第五章 古い母親と新しい母親

文字数 7,622文字

第五章 古い母親と新しい母親

数分後、水穂が目を覚ましたため、杉三たちはこれにて一見落着とし、一先ず帰るかと言った。蘭のほうは、まだ帰りたくないようだったが、晴は、もう青柳先生や水穂さんに迷惑はかけないようにしようと言った。もう、製鉄所の晩御飯の時間が近いのに気が付いた蘭は、美千恵に助けてもらいながら車いすに乗り込んだ。全員美千恵の車で製鉄所を後にした。

「それにしてもお前、よっぽど逼迫したんじゃないか?水穂さんが眠っている間、ずっと泣きっぱなしで何にも言わなかった。」

「逼迫どころか、もう怖くてしょうがなかったよ。あいつが逝っちゃったら、間違いなく責任とらなきゃいけないんだから。申し訳なくてたまんなかった。」

蘭は杉三にそう言われて、初めて口を開いた。

「疲れてない?」

晴がそっと聞くと、蘭はうるさい、と一蹴した。なので晴もそれ以上聞くのはやめにした。

「僕、観音講にでも行こうかな。なんだか今回の事件で、久しぶりに庵主様の話が聞きたくなった。」

観音講とは、尼寺で週に一回行われる座談会である。主に、自死遺族の人が集まる場所とされているが、時には医師や看護師が来訪することもあった。

「いいじゃない。また送ってあげるから、行ってきなさいな。」

杉三の発言に美千恵もそう加担した。晴は内心、そういうところに集まる人は、ある意味カルト集団にでも敬服してしまいそうな弱い人と軽蔑していたし、蘭にもそう教えてきた。でも、今回ばかりは、そういう場所があったほうがいいな、と考え直した。

「あんたも行って来たら。」

「へ?」

蘭も、自分の母親がそういう信条であることは知っていたから、口に出すことはしなかったが、母がいきなりそういったため、一瞬ぽかんとしてしまった。

「私は、あんまりそういう知識ないけど、あんたがもし知識がほしいなら、行ってきていいわよ。」

「そうなの?」

「だって、あんたとは違うんだし。」

そういうきつい言い方しかできないのが晴であると蘭も知っていた。なので、蘭もそれ以上は聞かず、

「ありがとう。」

と、だけ言った。

「晴さんは、今日はお泊りしていく?」

不意に美千恵が聞いた。

「ああ、沼袋がどこか手配してくれると思います。」

晴は、計画通りの事を言ったが、

「どうせなら、うちに空き部屋あるから、泊っていけば?たぶん、広いから、布団二枚敷けると思うわよ。」

美千恵はさらりと言った。確かに杉三の家の空き部屋は、大人二人が入っても大丈夫な広さだった。

「あ、それとも、部屋は別のほうがいい?」

「ええ、できればそのほうがね、、、。」

晴はやや渋った。確かに、側近と枕を並べるのは嫌かもしれなかった。

「だったらいいことがある。蘭の母ちゃんにはうちへ泊まってもらって、沼袋さんに蘭の家に泊まってもらえ。そうすれば、気兼ねなく過ごせるんじゃないの。」

杉三が口をはさむ。一瞬ぼけっとするが、ある意味これは名案だった。

「いいわね。それ。じゃあそうしようか。」

「沼袋さんには僕が言っておくよ。」

蘭は、急いでスマートフォンをとった。それを見て、晴は改めて蘭が変わったことに驚いた。

とりあえず、杉三の家の前に到着して、まず美千恵は杉三と蘭を手早くおろす。同時に沼袋さんが、照れくさそうにやってきた。蘭が事情を話して、沼袋さんを家の中へ招き入れる。それを見届けた晴は、美千恵に促される形で杉三の家に入った。家に入ると、杉三はお約束の通り、カレー作りに取り掛かる。ルーの判別はできないが、同じ味のカレーを食べさせられる心配はないと、美千恵は笑っていた。

「すごいわね。杉三さんは。」

「まあ、どこかで覚えてきちゃったのよ。あたしが教えてきたことはほとんどないもの。」

二人がテーブルに座ると、独特のにおいがした。たぶん、パクチーの匂いだった。

「初めて食べたカレーとはまた違う料理みたいだわ。一体何種類のカレーを知っているの?」

「多分勘定はできないんじゃないかしらね。足し算さえもできないからね。」

「そうなの?学校には行かなかったの?」

「まあね。あまりにも嫌がってたから、辞めたほうがいいと思ったの。そのほうが、かえって世渡り上手になるものなのよ。嫌なところにずっといて、変な病気にでもなるより、ずっといいでしょ。教育は必要なのかもしれないけど、体を壊してずっと介護が必要になるとかなったら、何も面白くないでしょうからね。」

「でも、一通り勉強はしておいたほうが。」

「どうかしら。勉強をさせてもそれが効力を発揮する人は果たしてどれくらいかわからないし、日本の教育制度では、勉強というより、学校生活で傷ついたことのほうが印象にのこるようになっているからね。そういう事なら、わざわざ行かせるのもどうかなと思うけどな。学校に行かせるだけじゃなく、何か学問させるってやってほしいと思っても、本人が気に入ってくれないと、何も効力は発揮しないわよ。」

「そうねえ、、、。」

晴も少し考えたが、もしかしたらそうかなと思った。

「すごいわ。影山さんって、エジソンのお母さんみたいよ。」

「偉い人と一緒にしないで頂戴よ。偉くなったらかえって悪くなるから、人間としておしまいでしょ。」

これぞ美千恵の決め台詞である。

「偉くなると、悪くなるか。あたしも、知らないうちに悪くなっているのかな。」

「まあ、その疑問符をいつまでも持ち続けていれば大丈夫。それを忘れてあたしは完全に善人なのだと宣言しちゃうほうがだめ。」

「そうね。ちょっと前までだったら、あたしもそうだったかもしれない。でも、今は考えをかえようと思う。」

「変えようじゃなくて、誓いの言葉として、頭の中に叩き込んでおくくらいの気持ちで生きて行かないと、経営者とは言えないわよ。」

「はい、私も、お天道様にかけて誓うわ。あたし、影山さんたちみたいに、特定の宗教とか信仰に対して、あんまり熱心にやってこなかったから、誓いを立てる相手もいないけど。」

「まあね、人間はさほど強い物ではないし、何をやっても完璧にできるはずがないのに、あたかもそうなるように見ちゃうものだから、それを抑えるために宗教を作ったと青柳先生は言ってたわよ。今のひとは、そこを忘れつつあるけれど、原住民はまだまだ厳格にそれを守り続けているみたいね。先生は、宗教観を原住民に追及されて、非常に困ったみたいよ。」

「そうねえ。先生がそういうこと言うんだから、見習わなきゃいけないわね。これを機に、あたしも少し、仏法でも習ってみようかな。でも、今は、会社が忙しすぎて、定期的にこっちに来るとなると、ちょっと難しいことも確かだし、、、。」

「まあ、講義を受けに来るのが難しいようなら、仏法の入門書でも買って読んでみるとかしてもいいかもね。」

二人が、そんな事を話していると、目の前にでんとカレーの皿が置かれた。

「できた出来た。今日はちょっと変わったグリーンカレー。」

杉三のカレーが完成したのである。

「仏法の話はまた後にして、とりあえず食べてくれ。」

「わかったわよ、杉三さん。うちの蘭がうまいと言ってたけど、本当にそうだもの。」

晴は、渡された匙をとった。

「杉三さんではなく杉ちゃんと呼んでくれ。杉ちゃんと。どうも、その言い方は嫌いだよ。称号で呼ばれるのも嫌いだが、名字で呼ばれるのも大嫌いだからな。」

杉三がそういうと、晴もニコッと笑って、

「そうね。私も杉ちゃんと呼ぼう。」

と、言った。

「じゃあ、杉ちゃんいただこうかな。」

「はいはい、遠慮なく食べて。」

「いただきます。」

合掌して、丁重に一礼して、カレーを食べ始める晴であるが、もし、この光景を蘭や沼袋さんが見たらどうなるだろう。もしかしたら沼袋さん、涙を出して泣いてしまうかもしれない。

「へくちょい!」

インスタントラーメンを食べながら、沼袋さんが大きなくしゃみをした。

「大丈夫ですか、沼袋さん。風邪でも引いたのでは?」

蘭が思わず言うと、

「すみません。久しぶりに坊ちゃんと食事をしたので、感激してしまいました。」

鼻水を拭きながら沼袋さんは答える。

「まあ、そうかもしれませんね。僕が家を出て、30年以上経ってますからね。それにしても、そんなに長い間、母の運転手を勤め上げてくださって、ありがとうございます。」

蘭は素直に礼を言った。

「いやいや、社長がほかに運転手を探さなかったからですよ。と、いうより、誰も運転手になりたがるものもいませんでしたからな。」

「まさしく。あの横暴な母の下で働くのは相当覚悟が要りますからね。結構やめて行った職人さんも多かったですし。母はやめた職人さんたちと絶えず連絡を取っていて、さも、自分は面倒見がよいと自慢していましたが、それはある意味、彼らを支配していたのかもしれないと水穂から指摘されておりました。あれはいじめだと母も秋山先生も言いましたけど、僕は今では真実ではないかなと思っているんです。」

「坊ちゃんも成長してくれましたな。実は私もそう思っていました。クラス会の時でもそうだったけど、社長が勝手に坊ちゃんがいじめられているとまくし立てて、自動的に右城さんが悪人となってしまったじゃないですか。私はね、右城さんって、そんなに悪い人なのかといつも疑問に思っていましたよ。確かに、誰から見ても綺麗な人で、うらやましいくらいの人でしたけど、毎日毎日ピアノに向かって、指がつぶれるまで練習をするほど、まじめな人でしたからねえ。」

「はい、ある意味、僕よりもすごい人だったと思います。青柳教授が、階級が上になればなるほど、人間は劣化すると話してくれたことがあったけど、うちの母もそうだったのではないでしょうか。」

「そうかもしれませんね。まあ、社長がそれに気が付くのは、いつのことになるのでしょうか。しかし坊ちゃんはある意味ではよかったかもしれませんよ。坊ちゃんがドイツに行っている間、社長ときたら、ひどい発言の連発で、運転手の私もつらくてたまらなかったことはざらにありましたから。それを全部目撃したら、感性の良い坊ちゃんは耐えられなかったのではないでしょうか。まあ、確かに、会社を維持させるためには仕方なかったのかもしれませんが、、、。」

「はい。僕は母が水穂の家を破産寸前まで追いつめて、結局彼自身をも大病させるまで陥れてしまっただけでも、衝撃的すぎて、正直、謝罪をしてもしきれません。母にとっては、彼がああなることは、きっと復讐を完遂させることなんだと思うんですけど、僕は申し訳なくて、たまらなかったですよ。」

思わず、本音が出てしまう蘭だったが、沼袋さんは年上らしく、こう助言してくれた。

「坊ちゃん、気が付いたんですから、それでよかったことにしてください。きっと社長が気が付くことはたぶんないと思いますから。そして、右城さんは、おそらく回復する見込みもないでしょうから、あとのわずかな人生を、安楽に過ごせてあげられるように努めてください。」

「わかりました。沼袋さん。僕も、聞いていただいて少し楽になりました。もう、これから気を付けます。」

沼袋さんのアドバイスで、蘭もある程度覚悟が決まった。

「まあ、せっかく、坊ちゃんのお宅に来させてもらったわけですから、暗い話はここまでにしておきましょう。早くしないと、ラーメン伸びちゃいますよ。」

「はい、わかりました。」

二人は、にこやかに笑って食事を再開した。こういう、すぐに切り替えができるのも、男の特権なのかもしれなかった。

杉三たちもカレーを食べ終わったが、女のおしゃべりは終わってからでも長く続く。特に杉三の家はテレビがないので、娯楽と言えばおしゃべりに花をさかせるしかなかった。男であれば、黙りこくってしまうが、女にはネタ切れというものはない。

「そういえば、明日は観音講の開催日だったねえ。」

食器を洗いながら、杉三が言った。

「全く、そういう事だけは覚えてるのね。そうよ、明日開催される予定。」

美千恵がそう返答した。

「蘭も、一緒にいくのかな。と、いうか、蘭は知らないのか。じゃ、ちょっと蘭の家に電話してくれよ。」

「わかったわよ。たぶんきっと、行きたがるわよ。二人そろって、行ってきなさい。蘭さん、仏法の事なんて全くわからないと思うから、あんた、時折教えてあげなさいね。」

「おう、任せとけ。たぶん、三界から教えて行かないとだめだよね。」

「もっと基本的なところから教えてやらなきゃだめよ。あ、そうだ。もしよければ、晴さんも参加してみる?」

そんな事を美千恵が提案してくれた。本当は行きたいと思ったが、それより先にしなければならないことがあった。

「そうしてみたいのだけど、どうしても行かなきゃならない場所があって。」

「じゃあ、用が終わったら、寺に寄ってみれば?入退場は自由だから、いつ入ってもいいし、いつ出てもいいことになっているのよ。」

「そうね。でも、今回は蘭と杉ちゃんで行ってきてほしい。あたしは、なんかそういう神聖な場所に行くのには、まだ穢れすぎというか、やるべきことをやってからというような気がする。」

「ははあ、なるほど。そこまではどうやって行くんだ?」

「あ、沼袋に送ってもらうから。」

「なんだか沼袋沼袋ってうるさくないか?それなら、タクシーで行ったほうがいいよ。そういう事こそ、穢れをとることにつながると思うけどね。」

結構きついセリフだが、今の晴にとっては最も必要なことかもしれなかった。

「わかったわ。じゃあ、そうさせてもらう。」

「よし、一歩前進!」

階級も経済力も関係なく、何でも言ってしまうのが杉三なので、本人は何も悪びれた様子もないのだが、もしかしたらムカッときてもおかしくないやり取りであった。

翌日。指定時間になって杉三が蘭を迎えに行き、二人連れだってタクシーに乗って、観音講が開催される尼寺まで出かけて行った。それを見届けると晴は、美千恵に何とかして手伝ってもらいながらも、生まれて初めて自分でタクシーを呼ぶという行為を行った。タクシーがやってくるのに、迅速に行動してくれる沼袋さんと比べると、ずいぶん時間がかかったため、少し苛立ってしまう晴だったが、何とか文句を言わないでタクシーに乗り込んだ。

とりあえずどこまでと聞かれると、晴は製鉄所までと答えた。製鉄所というと複数あるがどこにある製鉄所かと聞かれて、思わず困ってしまったが、玄関の門に青柳という表札とたたらせいてつと書かれた貼り紙がしてあるところと説明して、やっと大渕の青柳さんのところかと理解してもらえた。

しばらく走ってもらって、どうにか製鉄所にたどり着いた。正門の前でおろしてもらい、呼び鈴もないので、勝手に敷地内に入って、玄関の戸を叩く。

「ごめんください。」

「ハイ、何でしょう。」

戸が開いて、返答にやってきたのは懍だった。

「あ、先生。突然押しかけてきてしまって申し訳ありません。あの、右城さん、ではなくて、水穂さんはどうしていらっしゃいますでしょうか?」

「水穂なら、布団で寝てますけど。」

「先生、お会いさせてもらうわけにはいかないでしょうか。」

「無理ですね。立たせるのはまだ避けたいので。」

「五分だけでも。」

「まあ、、、そうですねえ。こちらにはひんぱんに来られないでしょうから、本当に手短にすませてくださいね。それさえ守っていただければ。」

懍は、仕方なく彼女を建物の中に通した。

「水穂さん起きれます?伊能さんがまた来ているんです。少しだけでいいですから、顔を出してあげてくれませんか?」

ふすまの向こう側で布団を動かす音がして、どうぞ、とほそい声がした。

「じゃあ、僕は書類を書かないといけませんので失礼しますが、本当に手短にしてくださいよ。」

そういって懍は応接室に戻っていった。手短にとは言ったが、晴が何をしにやってきたのか読めているような節があった。

「水穂さんごめんなさい。」

挨拶も一切忘れて、晴はふすまを開けてしまった。水穂は布団の上に座ってくれてはいたけれど、痛々しい風情でなんだかかわいそうな気がしてしまうほどであった。

「横になってくださっていてもよかったのに。」

「そんな無礼なことはできませんよ。身分も何も違うでしょう。」

「もうそんなこと。」

「いや、無理なものは無理です。一度決着がついていることですから、今更変えることなんて、できはしないでしょうに。」

こういわれて、改めてひどいことをしてしまったなと思った。

「あんな風にまくしたてられたら、誰だって僕が悪人だと思うでしょうし、学校だってほとんどが事なかれ主義ですから、それ以上真実がどうのなんて、追及はしないでしょう。それだって、蘭さんをドイツまで避難させた理由のひとつですよね。」

口調こそ弱弱しいが、核心をついていた。もう、そのことを知られてしまっている以上、いくら謝ってもだめだとわかった。

「せめて、これだけでも持って行ってくれませんか。治療費にでもしてください。」

晴は財布を取り出して一枚の小切手を差し出す。書かれた金額は、一般的に言ったらものすごい額なのだが、水穂は受け取ろうとしなかった。

「いりませんよ。こんなものもらっても保管しておく場所がありませんので。」

「でも、銀行に預けるとかすれば。」

と、言いかけて、彼がそこまで行く事はできないことに気が付く。

「じゃあ、畳でも張り替えましょうか?うちで取引している、腕のいい職人を知っていますから、今呼び出して、」

「だから、むりですよ。しばらく動いてはいけないと言われたばかりだし。畳をはがされたら、布団を敷くところが。」

水穂は、そう言ってまた少しばかりせき込んでしまう。晴も、自分ができることはもうないんだと知った。

「何かお詫びしたいなと思って来させてもらったんですけれども、遅すぎましたね。」

咳に邪魔されて、返事はなかった。こうなると晴は、自分にできることと言えば、直ちにここから立ち去ることだと理解した。

「本当にごめんなさい。」

静かに言い残して、ふすまを閉めた。

仕方なく、帰り支度をして、青柳先生に挨拶しようと、応接室へ向かう廊下を歩き始めたその時である。ちょうど、自分と反対方向から、一人の女性が掃除用のはたきを持ってやってきた。
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