第3話 稲井と高瀬雅哉

文字数 1,959文字

 稲井が乗務を終えて局に戻ると、夕方近くになっていた。乗務員室と書かれた扉を静かに開ける。男ばかりが詰めている部屋から、湿気を含んだ熱気が顔にまとわりつく。局の建物は古い木造建築で、この時期はいたるところで吹く隙間風と一緒に雪が舞いこみ吹き溜まりができる。それは老朽化した建物内の寒さをいっそう引き立てるのに一役買った。
  それにしても、乗務員室は暖房をきかせ過ぎている、と稲井は常々思っていた。今も部屋の中央には、誰かが持ってきた旧式の石油ストーブが、集中暖房だけでは足りないと言わんばかりに勢いよく燃えている。その熱は部屋の中にいる男たちを上気させ、彼らの体や頭皮から、汗や皮脂のにおいを立ち上らせていた。
  稲井はワイシャツの襟まわりに、じとっと汗がにじむのを感じて、苛立ちまぎれに扉を勢いよく閉めた。その音に気がついた数名の同僚が顔をこちらに向ける。挨拶もせずにロッカールームへ向かおうとする稲井を呼び止める声がした。
  高瀬雅哉が書類に目を落としたままで片手をあげている。彼の机には、室長と記されたデスクプレートが置かれており、それはいつものように稲井を苛立たせた。
「なにか?」声と表情に不快感を露わにして稲井は答えた。
  高瀬は書類を机に置いてから顔を上げると、「お疲れのところ悪いな」と、稲井の態度には全く触れずに言った。
  高瀬の顔は雪焼けで浅黒い。ただ目の周りだけは、ゴーグルの形に白抜きになっていて、配色は逆だがパンダを連想させた。数年間、スキーをしていなかった高瀬が、今シーズンはよく行っているらしい、と同僚から聞いている。
 そういえばスキーが趣味だった妻の綾子も、付き合い出した頃は冬になるとこんな顔になっていた。あの頃はそのことをよく茶化したものだ。
「お前の四日前の乗務について苦情がきた」
  業務と関係のないことを考えていたせいで、高瀬の言葉が頭に入ってくるまでに時間がかかった。
「お前にというより、そのときの乗客についてなんだがな」
  稲井はピンとくるものがあった。手のひらが一気に汗ばむ。
「どの客のことか、見当がついたって顔だな」
「あの高校生たちですか」
  高瀬は頷いた。
「そのとおりだ。彼らと乗り合わせたご婦人から、乗務員が彼らを静かにさせないのが悪いというご指摘だ」
  問題になっているのは、夕方に駅前から乗り込んでくる男子高校生たちのことである。
 大声を出したり床に座ったりと、他の客の迷惑を顧みない態度で、局全体に注意が促されていた。しかも下校のためではなく、迷惑行為をするために乗り込んでくるのである。
  さらに厄介なのは、その中の一人が地元で力を持っている人物の息子のため、小さな町にありがちなしがらみのせいで、面と向かって注意できないということであった。
  高瀬がこめかみの辺りを人差し指でかき始めた。彼が本心を隠して話すときのくせだということを稲井は知っている。
「あいつらのことは扱いが難しいが、客を上手に扱うのも乗務員の務めだしな。注意をしているパフォーマンスでもいいんだ。なんとかうまくやってくれ」
  稲井は何も言わずに高瀬を見ていた。自分にとって運転技術の向上こそが、この仕事の全てだ。客の扱いなど乗務員の務めではない。客が他の客をどう思ったかなど心底どうでもいい。彼らで好きなようにすればいい話だ。
 パフォーマンスという言葉も気に入らない。パフォーマンスとコネだけで昇進してきたような男に指図されるいわれはない。これ以上問題が大きくなれば、室長である彼が矢面に立たされるかもしれず、その立場も危うくなることだろう。そのときに、自分は確かに指導をしていた、という事実がほしいだけなのだ。稲井には高瀬が述べたこと全てが、保身のためのパフォーマンスとしか思えなかった。
 そんなことを思い巡らしている内に、だんだん呼吸が浅くしかできなくなっていた。胸がしめつけられるような感じがする。ここ数日、こうなることが多かったが、太り過ぎとストレスのせいだと決め込んでいた。同僚に知られると厄介なので、この症状が出たときは気づかれないように気をつけている。特に高瀬には知られたくない。それで稲井は口早に、「わかりました」と言ってこの場を立ち去ろうとした。すると高瀬が言った。
「お前も、綾ちゃんのことが気がかりで大変だろうけどな」
  稲井は何かに弾かれたように振り返って高瀬を見た。彼は今もこめかみをかいている。その芝居がかった哀れみの眼差しに反吐が出る思いがした。そして一応上司であるがゆえに自分の状況を伝えたことを後悔した。稲井は、お前にだけは同情されたくない、と心の中で吐き捨て、胸を軽く押さえながらロッカー室へと向かった。
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