴いて勢いよく飛び立った。私は驚いて尻餅をついた。

「なにをしているのですか」

顔を上げると玉垣課長が私を見下ろしていた。

「蝉が……」

「死骸だと思ったら生きていたのですね。蝉爆弾などと言いますね」

蝉爆弾。納得のネーミングだ。

「いつまでそうしているのですか」

課長は私の手を取って起こしてくれた。

「頭痛の具合はどうですか」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。おかげさまでよくなりました」

「体調が万全でないなか、責任を持って仕事をしてくださってありがとうございます」

こんなに丁寧に部下に言葉をかける上司がいるんだな……。いつもはほぼ無視されているので、咄嗟になんと返してよいかわからなかった。

「気をつけて帰ってください。体調に問題があれば無理をせずにお休みを取ってください。では」

そう言って立ち去る課長の背中を、私はぼんやりと眺めていた。


お盆休み。みんなは海に行ったり、海外旅行に行ったりしているのだろうか。そんなことを考えながらカフェで行き交う人波を眺めていると颯爽と歩く男性に目が止まった。玉垣課長だった。課長と私の視線が交差する。

課長は私の方を指差して

「いいですか?」

と口の形で表した。

そっちへ行っても、という意味だ。私はこっくりと頷いていた。

「偶然ですね」

炎天下の熱を沈めるように、冷えたドリンクが課長の喉を通ってゆく。

「あれから蝉爆弾には遭遇してないですか?」

問いかける課長は、職場とは別の人のように優しい。

「あれからは遠巻きに見るだけにしています」

「昔はよく蝉取りに行ったけどなあ。おしっこかけられたりして」

「蝉が人にそんなことをするんですか?」

「そうですよ。知りませんか?」

「初めて知りました。蝉ってけっこう強いんですね」

課長が笑って、私も笑った。

他愛もないお喋りをして、焼き鳥屋さんに場所を移した。

あと二日あるお盆休みの予定を遠慮がちに聞かれ、特には、と答えると、そのうちの一日、一緒に過ごさないかと誘われた。

私は嫌な予感がした。

こういうことになると職場の人間関係が悪くなる。

「私のことが嫌でなければ——」

課長が言った。
嫌ではない。嫌なら焼き鳥を一緒に食べたりしない。でも。

「職場のことを心配していますか?」

図星を突かれて、課長の目を見た。

「それなら大丈夫です。今まで通り職場では塩対応でいきますから」

塩対応——?

「永野さんが職場に来た日、我々男性社員はざわめきました。素敵な人が来たと。しばらく永野さんという人を見ていると、永野さんご自身はそれをよしとしていないように感じました。むしろ困っているようにすら。そこで、男性社員で決めたんです。我々が永野さんにデレデレと親切にすると、きっと永野さんは辛い立場に立たされる。それは想像がつきました。ですから下手に親切にしないこと! と。私も含め、みんな不自然な態度を取っていたと思います。謝ります」

そんなことってあるのだろうか。
でももし本当だとしたら、そのおかげで私は今までの職場より安心して過ごせていたのだろうか。

残りのお盆休みの一日、課長と過ごす約束をした。

そして結局、もう一日の休みも課長と過ごした。お盆休みが終わってしまうのが寂しかった。


プライベートの課長は甘々だ。
そして職場では徹底した塩対応。


チョコレートとポテトチップスのように。

すいかに塩をかけて食べるように。

おぜんざいに添えられた塩昆布のように。


甘いと辛いは癖になる。

甘さを引き立たせ、甘すぎる口を和らげる塩味。


魔法にかかった私は、今日も我慢できずに手を伸ばす。

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