第6話

文字数 3,435文字

 しかしながら、征二のことを考える時、かすかではあるが、確実な自信が湧いてくる。この世に一人もいないと思っていた、私のことを好きになってくれる人。そういう人がいるとわかった後の日の光は、なんとまぶしいのだろう。それを胸で受け止められるよう、姿勢を正したくなる。だから、電車で会ったあの男性に対しても、私から声を掛けられるような気がするのだ。近い将来、再会したら。
 そして、大分遅れている人生ゲームのコマを一つずつ前に進めることができるかもしれない。こんな気持ちにさせてくれた征二には、ありがたいという気持ちは抱くが、やはりつきあったりするのは危険が大きい。なんとか恵と仲良くしてほしい。
 季節が、一つ進んで、私はかたつむりのようにのろのろと、一日一日を消化していた。もっとも、あのようなねばついた跡をつけるほど、強烈な生き方をしていたわけではない。会社では、言われたことにほんの少しやる気を上乗せし、かと言って目立ちすぎて同僚にやっかみを買わないような態度で、働いていた。この二つの絶妙なバランスにより、私はほとんど「無」と化していた、と言っても良い。とても居心地は悪いが、こうするより他うまく生きていく術を知らない。
 休日は、よく図書館に行った。区立中央図書館は、家からはちょっと遠い公園内にあった。早足で歩いて汗ばんだ身体のまま入館すると、キーンとした冷気が、一気に汗を冷やしてくれる。ぞくっという寒気を感じ、それでも中に進んでいく。頃合を見はからい、一度外へ出て、ベンチに腰かけ、今度は風を感じる。一連の儀式を経て、数時間雑誌を見たり、軽いエッセイを読んだりするのが、好きだった。今日は、風が心地よいので、暫くベンチで寛いでいると・・・。
 恵が、歩いてくるのが見えた。ここ五、六回メールを無視していたし、電話にも出なかった。
まさか、あたりをつけて探しに来るとは。偶然は、ありえない。
 どうか、気づかずに図書館に中に入りますように。そうしたら、その隙に退散予定。
「あー、いたいた」
 だめだ。気づかれた。真顔のまま、恵を見る。
「相変わらず、不愛想だこと」
 相も変わらず、無礼なこった。その程度が、いつもよりひどい。これは、征二と別れたに違いない。構える。
「お姉ちゃん、探しやすいったら。でも、なんでメール返さないの?」
 返したくないから。それだけ。他に、理由は、あるのか。
「面倒くさいから、本題に入るね」
 出た。人に向かって、面倒くさいと普通に言ってしまえる神経。そのず太さが、恐ろしいのだ。
「お姉ちゃん、征二とつきあう気ない? 征二は、どちらかというと、お姉ちゃんの方が合っている気がするのよ」
 何回目か。飽きた彼氏を、押しつけようとする企み。私が今までOKしたことがあったか。どうしてこう、学習機能がないのだろう。自分から別れようと思っているのが、まずもって勘違い。おめでたくって。相手が嫌ってくれるよう、細工しているとも知らず。この気づかない才能は、私に新鮮な驚きをもたらす。気づけよ、いい加減。
「だってねー、セージとナツメグだもの、実は、お姉ちゃんと結ばれる運命だったのよ、きっと」
 言ってくれる。インチキな訪問販売みたいなセールストーク臭。
「一度二人きりで会ってみなさいよ。きっと、楽しいから」
 命令形。もう会いましたよ。二人きりで。理想の男が現れるまでの「つなぎ」としてでも、征二とつきあうつもりは、ない。人を「つなぎ」として扱えるほど、私は冷酷ではないつもり。恵の申し入れ自体が、大変に失礼。征二にも、私にも。
「嫌よ」
 きっぱり、はっきり。恵の目を見て、断る。
「なんでえー」
 邪気のない瞳で、私を覗き込む。ちょっと上目使いで、なんとなく潤んだ二つの目。こんな目で見ていたから、母は恵をかわいがったのか。恵の甘えぶりが、母性本能をくすぐるので、いつのまにか差がついていったのか。それなら、少しは納得する。けれども、単に順番の問題だとしたら。私が先に生まれて、その時までは仲のよかった父と母の間に挟まる異物としてみなされたのなら、理不尽なだけだ。または、初めての育児で余裕がなく、ストレスをぶつけられていたのか。そうであるなら、就学の頃には手もかからなくなり、扱いが変わっても良さそうなものを。もう聞くことは、出来ない。墓を掘り返して骨に語りかけたところで、答えるわけもなく。もう、忘れていいのだ。私が忘れれば、それはなかったこと。なぜなら、恵は何も知らない。私がこんな思いで生きていることを。
 だから恵は、幸せな子供時代の思い出に包まれて、残りの人生を生きてていけば良い。上手に渡っていかれるはずがないのは、私にはわかるけれど、恵は、それすら認識できず、相変わらず人のせいにして生きていくのだろう。
「恵、私断ったでしょ? 征二さんとはつきあわないのよ。それから、もう暫く恵とも会うつもりない」
「えっ」
 驚きの表情を作る恵だが、私の決意とは全然違う捉え方をしているのが、わかる。暫くとは、一、二ヶ月くらいに思っているのだ。
「幸い私たちには、介護の必要な親もいないから」
「どういうこと?」
 きょとんとし続ける恵の目前を、濃い緑色の葉っぱが風に飛ばされていく。
「だから、本当に用のある時以外は、会うつもりないということです」
「それって、どれ位のスパン?」
「そうね。五年に一度くらい?」
「えー、そんなに少ないの? 八十五歳まで生きるとして・・・あと十回とちょっと?」
 八十五歳。そんな年まで生きると予想するところが、恵だ。その間に何かあるとは、考えないのか。本当に、今までどれだけの願いを叶えてもらっていたのだろう。何もトラブルが起きないことが前提の人生。私は、初めて恵に少し嫉妬した。
 けれども、やっぱり哀れに思う気持ちのほうが強い。たとえ溺愛されても、母により人生をめちゃくちゃにされた被害者であることには、変わりないから。恵はきっとこれから先も、結婚するという決断もできないし、自分の非を認められないから、友達も減っていく一方だろう。そして、私たち二人は、結果的に子孫を残さないことになったなら、悪しき悲しき母からの連鎖を断ち切ることができる。それならそれで、良いではないか。私みたいな子供が減れば、世の中は明るくなるだろう。恵みたいな身勝手な子供がいなければ、皆仲良くできるだろう。絶望の中の、唯一の希望。スパッ。よく切れる鉈で、この鎖を切る。
「十回でも、多いくらいだわ」
 言い放つ私の心は、震える。ここまで言ったら、恵はさすがに傷つくのではないか。
 チラッと表情を盗み見る。何も、変わらない。多分きっと、まだ私の言っていることを理解できていない。
 そして、大丈夫。傷を負ってなんかいない。人を傷つける人は、えてしてこんなものだ。だから、同じことをされても、痛くない。かゆくもない。十回と言ったけれど、私は内心もう会わない気がした。
 今日のように、探されないよう、どこかに引っ越そう。電話番号、メールアドレスも変えて。会社は・・・。幸い詳しいことは話していないし、社名も言っていないから、転職しなくても良いだろう。たとえ、会社のある町を恵が探し回ったとしても、そこはビル街。気づいた時点で、物陰に隠れることもできる。
 この日のために、名刺の一枚も渡していなかったのだ、きっと。
「お姉ちゃんたらぁ」
 恵は、すがりつくような声色で迫ってくる。
「じゃ、お父さんやお母さんの法事はどうするのよ」
 考える前に言葉が出てきた。
「そんなの、恵が一人でやりなさいよ」
 ものすごくきょとんとして、絶句してはいるが、その表情はドライアイスパウダーを振りかけられて固まってしまったようだ。よくスーパーマーケットのレジのそばにあって、アイスクリームを凍ったまま家庭に持ち帰れるように用意されている。アイスクリームの入った袋をボックスに入れて、スタートボタンを押すとシューという派手な音と共に噴出する細かい粉。瞬時に固まった恵の表情は、いつまでもそのまま。
「え・・・・・」
 恵の口からは、言葉が出て来ない。そして、私も何も言わない。もう何も言うことは、ないから。私の気持ちなど、だーれも理解してくれない。私は、恵を残して歩き始める。もう振り向きはしない。何があっても。さよなら。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み