第1話

文字数 1,978文字

「あぁ、あの案件なら、今年は高橋さんにお願いしたんですよ」

 Sは何食わぬ顔で言った。

「そうだったんですね。高橋さんなら安心ですね」

 美沙は平静を装うのが精一杯だった。

 (外された理由をちゃんと訊けばよかった。何か事情があったのかもしれないじゃないか…)
 帰りの電車の中、様々な想いを交錯させながら、どうやらぶつぶつ言葉を口にしていたらしい。隣に座っていたビジネスマンが、ちらりとこちらを見やった。美沙はカバンからイヤホンを取り出す。無理にでも頭を切り替えないとやり切れない。

 美沙がフリーランスの研修講師になって8年になる。中堅の研修会社と業務委託契約を結び、客先へ派遣される。自ら営業もこなし仕事を取ってくる同業者もいるが、美沙は長年共に働いてきたその研修会社から一定量の仕事がもらえた。美沙自身、営業活動に時間を割くよりも、好きな研修に思う存分登壇できるこのスタイルが性に合っていた。はずだった。3年前、営業部長としてSが入社してくるまでは。

 Sは美沙より少し若い40歳位の男性だ。大手の研修会社より引き抜かれたと言う。Sが入社して間もなく、美沙は馴染みの若手の営業より引き合わされた。
「美沙さん、新しく着任した営業部長のSさんです。Sさん、こちらが噂の美沙さんですよ」
「いやぁ、ようやくお目にかかれました。看板講師の美沙さんに早くご挨拶しなければと思っていましたよ。僕はうちの会社の事をまだまだ勉強中なので、美沙さんの目から見て気づかれた事とか、是非色々ご意見を下さい」
 なぜあんなリップサービスを真に受けてしまったんだろう。翌月のあるプロジェクトの後、美沙は講師の評価制度について以前から気になっていた疑問を投げかけた。Sは神妙な顔で「検討してみます」と言った。年度が変わってもその件についてのフィードバックは無かった。雲行きが怪しくなったのはその頃からだ。毎年担当していた大型案件になかなか声がかからず、痺れを切らせて美沙が担当営業に電話した所、そのプロジェクトにはSが加わり、今年のメンバーは既にSが選出した事を知った。「あれ、この件は美沙さんにはSさんが説明するって言ってましたけど、聞いてなかったですか。あと、美沙さんには代わりに別案件を紹介するって…」
 その年の美沙の仕事は前年の7割にまで減った。

 今年は、あの年ほどは悪くない。元々、美沙を指名する客は多く、ベテランの美沙は営業からの信頼も厚い。Sも顔を合わせれば見え透いたお世辞を言い、美沙も適当に合わせる。ただ、これまで美沙が熱意を持って取り組んでいたいくつかの仕事は外され、無難な仕事を振られる事が増えたような気がする。気がする、というのは美沙自身、実はSに悪意はないのではと信じたいからだ。周りの人が美沙の置かれている苦境に気付いてくれることも密かに願ったが、皆、自分の仕事に追われそれどころでは無いらしい。状況は変わらなかった。

 フリーランスになったのは、文字通り「自由」でいたかったからだ。昔から思った事ははっきり言う美沙は、縦横の人間関係に苦労して会社員時代に心底すり減った。実力だけで評価され、一人の専門職として企業と対等に渡りあえる、そんな世界を求めた。実際、Sが来るまでは上手くいっていた。が、結局、また人間関係が壁になった。フリーランスという立場上、その影響は会社員時代よりもむしろ大きかった。

「もう、やってられないよー」
TVのバラエティ番組を観ている夫の雄司の背中に、美沙は今年何度目かの愚痴を吐いた。
「やめちまえよ」
「そんなわけにいかないよ。仕事なくなっちゃうじゃん」
「だってそのSさんがいる限り、見込みないんだろ。だったら、Sのいない所に行くしかないじゃんかよ」
「他へ行っても、またSさんみたいなのがいたらどうすんのよ」
「そりゃ、いるだろうよ。俺らだってどうしたって気が合わない奴はいるよ」
 20年以上会社員をやっている雄司は、言わないだけで、この程度の人間関係のトラブルを何度も経験してきたのかもしれない。雄司の横顔が頼もしく見えた。
「雄くんは、どうするの?こういう時」
「相手が上なら我慢するしか無いよ。ただ、俺の中の、"いつか殺す奴リスト"に載せてやる」
「何それー」
「ちなみにSも、そのリストに入ってるぞ」
 雄司はこっちを向いてニヤリとした。ふいに涙がこぼれ、思わず俯いた美沙の頭を、雄司は学生の頃のように、ぽんぽん、と軽くたたいた。
「大丈夫。みーちゃんはできる子だろ」

 そうだ。乗り越えるしかない。これまでだってそうだった。自分で決めた道だから。対等に渡り合えるなんて、所詮夢なのかもしれないけど。どこへ行ってもあるなら、今ちゃんと向き合わなきゃ。あと、別の仕事先も少しずつ開拓してみるかな。それとも、いっそ…


 美沙の心に、小さな火が灯った。


 おわり










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