第13話 言い訳できない真夏

文字数 5,939文字







夏は、暑い。それは年々、「そりゃあ夏だもの」という言葉では片づけられないほどに、厳しいものになっている。


その日もテレビでは、「熱中症注意報」と言って熱中症になる危険性の高い猛暑になっている地域などを紹介し、気象予報士のお姉さんは心配そうな顔をカメラに向けていた。

「熊谷、舘林など、40℃を超えるところもありますので、充分な水分補給をし、休息などを取るようにして下さい。なお都内でも…」

そんな家を出る前の天気予報が、頭の中で繰り返されていた。

そう、都内も暑い。僕は、暑くて線路が歪みやしないかとヒヤヒヤするような酷い暑さの中、電車のホームに並び、乗り込んだ電車内のエアコンに慰められながらもすぐに降りて、また太陽に焦がされ続ける街中を越え、やっと図書館に着いた。




自動ドアをくぐって館内に一歩踏み入ると、エアコンによって涼しく保たれた室内の空気が、夏のご馳走となって僕を迎えてくれた。

ああ、本当にいい気持ちだ。天国のようだ。そう思ったけど汗は止まらなくて、体の熱さもすぐには収まりそうになかった。

図書館を入ってすぐの受付カウンター前は、貸出記録カードなどが差してある書き机の上に、木製のキューブカレンダーが並べられ、その日が八月五日であることを示していた。


「あ、馨さん、こっちこっち!」


遠くから美鈴さんが呼んでいる。少しずつ体の上辺だけが冷えていっても、その奥では熱した血液が全身に巡り、汗でインナーシャツが背中に張り付いて、耳鳴りがしていた。夏休みの課題の一区切りがついて、やっと美鈴さんと会えたのに、「体が熱い」ということ以外、何も考えられなかった。

もしかしたら、この日の僕は熱中症になっていたかもしれないと、今なら思う。


彼女は、図書館の受付前のホールにあるソファで僕を待っていた。僕はなんとかよろよろとそこまで歩いて行く。

僕は多分その時、酷い顔をしていたと思う。汗みどろだったし、暑さにすっかりげんなりした表情だっただろう。



海に、行きたい。ここまで暑いなら、いっそ海に居たい。君と。



「美鈴さん…海に、行こう」

もうろうととろけた頭で強く願ったことを、挨拶も前置きもなしに、開口一番、彼女に伝えた。


僕が美鈴さんに、提案という形ではなく、何かを宣言して誘うということは、これまでなかった。


でももう、こんなに暑いんじゃ、君と一緒に海に行けるくらいの幸運が欲しいんです!


そう強く思ったから、僕は初めて宣言した。


いや、別に水着姿が見たいとか思っているわけではなくて!彼女と一緒に大自然を体験したいだけ!余計なことを考えちゃダメだ!


僕は内心で勝手にうろたえ始めて、彼女の顔を見ていられなくなってしまったので、彼女が座っている四人掛けほどのソファにすぐ腰を下ろした。歩いている時はさほどでもないのに、止まったり座ったりすると途端に汗が噴き出るのはなんでだろう、と思いながら。

美鈴さんは混乱していたようだったけど、しばらくすると彼女は僕に身を寄せてきた。僕が振り向くと、美鈴さんは口元に手をかざしていて、こっそり囁くような小声でこう言ったのだ。


「じゃあ…私、水着持ってないから…一緒に見に行く…?」


「えっ…う、うん…」


…どうしよう。僕はそう困惑しながら、その日、美鈴さんと図書館で読書会をした。






僕たちは数日して、デパートの水着売り場に居た。

「あっ、サーフボードとかも売ってるね。行こう馨さん!」

「う、うん…」

僕は、女性物の水着が並んだ商品棚に近づこうとしたところで、足が止まってしまった。なんだか、「やましい気持ちを抱いています」と周りに言いふらすのと同じなんじゃないかとさえ考えて、なかなか美鈴さんについていけなかった。

「もう。相変わらず恥ずかしがり屋だなあ。大丈夫だって。行こう?」

僕を連れに来た美鈴さんは、そう言って僕の腕を引っ張った。






「ねえ、これなんかどうかな?」

美鈴さんが商品棚から水着を一着、ハンガーごと取り出して、体の前に合わせる。それは、白いビキニで、フリルの付いたものだった。僕は、彼女がそれを着たらさぞ可愛いだろうなと思って、つい恥ずかしくて目を逸らしてしまった。

「…似合わない?」

「えっと…」

僕が上手く言えずにいたから、美鈴さんは不安そうにこちらを見ていた。


「すごくよく似合うし、見てみたい」と言ってしまいそうになるけど、「見たい」なんて言ったら彼女に嫌われそうでなかなか言えなくて、僕が言おう言おうとしているうちに、美鈴さんは、また商品棚にぶら下げられた中から水着を選んでいた。


「うーん、じゃ、こっちは?」

次に美鈴さんが取り出してきたのは、紺色の生地に、白い水玉模様がプリントされたビキニで、首の後ろで縛るタイプだった。僕はその結び目を見て、つい変な想像をしてしまいそうになり、また目を逸らしてしまった。それでも、何かは言わないと。

「えっと…どれがいいのかとか…よくわかんなくて…」

僕が言葉に迷っていると、美鈴さんはぷくっと頬を膨らせて僕を見たあと、ちょっとしょげたようにうつむく。もしかして、変なことを考えているのが知れてしまったのではないかと、僕はすごく焦った。


「…ちゃんと考えて。私、馨さんに可愛いって思われたいもん…」


そう言った彼女は、自分が言ったことに赤面し、それから一生懸命に拗ねていた。


それを見た僕は、「君ならなんでも似合う」と言いたかったのに、あんまり彼女が可愛いもんだから、胸が詰まって言えなかった。


僕はとにかく彼女に可愛らしい水着を着せたくなったけど、言葉でそれを伝えたら、彼女に誤解されそうで怖かった。だったらあとはもう、行動で示すしかない。

僕は、すぐにそばにあった棚を黙ったまま物色して、なんとなくだけど、白とピンクの混じった水着を探した。美鈴さんはちょっと僕の様子にびっくりしたようだったけど、黙って僕のしていることを見守っていてくれた。


真っ白の上に散らされたピンク色。そんな水着を着た美鈴さんが見たい。

「見たい」とは言わなくてもいい。ちょっと、「これなんかどうかな?」と言うだけでいい。

そう思いながら、見ているだけで恥ずかしくなってくる色とりどりの水着を一つずつ調べて、ハンガーを棚の端に寄せていった。


あった!


僕は、棚にぶら下げられた中から見つけた、白い生地にピンク色のボーダー柄がプリントされた水着を、美鈴さんにゆっくり差し出した。恥ずかし過ぎて、まるで悪いことをしているような気分だった。

「これなんか、いいと思う」。なんとかそう言おうとした。僕の顔は、焦げそうに熱い。


「…こ、これ…」


言いたかったことの半分も言えなかったけど、美鈴さんはにっこりと笑って、「うん。それにする」と言ってくれた。




「それで、馨さんは水着どうする?家にある?」

僕はその美鈴さんの言葉で思い出して、はっとした。


そうだ!自分の水着のことなんか考えてなかった!そういえば僕も水着を持ってない!


うっかりと忘れていたので、慌てて美鈴さんに「僕も水着なかった。どうしよう…」と言うと、美鈴さんは僕を手招きした。


美鈴さんについていくとそこは、男性物の水着売り場だった。美鈴さんはそこに着くとやにわに水着を見比べ出して、僕が止める間もなく次々と水着を取り出しては、また棚に戻していた。

僕の水着を選んでくれてるんだなと思ったけど、彼女の表情は真剣そのもので、着る本人の僕も、声を掛けられなかった。


やがて彼女は一着のサーフパンツと下着のセットを持って来て、僕の前に差し出す。

「これ。どうかな?」

それは、ネイビーとグレーの大きめのボーダーだった。

「しましま。おそろいだよ?」


そう言って得意げに笑った彼女が可愛かったので、僕も、「うん、僕もそれにする」と返事をした。






もうすぐ、更衣室から彼女が出てくる。僕はそれを、じりじりと焼ける夏の太陽から遠ざかった屋内で待っていた。ここは海水浴場の更衣室前の、静かな廊下だ。

僕たちは電車と高速バスを乗り継ぎ、人気の海辺へやってきた。僕はもちろん、彼女と海を楽しみたいという気持ちはあったけど、彼女を隣に連れて人ごみに出て、自分たち二人は恋人同士なのだと思いたかったし、それに、やっぱり水着姿の彼女を見てみたかった。


「お待たせ」

僕が顔を上げると、更衣室前の少し薄暗い廊下に、外へ出る扉の方からわずかに差し込む光に、ぼんやり照らされた美鈴さんが立っていた。

「どう、かな…?」

光の乏しい中、目に飛び込んできたのは、見事なシルエットだ。

ぴっちりした水着が、彼女の胸を重そうに支えている。それをじっと見てはいけないような気がして目を逸らしたかったけど、そんなことはできないくらい、彼女は魅力的だった。

それから、細い体の曲線がほとんどすべて晒されていて、それはどこか儚くて、思わず「守ってあげないと」という気持ちを起こさせた。

水着のデザインの、白地にピンク色のボーダーという可愛らしさも、体が小さい美鈴さんによく似合っていて、僕はちょっとだけ、これを選んだ自分を褒めてやりたかった。


「えっと…その…」


僕は、思ったことのうちのどれを言えば彼女に誤解されないのかがわからなくて、歯切れ悪く言い淀んでいたけど、なんとか「可愛い」とだけ言って、堪えきれずに両手で目を覆った。


「ありがとう。馨さんもそれ、似合ってるよ」






「わぁ…海だ…」

「うん…海だけど…」

海水浴場は絶好の晴天に恵まれ、さらに休日ということもあいまって、これでもかというほどの賑わい振りだった。

人、人、人。逃げ出したくなるくらいの人ごみだった。


潮干狩りにきゃあきゃあとはしゃぐ可愛らしい子どもたちと、その子どもに手こずりながらも幸せそうな母親、父親。それから、友達連れと思しき若い男性たちや、女性たち。あとは、その隙間を埋めるように、男女のカップルが寄り添い合ったり離れたりと、騒がしい幸福の光景だった。


でも、広い海水浴場の浜辺は、数えることもできないほどそれらの人々で埋まっていて、歩くのにも苦労しそうなくらいだ。


「人…多いね…」

「うん…」

僕たちはちょっとため息を吐いたけど、すぐに微笑み合い、手を繋いで波打ち際へと歩いて行った。






「えいっ!」

美鈴さんが僕に向かって思い切り両手を振り上げ、掬った水を掛ける。海水は思っていたより冷たくなかったけど、それでも水に触れるのは気持ちいい。水が弾けるたびに、潮の香りもつんと強くなった。

「やったな!」

僕も彼女に水を掛けた。彼女は嬉しそうに笑って細い腕でそれを避ける仕草をしながら水を浴びる。



それから彼女は急に後ろを向いて、波打ち際を走っていってしまった。僕はそれを知っていたように、喜んで追いかける。



水着姿の彼女は、時たま振り向いて僕を見つめ、僕を手招きしてはまた波を蹴って走っていってしまう。



彼女の綺麗な黒髪が濡れたまま揺れて、彼女の真っ白い肌が陽の光に無防備に晒される。彼女の笑顔は今、一番輝いていた。



僕はその惜しげもない美しさに、「君が好きだ、もう言い訳なんてできないくらい、恥ずかしがるのももったいないくらい、君が好きだ!」と叫びたかった。それは強い陽ざしが後押ししてくれたからかもしれないけど、僕の本当の気持ちだった。



やっと美鈴さんに追いついて、僕はその手を掴み、「少し、泳ごう」と言った。彼女は黙って頷いた。






沖まで出てはいけないので、海水浴場の海にはウキを結んだ縄が渡してあった。僕たちはそのギリギリまで泳いで、波の間に浮かんでいた。



不思議に思えてくるほど、一面をすべて紺碧に染められた海の中に君が居て、僕が居た。波がチャプチャプと揺れて、小さな泡が潰れる音が辺りに響き、頭の上を飛んでいく海猫たちが、はやし立てるようにみゃあみゃあ鳴いていた。人々が騒ぐ声は、遠くに聴こえる。



彼女は僕の前で頼りなく波に揺れていたけど、僕が手を掴むと、素直に僕に近づいて、肩に掴まった。彼女の結び髪や透き通るような肌が水に濡れて、突き刺すような光をきらきら返すのを見た。海の雫に飾られた睫毛に縁どられている大きな目が、僕だけを見ているのを、僕は見た。



太陽だけが知っていた。僕たちがキスしたのを。






「あっ!かき氷!あっちにフランクフルトと、お好み焼きもあるよ!」

浜に戻るとちょうど昼時だったので、僕たちはコインロッカーに戻って財布を取ってきた。美鈴さんは、海辺に出た途端に並んでいる屋台を目指して走って行ってしまった。転ばないようにと声を掛けて、僕はなんとなくゆっくり彼女についていく。彼女は焼きそばの屋台の前で立ち止まり、僕を待ってくれていた。

「焼きそばもあるよ?どうする?」

「僕はじゃあ焼きそば食べようかな。君は?」

「私はね、焼きそばと、フランクフルトと、それからお好み焼きでいいかな!」

元気よくそう言って美鈴さんが屋台を回る前に、僕は焼きそばを買った。



「いただきまーす!」

「いただきます」

僕たちは浜の隅にある岩場に腰掛けていた。美鈴さんが水着姿のままで、フランクフルトにかぶりつく。

「はい、お好み焼き開けたよ」

僕はお好み焼きのパックの輪ゴムを外して開き、割りばしと一緒に彼女に渡した。

「ありがと!んー!美味しいー!」

僕が海を眺めたり、彼女を見つめたりしながら焼きそばを食べる間に、美鈴さんは買ってきたものを残らず平らげてしまった。そうして満腹になったらしい彼女の頭に僕は手を乗せて、ちょっと撫でる。

「ん?何?」

彼女はお好み焼きのソースが付いた唇の端を、機嫌よくきゅっと上げた。

「…可愛いから」

僕がそう言って、恥ずかしいと思う気持ちを必死にごまかして笑ってみせると、美鈴さんは爆発しそうなくらい赤くなってうつむいた。

「なんか…今日の馨さん、積極的…」

「ん…嫌、かな…」

僕がそう言うと、美鈴さんは僕の手の下で首をぷるぷると振る。そして、薄く唇を開いたまま、しばらく黙って下を向いていた。


「…全然、嫌じゃない…もっと、してほしい…いつも…」


美鈴さんは一口ずつ勇気を振り絞るように、小さな声だけど一生懸命喋った。


「了解」


僕はもう一度彼女の頭を撫でていた。






帰りの高速バスの中で僕は、日常のしがらみを海の中に置いてきたような心地よい疲れを感じながら、座席に身を預けていた。美鈴さんは、はしゃぎ疲れて僕の隣で眠ってしまっている。

バスの窓からは、ちょうど僕たちが居た海が防砂林の向こうに見えて、大きな大きな太陽がアップルパイのように照り輝くのが見えた。それは美鈴さんの無防備な寝顔を照らして、彼女はいつの間にか僕の肩にもたれて幸せそうに眠っている。


「また、来ようね」


それから、僕も彼女の隣で目を閉じた。




僕はもう、なんの言い訳もできないほど、君が好きだ。そう感じながら。






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