第二章・第二話 『公』と『個』
文字数 5,830文字
翌朝、藤に身支度をさせつつ朝食を
茶碗を持った手がピクリと震える。次いで
今朝、普通に起きた彼は、今は昨日と同じように、重ねた布団を背に当て、起き上がって松本医師の治療を受けていた。家茂の整いまくった容貌が、忌々しげに歪んでいるのは、決して治療による傷の痛みの所為ではないだろう。
「その一人が亡くなってるかどうかは――」
「亡くなった内の一人です」
邦子の素早い回答に、和宮は唇を噛んだ。
「……生き残って牢にいる一人はどうしてる?」
包帯を換え終わった家茂は、
「
加えて、和宮個人が夜中にも思ったことだが、こちらの戦力となる味方が、今は少な過ぎる。つまり、手が足りない状況だ。
和宮は、噛み締めていた唇を
最後に、湯飲みから冷めた茶をグイと呷りる。そして、タン! と音を立てて膳の上へ置き、立ち上がった。
「宮様?」
「どこ行くんだ」
邦子と家茂に同時に訊かれ、和宮は「座敷牢」と端的に答えた。
「今から尋問するのか」
「そうじゃないけど……」
和宮は言い淀んだ。別段、言い辛いから言葉を濁したわけではない。
「……何か、嫌な予感がするの」
「嫌な予感?」
言いたいことが上手く纏まらず、抽象的過ぎる言い回しになったが、家茂はただ
「とにかく行くわ」
昨日と同じく、小袖に
***
座敷牢と言っても、普段からその為の空間は
その意を込めて邦子を振り返るが、彼女は若干
和宮もまた無言で、残り数歩を進むと、
「――滝山!?」
名を呼んだ人物――滝山は、瞠目して和宮を振り
(――まさか)
和宮の後ろに続いていた邦子は、スルリと和宮の脇をすり抜け、滝山をほとんど突き飛ばすようにして、倒れた女性に駆け寄った。
鼻の先に指を当て、次いで首筋と手首に手を当てたのちに、和宮を見上げて首を横へ振る。
「……
唇を瞬時噛み締めたあと、滑り出た声音は、自分でも聞いたことがないほどに低かった。
「待ちなさい!」
和宮は、これまた自分でも驚くほど機敏に、襖をピシャリと閉じた。
「あんたが殺したのね」
滝山を睨め上げ、単刀直入に切り込む。しかし、滝山は
「さて、何のことやら……わたくしが参った折には、すでに事切れておりました」
「どうして
間髪入れずに指摘するが、滝山はピクリとごく小さく眉尻を動かしただけだ。
「倒れて動きませんでしたゆえ」
「揺すっても起きなかった?」
「はい」
「てゆーか、目ぇ見開いてるじゃない。おかしいと思わなかったの?」
やっと滝山が沈黙した。そうして、一瞬左右へ目を泳がせる。
「……まあ」
「だったら、すぐにお匙を呼ぶべきでしょ。お
またも返る沈黙に、和宮は容赦なく踏み込んだ。
「今なら、上様に付き切りの松本がすぐそばにいるのに、どうしてすぐに取って返さなかったの?」
「……そうする前に、宮様方が」
「なら、部屋の前に見張りがいなかったのは何で?」
「……お匙を呼びに行かせましたゆえ」
「嘘
「別な道を通って私室へ戻ったのでしょう」
「……へぇ?」
和宮は、うっすらと微笑した。
「……何でしょうか」
「ううん、別に。邦姉様」
滝山に視線を据えたまま、邦子に声を掛ける。
「はい、宮様」
「今の、聞いた?」
「はい、しっかりと」
「……何の話でしょうか」
「今と同じこと、上様の
滝山は、不安げに眉根を曇らせたが、「はあ」と曖昧な返答をした。
「じゃ、一緒に来て」
「いえ、わたくしは……」
「すぐに言えないの? っていうか、もうじき総触れの時刻でしょう?」
すると、彼女は一瞬ハッとした顔付きになり、すぐに元の無表情に戻る。
「……しかし、上様は」
「上様がお出ましにならなくとも、今日はあたしが皆に用があるの。邦姉様」
和宮は、やはり滝山から目を外すことなく、再度邦子に呼び掛けた。
「はい、宮様」
「悪いけど、邦姉様はその前に松本をこちらへお呼びして。松本には検屍をお願いしたい
「宮様」
「
滝山にそれ以上続ける隙を与えず、邦子は典雅に一礼すると、部屋を出て行った。
***
総触れには、傷の具合からしても、まだ家茂は来られないと思っていた。しかし、邦子が松本に検屍を頼んでいる時、その場にいたらしい(というより、松本のほうがまだ家茂の傍を辞していなかったと言ったほうが正しいようだが)。
徳川宗家の位牌の
唇の形だけで『よ』と言い、和宮に不敵な笑みを投げ掛ける
そっと吐息を漏らし、和宮は上段にいる家茂の右隣へ腰を落ち着ける。滝山を先頭にした女中たちが座り、一通りの挨拶が済むと、いつぞやと同じように滝山は何事もなかったかのように立ち上がろうとした。
「待て」
それを制したのは、家茂のほうだった。
「座れ、滝山。そなたは余がよいと言うまで、この場を去ることは許さぬ」
余所行きの言葉遣いで、有無を言わせない口調に、滝山はわずかに顔を曇らせたが、無言で顎を引いてその場へ座り直す。
それを見届けると、家茂は和宮に流し目をくれた。和宮は、小さく頷き返して立ち上がり、口を
「滝山のみならず、この場にいる皆に、今少し
居並ぶ女中たちは、型通りに頭を下げていながら、隣同士の者で互いに顔を見合わせ、さわさわと囁き合っていた。その囁きが、
「加えて、火之番合計五名がその夜の内に、残る一名も今朝方命を落とした。彼女らの死因は、一昨日の晩に奥へ侵入した
小波だったざわめきが、大きくなって室内に満ちた。伏せた顔の中で、滝山も大きく目を見開く。
「さて、そこで残った一人が亡くなった場にいた滝山に、今一度訊ねたい。
「宮様」
「答えよ。真実以外の回答は、この場では口にすることを禁ずる」
滝山は、自身の背後に居並ぶ女中たちにチラと目を向け、目線を前に戻しては悔しげに唇を噛んでいた。
「滝山。
家茂が、
「よもや、余の
滝山は、更に顔中を歪めたが、やがて唇を解いて、吐息と共に言った。
「……先刻、宮様にお答えした通りにございます」
「わたくしと桃の井が、亡くなった者のいる部屋に着いた際、見張りの火之番がいなかった。
「ですから、お匙を呼びに行かせました」
「わたくしたちは行き合わなかったが?」
「宮様たちとは行き合わぬ道で、私室へ戻ったのでしょう」
途端、室内が息を呑んだように静まり返る。滝山は、不安げに眉根を寄せた。
「……上様。今の滝山の答えを、お聞きになりましたか」
「ああ、聞いた。妙だな」
「……と
「妙ではないか。そなたは、先には『火之番に
いつも無表情の滝山の顔に、この時初めてありありと『しまった』と書かれているのが見て取れた。
膝の上で握った拳をわなわなと震わせる滝山に、和宮は悠然と近付き、滝山の前へ膝を突く。
「では、もう一度訊こう。滝山。そなた、あの部屋で何をしていた?
「……ですから……」
彼女は、ゴクリと喉を鳴らした。左右へ目を泳がせ、その目を一度閉じる。数瞬の
「あの者は、すでに死んでおりました。わたくしがあの部屋に行きました折には、すでに……」
「ちなみに、滝山殿があの部屋へ行かれたのは、いつのことですかな」
不意に、これまでこの場にいなかった者――男の声が、下座から飛んで来た。目を上げると、邦子に先導された松本が共に部屋に入ったところだった。
邦子は下の下に腰を下ろし、松本もそれに倣う。
「……続けろ、松本。それはどういう意味だ」
家茂が
「先ほど、御台様のご下命により、亡くなった火之番の検屍を
それまでで最大のざわめきが、室内を
「毒物の特定は」
「これからです。ご遺体が、毒物を包んでいたと思しき紙を握っておりましたゆえ」
「バカな!」
思わずと言った様子で叫んだ滝山は、ガバリと立ち上がった。
「遺体は
「
和宮は、彼女に続いて立ち上がりながら問う。
すると滝山は、ビクリと身体を震わせた。握り込んだ拳を、またもブルブルと小刻みに揺らせたかと思うと、自らの懐へ手を入れる。素早く引っ張り出し、拳の中に握り込んでいたそれを口へ入れようとするのを、和宮は思い切り
「あっ!」
滝山の手から薄紙が飛んで、ヒラリと床へ落ちる。
彼女が慌ててそれに飛び付くより早く、和宮はそれを拾って握り込んだ。
「宮様!」
「どうして皆そう、死に急ぎたがるの!?」
「別にわたくしは死のうなどとは」
「この紙は毒薬を包んでたものでしょ!? 飲み込んで、無事でいられる保証なんてないじゃない!!」
滝山は、ギュッと唇を噛み締め、顔全体を縮めるように歪めた。が、答えはない。
「そんなに幕府の権威が大事? 自分の命と引き換えにできるほど重いものなの!?」
「……そうです、と答えたら、いかがされます」
ふっと短く息を
「ああ、そう。いいわ。百歩譲って、あんたには命と引き換えてもいいものかも知れない。でも、ほかの女中にも同じとは限らないでしょ!? あんたの価値観を他人に押し付けて、その理屈で人まで殺して、許されるとでも思ってるの!?」
畳み掛けるように問うと、滝山はカッと目を見開いた。
「大奥へ勤めた以上、皆その覚悟があります! 幕府の犠牲になるのであれば、わたくしのみならず、ここにいる者、そしてここにいないお目見え以下の皆が本望! 皇室で育たれた、甘っちょろいお考えのオヒメサマは、我らの覚悟への口出しは無用に願います!!」
「ふざけないで! それはあんた個人の考えだって言ってるのよ! あんた個人が
「左様です!!」
「だったら今すぐ出てって!!」
「はい!?」
和宮は、真っ直ぐに腕を上げ、下座に開いている出入り口を示した。
「今何と?」
「出てってって言ったの。たかが御年寄りの一人のくせに、御台所気取りなんて、ちゃんちゃら
「別にわたくしは、御台所気取りなどと」
「だって、そのつもりなんでしょ? 今、言ったわよね。あんたの意思が大奥の総意だって」
自身の口走ったことを脳裏で
「でも、
続け掛け、和宮は、一度唇を閉じる。軽く深呼吸して、改めて口を
「――……わたくしは、名実共に徳川第十四代将軍の正室であり、当代御台所です。そなたが認めなかろうと、たとえ政略上のものであろうと、実質、当代上様を始め、幕閣にも朝廷にも、兄帝にもそのことは周知され、認められている。更に言うなら、
滝山は、眉根を寄せ、伏せた瞼の下で目線を泳がせる。それから悔しげに曲げた唇を渋々動かした。
「……いいえ。滅相もないことです」
さすがに、現・御台所の前で
「そう。よいでしょう。今なら特別に許します。すべて撤回し、白状なさい。さすれば、此度だけは不問に付しましょう」
©️神蔵 眞吹2024.