第14話

文字数 1,503文字

村上龍が、『希望の国のエクソダス』という本と同じ語り手を採用して、震災後に書いた『オールド・テロリスト』をゆっくりと読み進めていて、『希望の国のエクソダス』でも語られた「日本には何もない」という言葉に立ち止まり、一旦読むのを中断した。

いま、あえて、「日本に何もない」と語れる人がいるだろうか?確かにこの国の先行きはちょっと心配ではある。少子超高齢化、膨らむ国の借金、格差社会。ただ、「なにもない」というのは、そういう事だけでもないような気がするのだ。

ぼくが直感的に思うのは、『無い』のは、「自己コントロールの鋭さ」ではないか、という事だ。社会が豊かになり、守るべきものが増えれば増えるほど、娯楽も増え、娯楽が増えると、必然的に、『自己コントロールの鋭さへの欲求』は一時的に衰退するものだと思う。

けれど、「自己コントロールの鋭さ」は豊かさの達成によっても失われはしない、とぼくは根本的に思うのだが。それらのものは両立が可能だ。むしろ、近代化によって、豊かさの達成によって、自己コントロールへの動機は、ますます高度なものになるに違いない、と思うのだ。

自己コントロールの達成は、ぼくが学生の頃好んで読んでいた作家『コリン・ウィルソン』の主要テーマだ。でもその頃のぼくには、今よりも何もなくて、そのうえ精神病にもなりたてで、実際にやれた『自己コントロール』といえば、人ごみの会場で一人超然と座って、呼吸を整えて、意識がかすかに鋭くなるのを待つというような、孤独な、そしてあまりお金にもなりそうにないものだった。

今日、会社である事があって、ぼくは自己コントロールを失いそうになり、その時、自己コントロールや呼吸のことを思い出すのではなく、『食べる』という方法で何とか自分を保ったのだった。そんな自分を、村上龍の『希望の国のエクソダス』のなかの「日本には何もない」という言葉で突かれたように感じ、一旦本を置いたのだ。

いまぼくは精神科に通い、話の通じる先生から、頓服の良く効く抗鬱剤も処方していただき、『そういうこと』で自己コントロールがたやすくなっていると思う。けれど「呼吸」や「自己意識の鋭さが回復してくるのを待つ」といったロートルな方法について、もっと先生と話し合ってみたいと思う。大した方法じゃないし、大して手間のかかる方法でもない。それに頓服の抗鬱剤と比べて、どれだけ効果があるかもわからない。

けれど、『外部』にではなく『内部』に、コントロールの契機を持つという事は、『進化の現段階において(コリン・ウィルソンの言葉)』結構なアドバンテージになるような気がしている。

精神病になりたての頃、または前駆期のころ、ぼくは孤立した、仕事も勉強も何もない状態での『自己コントロール』を試みていた。その試みは結局失敗に終わったのだと思う。なぜ失敗に終わったのかと言えば、ぼく自身が結局豊かにはなれず、危うく失敗者に終わるところだったからだ。精神病を直すことも出来ず、人生の落伍者として生を終えるところであった。

だが、自己コントロールの試み自体がそれで無意味になったわけではない。むしろ、社会の中で責任が増していくにつれて、自己コントロールの必要度と重要度は加速度的に増していくものだ。

薬。それも有用であり、大切だ。しかし、にんげんが自らの精神を制御するのは、薬によるのだけではない。欲望によるのだけでもない。豊かさによるのだけでもない。それらに邪魔されながらやるのでもない。それらと共に、それらの為にも、自己のふるまい、そしてその奥の精神状態をコントロールする必要性と可能性とがあるのだ。

ぼくは今日、そのことを少し考えた。
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