-cuna-

文字数 22,130文字

カーテンの間から細く差し込む薄明かりが目に眩しい。…俺は、小さくうめいて目を開けた。
すぐに、天井の木目が目に入る。代わり映えのしない、いつもと同じ朝だ。――できることなら、もっと寝ていたいのだが。

「諒くん、早くごはん食べないと遅刻しちゃうよ~」
階下から、間延びした姉の声が聞こえてくる。

「うーん…」
到底返事とは言えないうめき声が漏れた。再び眠りに落ちないようにまずはカーテンを開け、懸命に目をこする。
どうにか起き上がると、思わず欠伸が漏れた。

「諒く~ん」
「今行く…」
尚も階下から俺を呼ぶ姉の声がする。
姉なりに俺を急かしているつもりなのだろうが、おっとりとした言い方のせいか、却って気が抜けてしまうような気がする。――起こしてもらっておきながら、思うことではないのだが。

立ち上がり、洗面台へと向かう。
欠伸を噛み殺しながら、おぼつかない足取りで階段を下りていき、どうにか転ばずに洗面所へとたどり着いた。

まだぼんやりとする頭をどうにかはっきりさせようと、蛇口をひねって出てきた冷水で、思い切って顔を洗った。
手探りで蛇口を閉め、タオルを手に取る。柔軟剤の香りが、やわらかく鼻をくすぐった。

ようやく脳が動き始めるのを感じる。
ほっと息をつき、タオルを元通りにかけて、鏡の前で目を瞬いた。

「…ん?」
あたまのうえに、さんかくが、のっている。――ふたつも。
睡眠不足でローギア状態の頭が最初に思ったのは、それだった。

え、何だこれ。――ちょっと待て。
よく見たらもふもふしてるぞ。え、何だこれ。マジか。

「………は?」
未だ事態をよくのみ込めないまま、頭の上に生えた三角形に、おそるおそる手を伸ばした。ふわっ、とやわらかい手触りとともに、くすぐったいような感覚が伝わってくる。――俺の頭の上から。

「…っ、えええええええ!?」
俺の頭から変な耳が生えている!? その事実は、起き抜けの頭には少々強烈すぎた。冗談だろとばかりに耳を引っ張ると、今度は強い痛みに襲われた。
「痛ってぇぇえ!!」

俺の騒ぐ声に何事かと思ったのか、どたどたと辺りが騒がしくなった。――もしかすると俺を呼んだりもしていたのかもしれないが、それどころではなかった俺は、全く気づかなかった。

…ただ、気づいた時には手遅れだった。
「!? 諒くん、どうしたのそのお耳!!」

洗面台の鏡は、異常な事態を隠すことさえせず、呆けるばかりの顔の俺を映していた。その俺の陰に、姉の声と姿が割って入ってくる。
「あっ、いや、これは、その……」――猛烈な恥ずかしさに襲われ、しどろもどろに口ごもることしかできない俺。

咄嗟にそばにあったタオルで頭の上を隠すが、時既に遅し。
ぱぁ~っと、それはもう嬉しそうな姉は「すっごいかわいい!!!!」と言ったきり、言葉をなくしてしまった。どうやら感動しているらしい。
姉さん、ただただ純粋にかわいいと思ってるな。――俺、これ、学校行けないんだけど。ねえ。どうすんのこれ。何でよりによって今日…。

少し遅れて、慌てた様子の母がやってくる。
「諒、なにかあったの!? 怪我はない?」

「怪我、は…ないです…」――そう呟いた俺の言葉は、誰が聞いても明らかに弱弱しい。
「…? そう…、それなら良いけど…。どうしたの? どこが痛いの?」――母が訝しげに俺の顔を覗き込んでくる。

「…。………………」
「…諒くん、ちゃんと言わなきゃ分からないよ」
何と言ったらいいか分からず口ごもっていたら、姉がやさしくそう言ってくれた。…ほんの少し楽しそうにも見えるが…いや、姉に限ってそんな意地悪な意図はないだろう。そう信じたい。

しばらく言い訳を考えたが、どうにもうまく頭が回らない。
「…なんか、起きたら、こうなってて……」
こうなったらヤケだ。――百聞は一見に如かず。(ことわざ)に倣って、俺は頭の上に被せたタオルをずらした。


「とりあえず、猪上(いのうえ)先生にはお休みしますと伝えておいたわ」
ひとしきり騒ぎになった後、俺はひとまず食卓についていた。

「あとでお父さんにも電話してみるわね。きっとお父さんなら、なにか方法がわかるはずよ」
「…うん…。」――だといいが。

さっき、一瞬だけ期待したことがある。
――もしかしたら、この耳は普通の人間には見えてなくて。
――俺や姉さんみたいな、力のある人間にしか見えてないなら。
――案外学校にも行けるんじゃないか? なんて。

ところが、だ。
あまり力を持っていない母にも普通にこの耳が見えていたらしい。やっぱり、学校には行けないようだ。

「…今日で、せっかく中間試験終わるのにね」
「…うん…。」

そうなのだ。俺たちは絶賛試験期間中で、今日は木曜日。…月曜日から始まった中間試験も今日が最終日で、俺にとって最難関の世界史のテストがある日だった。
昨夜、結構遅くまで頑張って試験範囲を勉強していたのを、姉が時折見てくれていた。――しかし、こんな妙な事件のせいでその努力も水泡に帰してしまった。

風邪か何かで休んだ、ということになるのだろうから追試を受けることになるが、そうなると放課後に居残りすることになるはずだ。
普通の生徒はこういう時、やはり喜ぶのだろうが、“家の手伝い”がある俺にとってはひたすら面倒だった。

「諒、昨日遅くまで頑張っていたものね。…追試でもきっと大丈夫よ」
「…うん。ありがとう母さん」

要するに、ぶっつけ本番で後がない状態だ。
でもまぁ、期末でこうならなくて良かった。進級をかけた戦いに最初から後がないなんて、洒落にならない。ちっとも笑えない。

「…それにしても諒くん、お耳かわいいね」
「…またそれか…」――正直今は、この姉の暢気すぎる反応のほうがうんざりする。そんなこと、口が裂けても言えないが。

「…ほんとうに、ご先祖様は狐だったのね」
母はそう言って笑ったが、その笑顔はすこし(いびつ)だった。

母は昔から、こういった妖怪の類の話になるとすこし嫌そうな顔をする。
――もちろん表立ってそれを口にすることはないが、何気ない態度に滲み出ていた。

「…ごめん、母さん。俺、ちゃんと部屋で大人しくしてるから」
母は、目立つことが何より嫌いなのだと以前父が言っていた。――なんでも昔、悪目立ちをして嫌な思いをしたことがあるらしい。その話を詳しく聞こうとしたら「ほら、母さんって美人だろう?」と真顔で惚気られたので、適当に流してしまったのだが。
そんな母が、なぜ何かと怪異が起きやすい父の家に嫁いだのかはよく知らないが、できれば目立ちたくないという気持ちは俺にもよく分かるので、できるだけ母に気苦労を負わせないようにそう伝えた。

「…いいのよ、気にしないで。一番大変なのは諒なんだから」
――家で起こったよくわからないひと悶着の末、次期当主とかいう肩書きを与えられた途端にこれだ。妖怪とやらに狙われやすくなるという話はなんとなく聞いていたが、確かにこれは、少々きついものがある。…いろんな意味で。

「…姉さん、気を付けてね」
ついこの前まで次期当主だった姉も、きっと、俺の知らないところでつらい目に遭っていたのだろう。――そう思って、心の底から労いの気持ちを込めて、学校に向かう姉を見送った。

「うん。…そのお耳、早くよくなるといいね」
扉の向こうの門を背負った姉は、健やかに笑っていった。


「…はぁ~。どうしようこれ」
とはいえ、俺自身の問題は目下この獣耳だ。フード付きのパーカーに着替えた俺は、ひとまずフードを目深にかぶり、獣耳から目を逸らす。

こんな事態に陥るような、悪事をした覚えはない。…はず。
案外どこかの誰かにとってはすごく嫌なことを…身に覚えのないところでしてしまったのだろうか……? もしそうだとしても、申し訳ないが、心当たりは全くない。

獣耳なんて真面目に考えてただの罰ゲームだし、誰が得するんだよって感じだし。
何かの罰にしても、何故よりによって獣耳なのか意味が分からない。悪意にしては中途半端だ。ちょっとした悪戯じみている。にしては、悪ふざけもいいところだ。

――っだあああああぁ、ふざっけんなよマジで!!!!!!
ベッドの中で悶々としながら思わずそう口走りそうになったところで、ノックの音とともに母の声が届いた。
「諒。入ってもいいかしら?」

「っ、…ど、どうぞ」
喉元までせり上がっていた叫び声をどうにかのみ込み、とりあえず、ベッドから起き上がって脇に座った。

「お父さんに電話したわ。…お祓いしてみるのはどうだろう、って」
「そっか…」――まぁ、とりあえずはそうなるだろうな。

「今日は早めにお勤めを終わらせて帰ってきてくれるそうだから、夜まで我慢してね」
「分かった。ありがとう母さん」

「いいのよ。…そうだ、お昼何がいい? 諒が食べたいもの、何でも作るわよ」
「うーん、じゃあ…、炒飯が食べたいな」

「分かったわ。とびきりおいしいの作るから、楽しみにしててね」
「…うん、ありがとう。何か手伝おうか?」

「そうね…、じゃあ、とりあえず洗濯物だけお願いできる?」
「分かった。すぐやるよ」

「ありがとう」
「…じっとしてても、つまんないしさ」

「そう…。それもそうね」
母が俺に気を遣ってくれているのが痛いほど分かる。とりあえず、夜まで気を紛らわせようと、俺はことさら気合を入れて家事を手伝った。


中華料理のフルコースという、いつもより随分と豪華な昼食を取り終わり、食器を洗っていたら、ふと疑問が思い当たった。
この耳は何の動物の耳なのだろう? 大きさからして犬ではなさそうだし、狼にしては白い。先祖と縁の深い動物といえばやはり狐だが…。

狐。――ひとつ思い当たる節があった。
そう、例の狐面だ。あれを使ったせいで妙なことが起こってしまったのかもしれない。

もしそうならば、狐本人に聞いた方が早い。…というか、最初からそうすれば良かった気がする。塞ぎ込んでいたせいで、今までそのことに思い至らなかった。
そうと決まればすぐに社へ行こう…と言いたいところだが、先ほど母が夕飯の買い出しに行ってしまって、留守番を頼まれた手前、外に出るのはいかがなものだろう。

確か狐はこうも言っていた。――客間で話していることは狐も聞いている、と。
ならば客間に行けばいいのだ。家から出るわけでもないし、母にも余計な心配をかけずに済むだろう。

俺は早速客間に移動した。身なりを正すほどのことはしなかったが、一応、服装の乱れを軽く整えるくらいのことはした。
「お狐さま、おられますか」

「呼んだか、諒」
狐はすぐに出てきた。――まだ黄昏時ですらないというのに、用意の良いことだ。…もしかすると、俺が困っていることなんてとっくに分かっていて、すぐに応えられるようにしてくれていたのかもしれない。…いや、流石にそれは虫がよすぎか。

「その耳のことやな」
「…そうです…」――虫が良すぎると思っていたのだが、案外本当にそうなのかもしれない。もしそうだとしたら、ありがたい話だ。

「あー、まぁ、楽にしてや」
「あ、はい。ありがとうございます」

「それはなー実はあの面使うた後遺症みたいなもんで、たまになるねん」
「マジすか」――後遺症なんてあるのか。びっくりしすぎてひどく砕けた口調で返事をしてしまった。

「しばらく経ったら勝手に消えるし、まぁそこまで心配せんでええよ」
「今すぐ戻してほしいんですけど」――しばらくって何だ。今すぐどうにかできるなら、どうにかしてほしい。切実に。

「ええやんべつに、あんたそれ似合うてるし」
「えっ…」――似合うって何だ。似合う似合わないじゃなくて、俺は単純に困っているのだが。

「…例えばやけどな。…ええ年したおっさんにその耳生えてるとこ想像してみぃ」
「…。…………、」――何だか、そう言われては返す言葉がない。ほんとに誰が得するんだ、その絵面。

「その耳あると、多少は音がよう聞こえるやろ。…しばらくそのもっふもふの耳使うて、楽しんどきや」
「…いや、音がよく聞こえるようになっても特に楽しくはないと思うんですけど」

「まぁそう言いなや。かわええであんた」
「かわいいとか言われても別に嬉しくないんでやめてもらえませんか」――どうやら狐にも、これをどうにかできる力はないらしい。いや、もしかするとそのつもりがないだけなのかもしれないのだが…。

「何やの、ほんまのこと言うただけやろ」
「勘弁してください」――どんなにほめられたところで、こちらとしては気恥ずかしさが増すばかりだ。

「……ま、ええわ。早いとこ戻るとええなぁ」
「………。……………」

狐は、複雑そうな面持ちの俺を見てため息をひとつつくと、やれやれと肩をすくめて姿を消した。
あの狐面に、まさかそんな妙な後遺症があったとは…。ただでさえ扱いが面倒な面なのに、後遺症まであるとなったら、過去どれだけ持て余されてきたのだろう。…いや、妙な後遺症があるから、容易に扱えないように隠した、とかなのかもしれない。

細かい経緯は分からないにせよ。
――面倒なことになったなぁ。と、ひとりになった客間で何度目か分からないため息をついた。

不意に、玄関の辺りから物音がした。母が帰宅したのだろうか?
買った荷物を運ぼうと玄関に向かうと、そこにいたのは母ではなかった。

「諒。母さんから話は聞いたぞ」
父だった。仕事を早く終わらせて帰るとは言っていたが、思ったよりも早かったので少し驚く。

「お帰りなさい、父さん。…俺のために、わざわざすみません」
「大変な時に何を言ってるんだ。…すぐにお祓いの支度をするから、もう少し待っていてくれ」

「はい…」
「一応聞いておくが、…何か心当たりはあるか?」

「…。…いえ、何も…」
狐面のことを言うべきか、一瞬悩んだ。しかし、相手が見ることができないものについて、どう説明しようというのか。

そんなことをしたって、無駄に骨を折るだけだ。
その苦労は、幼い頃から散々してきた。そして、無意味だということもよくよく思い知った。――父ならひょっとすると信じてくれるかもしれないが、いくら父でも…という思いは、そう簡単に消え去ってくれるものではない。

「…そうか。困った事になったな…」
父は、そう言いながら去っていく。荷を置いて、すぐに支度に取り掛かるつもりなのだろう。俺もその背に続いたが、少し後ろめたい気持ちだった。


結局、お祓いの効果はなかった。
父は、尚も手を尽くして蔵の中の史料を探し回ってくれたが、いずれも役に立ちそうな文言は見当たらず、ひとまず小休止となった。明後日――土曜日には、父が蔵の中を徹底的に検めてくれるという。蔵の中の史料をすべて検めないうちから悲観するなよと励ましてくれたが、狐と話したときの事を思い返すに、恐らく巻物にも大した解決法は載っていないのだろう。…時の流れに任せるより他にない、ということなのか……。実に気が重い。

そんな俺たちの気苦労をよそに、姉はなんだか嬉しそうだ。もちろん口には出さないのだが、なんというか、雰囲気が隠せていない。
…次期当主だったときはさぞ気苦労が多かったのだろうと思っていたが、不可思議なことを楽しめる姉の性分からすると、案外好奇心を刺激されたり、普通に楽しんだりすることの方が多かったのかもしれなかった。――お気楽というか、なんというか…。

「姉さん、そろそろ勘弁してくれないかな……。」
「え?」

「俺、そろそろ寝たいんだけど…」
「ああ、もう?」

「うん…。姉さん、すごく嬉しそうだね」
「だって諒くん、すごくかわいいんだもん」

「……そう………。」
姉のこういうところはよく分からない。人間に獣の耳がはえたところで、なんだかちぐはぐで、バランスが悪いだけだと思うんだけどな。いや、別に世の中のそういうのが好きな人達を否定するつもりはないんだが。

「ねえ、そのお耳、かゆくなったりしないの?」
「え。さぁ、今のところは特に何ともないけど」

「そうなんだ。でも、お風呂大変だったでしょ?」
「うん。――犬や猫がお風呂に入りたがらない理由がよく分かったよ」

何しろ耳が縦についているのだから、水が入りやすいとかいう次元ではない。ほっといたら入るのだ。天井から垂れる水滴さえ入るのだ。
もちろん多少は毛が防いでくれるので、無闇やたらと入るわけではないのだが、普段ほど何も気にしなくていい、というわけにはいかない。

「…そういえば諒くん、お風呂入る前より疲れてるように見えるよ」
「…そう?」

「うん。…もったいないけど、早く寝たほうがいいかもしれないね」
「もったいないって、何が」

「…うふふ、こっちの話」
「……。姉さん、なんかろくでもないこと考えてるでしょ」

「そんなことないよ~。音がよく聞こえるってどんなだろうって、ちょっと気になっただけ」
姉には、今日あったことを打ち明けてある。当然、お狐さまとの会話もだ。狐面のことは伏せたが、やがて元に戻ることや、今、少しだけ耳がよくなっていることは伝えてある。

「…あんまり変わらないよ。耳を澄ませば確かにいつもよりはよく聞こえるかな、ってくらい」
「そうなんだ。…てっきり猫みたいに、隣の部屋の蟻の足音とかも聞こえちゃうのかと思ってた」

「…猫ってすごいんだな…。もしそんなに聞こえてたら、俺今日眠れないよ」
「そうだね。うるさくて仕方ないだろうね」

「…。この耳、一体なんの意味があるんだろうな…」――単なる後遺症なんだから、意味なんて特にないのかもしれないが。
「やっぱり、かわいいからじゃないの?」

「何でだよ。それだけは絶対ありえないだろ」――物心ついてからこの方、自分自身に向けられたことがないはずの“かわいい”という単語を、今日だけで何度聞いたことだろう。そう呆れたのだが、
「そうかなあ。でも、かわいいよ?」
もふもふとした物や生きものが好きな姉にとっては、もふもふでさえあれば全部“かわいい”に分類されてしまうらしい。猫だろうが梟だろうが、ぬいぐるみだろうが毛皮だろうが、すべて“かわいい”のだ。

「そんなこと言ってるの姉さんくらいだよ…」
「…お狐さまだって、かわいいって仰ってたんでしょ?」――相変わらず毒気の一切ない表情のまま、姉はそう言う。その表情のせいで、余計に反論がしづらい。

「うっ…。」――しかも、実際お狐さまもその通りのことを言っていた。しかしお狐さまは『ええ年したおっさんにその耳が生えてるとこ想像してみぃ』とも言っていた。
やはり、かわいいからという理由だけではないはずで、無作為に起こってしまうことなのだろう。第一、かわいいというなら俺より…

いや、これ以上考えるのは止そう。空想の中でとはいえ、俺以外に被害者を増やしたくはない。
とにかくもう寝るから、とだけ告げて、俺はさっさとベッドに潜り、頭から布団をかぶった。

――こんな悪夢、さっさと終わってしまえ。案外、明日には治ってるかもしれないし。
……どうか、そうでありますように。


現実は、そう甘くはなかった。
いや、そんなことは重々承知していると思っていたのだが、俺はまだまだ甘かったらしい。

翌朝も、まだ耳はあった。目を覚まして真っ先に頭の上に手を伸ばした俺を待っていたのは、昨日鏡を見た時と何ら変わらない無力感だった。
――嘘だろお前…。
そう呟いたところで、非現実は去ってくれない。

「諒くん…、今日もだめだったの…」
姉もそろそろ心配してくれていたようで、素直に気の毒そうな視線を向けてきた。――げんなりし始めている俺を前にして、流石に“かわいい”と言うのは慎んだのかもしれない。

「困ったわねぇ…、お医者様に相談してみようかしら…」
朝食の席で困り果ててそう呟いた母を、慌てて諫めた。一応狐には『そのうち治る』というお墨付きをもらっているわけだし、医者のカルテに奇妙な症例を残すわけにはいかない。そんなことで医療の歴史に名前を残すのは御免だ。

しかしこのままでは学校に行けないのも事実。
こうなったら、徹底的にお狐さまに縋るしかない。知っていることをすべて話してもらうのだ。

そう意を決した俺は、母がいない頃合いを見計らって、またも客間で狐を呼び出した。
「お狐さま、お尋ねしたいことがあります」

「はぁい。今日は何~?」
――俺の真剣な悩みとは裏腹に、狐は至って暢気そうに顕れた。
「…。お狐さま、このままじゃ学業に支障が出ます。この耳、どうにかして下さい」

「はぁ。学業言うたかて、一日二日くらいどーってことあらへんやろ」
「いやいやいやいやいや。俺、中間試験すっぽかしたんですよ。追試なんですよ、放課後に居残り確定なんですよ! ほんと勘弁して下さいって!!」

チュウカンシケン? ツイシ? イノコリ? ――と、目を白黒させている狐に向かって、俺はずずいっと詰め寄る。
既に支障は出ているのだ。その上さらに授業に出られないとなると、期末試験にも悪影響が出かねない。――姉が手伝ってくれているとはいえ、これ以上の遅れは許されないのだ。

「お、…おぅ…、そうなんか…。」――俺の勢いに気圧(けお)された狐は、何やらすまなさそうにもごもごと呟いている。
「昔、こうなった人はどれくらいで治ったんですか!?」――尚も詰め寄ると、その分だけ狐は後退った。

「えっ。んん~、人によってまちまちというか、なんというか…」
何とも曖昧な答えだ。俺が求めているのはそんなあやふやな情報ではない。

「最短は!」
「一日!」

「最長は!」
「えぇーーーー、え~、ん~、いっしゅう…かん……??」

何故かしどろもどろしながら答えられた期間に、俺は目をむいた。
「一週間!!?!?」

俺の叫び声に、びくうっ! と、わずかに狐が仰け反る。
「う、うん…、たしか、そんくらいやった……」――狐はまたも、もごもごと口ごもってしまう。最後の方はうまく聞き取れなかった。

「……はぁ…、一週間…。まぁ、一か月とか一年よりマシか…………」
急速にしぼんだ俺の気迫に尚も少しだけ怯えつつ、狐は俺の顔色を窺っている。――こんな面倒なことになるくらいなら、もう二度とあの面は使うまい。そう心に誓った。

「…。…………………」
狐は何やら意味ありげな視線をちらりと俺に向けた。

「何か?」――ジトッ、と俺が睨むと、
「ぃやっ…、何も…」――狐は即座に俺から目を逸らした。

「ほんとに一週間なんですね?」――先ほどから、なんだか様子が変だ。胡散臭い。
「う、うん」

「絶対それまでには治るんですね?」――狐は、一向に俺と目を合わせようとしない。
「…うん…」

「…もし治らなかったら、絶ッッ対、何が何でもあなたにどうにかしてもらいますからね」――まさかとは思うが、一応念を押しておくことにした。
「…うん……、いや、ハイ」――狐にもそれが分かっているのだろう。

「…。解りました。じゃあ、それまで辛抱します」――言質は取ったので、ひとまずそれで折れることにする。
「ハイ」――狐は実にすまなさそうに、まるで亀のように首を縮めて頷いた。

「ありがとうございました。…また、何かあったら相談します」
「ハイ、ワカリマシタ」

イツデモドウゾ、とギクシャクした敬語を言い放ち、狐は姿を消した。
――やれやれ…。悩みの種がさらに大きくなってしまった。礼儀など知るかとヤケになった俺は、客間に大の字になって寝転がる。

一週間も家に引きこもっていろと、そう言うのか。
両親、特に母には気苦労をかけてしまうし、その前に退屈で死んでしまいそうだ。

でも、まぁ…。
『夢にお狐さまが出てきて、一週間もすれば治るだろうと言われました』とでも言えば、両親も少しは安心するだろう。部屋でなんとなくうたた寝でもしていたことにして、その時にそんな夢を見たと言えばいいのだ。そこから先のことは、両親と一緒に考えていけばいい。

そう考えを巡らせつつ、俺は自室に戻った。
…一週間。――授業はどれくらい進むだろう? そもそも、そんなに長い間、風邪という名目で学校を休めるのか? もうそれ、インフルエンザだろ。真冬ならともかく、五月にインフルエンザは通用しない。肺炎? 入院沙汰だな、それ。検査入院ってやつか? そうなると、証明とかで医者の診断書みたいなものが必要なんじゃないのか?

まったくもって、現実というのはややこしい。
こういうとき、家族がいてよかった、と思う。たとえすべてを話すことはできなくても、少しでも悩みを相談できる相手がいるというのは、本当に助かる…。

――どうにか、解決策が見つかりますように。
もしくは、明日にでも耳が元に戻っていますように。


日が暮れて、姉が家に帰ってきた。
事の顛末を姉に話すと、姉も表情を曇らせた。やはり一週間は長い。

両親には俺からちゃんと話すからと言うと、姉は心配そうに頷いて、夕飯の手伝いをしに台所に向かおうとした。――話してくれてありがとう、と言い添えて。

ところが姉は、部屋を出る直前に何かを思いついたようで、不意にこちらを向いて言った。
「あ、そうだ。…諒くん、ずっとお家にいるのも退屈でしょ? 夕飯ができるまで、近所を散歩してきたらどうかな」
「え。でも…、」

「お帽子かぶって行けば、少しくらいなら大丈夫じゃない?」
「…そうかな…」

…不思議なことに、姉が言うと大丈夫なような気がしてくる。
いや、実は自分が心の奥底で思っていたことを他人から言われたので、単に安心しただけなのかもしれない。

「…そうだな、近所の公園に行くくらいなら、いいかな…」
「うん。…夕飯ができたら呼びに行くね」

「うん。…できるだけ早めに帰るから」
「気を遣わなくていいよ。…お母さんには伝えておくから」

「うん、ありがとう」
「ゆっくりしておいで」

そう言った姉は、玄関まで俺を見送ってくれた。
後はよろしく、と頼んで、俺は数日ぶりに自分の靴を履く。なんだかとても久しぶりな気がして、いつもより少し手間取ってしまった。

そんな俺を出迎えたのは、あまりにも眩しい西日だった。みごとなまでに、空が(くれない)色に染まっている。――大昔の人が日の光を拝んだありがたさが、ほんの少しだけ分かったような気がした。

日が暮れてしまうと、少し冷えるかもしれない。――姉はああ言っていたが、あまり長居はしない方がいいだろう。
そう思うと、公園へ向かう足が自然と早くなった。幸いなことに、近隣の子供たちは早くも皆帰ってしまったようで、公園には人っ子一人いなかった。

安心したような、やはり少し寂しいような――複雑な心境を抱えて、入り口脇のベンチに座る。
芽吹いたばかりの新緑が風にそよそよと揺れて、聡くなった耳に心地よい音を届けてくれた。

狐の言った通りだ。――耳を澄ますと色んな音が聞こえてくる。
風の音、葉擦れの音。散り残った花弁が(がく)から離れる音、遠くを走る車の音、地面を踏む靴の音、どこかの家で料理をする音、刻む音、煮立つ音、物の焼ける音、誰かが歌う声、感情がそぎ落とされた、平坦なニュースキャスターの声。

「やべぇな、これ…」
何気なく耳を澄ましただけだったが、音を拾おうとすればするほど、頭の中が音でいっぱいになった。――あまりやりすぎると、頭がパンクしてしまう気がする。

確か猫は、隣の部屋の蟻の足音まで聞こえるんだったか…?
昨日、姉がそんなことを言っていた。聞いた時はまさかと思ったが、あれもあながち誇張ではない気がする。――いや、人間の俺には、そんなことは解らなくていいのだろう。

とにかく、これは人間が判っていい音の量じゃない。――それだけは間違いない。あまり聞きすぎると、脳のどこかがおかしくなってしまうかもしれない。
うっかり取り返しのつかないことになる前に、耳が元に戻ってくれればいいのだが。

家の中にいるよりも外にいる方が、色々な音がして気になってしまう。気になってしまうということは、うっかりそちらに意識を傾けてしまう、ということだ。気にしさえしなければ、至って普段通りに過ごせるのだが…。
残念だが、耳が元に戻るまではできるだけ外に出ない方が賢明なのかもしれない。

夕日のそばには、宵の明星が見えている。
東の空は既に瑠璃色に染まり、幽かではあるが星の粒も見え始めた。――日が落ちるのはあっという間だ。氾濫する音も危険だが、うっかり知り合いに遭遇しないとも限らないし、さっさと引き上げた方がいいだろう。

少々名残惜しいが、もう帰って引きこもることにしよう。…そう決めて、立ち上がった時。
「諒くん、ごはんできたよ」――背後から姉の声がした。

「あ、姉さん。ありがとう、呼びに来てくれて」
「ううん。…大丈夫だった?」

「うん。おかげでちょっとすっきりしたよ」
「そう、良かった。…じゃあ、帰ろう」

「うん。」――そう頷いて、公園を後にしようとした時、
「…、あれ?」――姉が何かに驚いて、俺の背後を見遣った。

「? どうしたの、姉さん」――急にどうしたのだろうと思って、一応俺も後ろを振り向いてみたが、特におかしなものは見当たらない。
「あ、ううん、何でもない。気のせいだよ」――なんだ、気のせいか。大方、夕日のせいで何かを見間違えてしまったのだろう。

「…、あ、そういえば、母さん何か言ってた?」
「ちょっと心配してたけど、大丈夫だと思うよ」

「そっか…」
「うん。…ちゃんと、大丈夫だったよって伝えてあげてね」

「そうするよ。…心配性だからな、母さん」
「…お父さんもね」

父が帰ったら、今日狐と話して分かったことを伝えなければいけない。――それから、最長で土日を除いてあと三日、どうやって学校を休むのかということも、一緒に考えてもらわなくては…。
正直なところ、問題が山積みで気が滅入りそうだったのだが、ほんの少し外に出られただけでも気分が軽くなっていた。


「…一週間か…。」
「はい…。」
父は、流石に渋い顔をした。

「風邪はすぐ治ったのだが、遠方に住む身内に不幸があって、どうしても行かなければならない、…とかだろうか」
「遠方、というと…北海道とか」

「沖縄とか。…海外でもいいぞ」
「いいぞ、って…」――父は、思いのほかすんなりと代案を出しそうな様子だった。大人はすごい。伊達に頭を使ってないな。
…まぁ、父はそれこそ何かあればあれこれ策を弄して会社を早退したりしているのだから、慣れているんだろう。…たぶん。

「まぁその辺りは、私と母さんに任せなさい。諒が気に病むことではないよ。…諒が考えるべきは、休んだ後のことだな」
「そ、そうですね…」――主に追試とか、あと追試とか、受けられない授業のこととかだ。

「今は宵夢が勉強を見てくれているんだって?」
「ええ、まぁ…」

「そうか。何か不自由なことはないか?」
「いえ。姉さんのおかげでどうにかなりそうです。明日も、勉強見てくれるみたいで」

「そうか。…苦労をかけるな、宵夢にも、諒にも」
「…、…いえ、俺は…むしろ助けてもらってますし。俺の方こそ、すみません」

「私は構わないさ。…母さんにも、後で謝っておかないとな」
「……。…、あの」

「ん?」
「母さんって、何で目立つの嫌いなんですか?」

「…どういうことかな?」
「えっと…母さんって、妖怪とか好きじゃなさそうだけど、…それが、変に目立ちたくないからだって、父さんが前ちょっと言ってた気がして…」

「あぁ、確かに、そんな話もしたような…。別に、そんなに大した話じゃないけれども。――要するに、私と出会うまでの巡り合わせが悪かったというだけの話だよ」
「…もうちょっと分かりやすく…」

「そうだねぇ…、母さんは昔から、器量のよい娘と評判だったけれど、だからといっていい思いをしたわけではなかったということだよ。…あんまり言うと母さんに悪いから、この辺で勘弁してくれ」
「…だから、何でそれが妖怪嫌いに繋がるんですか…?」

「…その辺は、単に怖いという思いがあるのと……、怖いもの、安心できないものは排除したい、という至極まっとうな理由からじゃないかな」
「…じゃあ、なんで父さんと母さんは結婚できたんですか?」

「それはもちろん、私だったからだよ」
「…ん???」

何かと異変を呼び、なかなか安心できない妖怪を常に意識し、関わらなければならないこともある妙な家の出である父ならば、それこそ嫌がられそうなものだが、それが、父だから結婚した、と言い切られると、矛盾しか感じない。
尚も尋ねようとしたが、父は自信満々に頷くだけで、それ以上を語ろうとはしなかった。

「後のことは、母さんに聞きなさい。――さて、明日は…蔵を探すんだったか。じゃあ、今日はもう休むか」
「えぇ…」

妙な耳が生えたことがきっかけで両親の馴れ初めのことまで気になり始めた俺は、結果として次々と沸き起こる謎に頭を抱える羽目に陥っていた。
…いやいや、その前に追試だ、追試。ひとまず追試が終わるまで、過去のことは一旦頭の隅に置いておこう。せっかくの手助けを無為にしないように、勉強に集中しなければ。

――そう決意はしたものの。
なんとも気の進まない土曜日が、俺を待ち構えているのだった。


また朝がきた。――相変わらず、耳は元に戻っていない。
…まぁ、明日までに戻れば、少なくとも月曜日には学校に行ける。それなら風邪という言い訳を変えず、これ以上嘘も重ねずに、ごくごく自然に日常へ戻れるだろう。

もう鏡を見ても驚かなくなった。
風呂も、とりあえずタオルを頭の上にのせておけば、天井からの水滴は防げることに気付いた。――髪を洗うのは一苦労だが。

非日常なんて知ったことじゃない。慣れてしまえばこれも日常だ。
…なんだか、次期当主になってから、少したくましくなってきたように思う。主に精神面が。

明らかに生きてなさそうな人影とか、変な形のものが視界の隅を掠めたりとか。――そういう細かいことにいちいち驚かなくなった。
問題は、うちの神様が悪戯好きなことだ。しかも、そこらの奴らとは比べ物にならないくらいスケールがでかい。

…こちらの方にはまだまだ慣れない。とはいえ、やがては慣れてしまうのだろうが。
ただ、今回のように日常に多大な悪影響を及ぼしてくる系の悪戯…もとい、事故は困る。それならそうと、あらかじめ言ってくれればいいものを。

…いや、確かにあの時はまだ狐の話自体半信半疑だったし、そもそも喋ったことも会ったこともなく、社の場所さえ知らなかったが。
父に対してやっているみたいに、夢でお告げしてくれたら、とても助かったのになぁ…なんて。

思いはするが、もうなってしまったのだから致し方ない。
こういう大事なことは先に言っておいてくださいね、と、今度念を押しに行けばいいか。――突然のことだったとはいえ、得体の知れないものだと解っていて使ったのだから、俺の自業自得でもあるのだ。

そんなことを考えながら朝食を取り終え、蔵の捜索を手伝おうかと父に申し出ると、いいからお前は勉強してろと言われてしまい、すごすごと自室に戻った。俺は、勉強道具を机の上に並べるだけ並べてから、本棚から読みかけの本を手に取る。
姉の宿題が終わってから、姉に勉強を見てもらうことになったのだった…。


――勉強の合間にカフェオレを飲もうと思ったが、ちょうど切らしてしまったらしい。
買い物に出かけようとしていた母に買ってきてもらうよう頼んだのだが、学習内容を一度に詰め込もうとした脳がもう限界らしく。…仕方がないので、気晴らしもかねて近所の自動販売機に買いに行くことにした。

「諒くん、私行くよ?」
「いや、大丈夫だよ。姉さんも疲れただろうから休んでて。もし何か欲しかったら、カフェオレと一緒に買ってくるよ。何がいい?」

「私は大丈夫。家にあるものでいいよ」
「分かった。…すぐ戻るから」

「うん。近くだけど、気をつけてね」
「ありがとう。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」
――よほど心配なのだろう。家から三十歩も離れていないところなのに、姉は玄関まで見送りにきてくれた。

念には念を入れて、うっかり知り合いに遭遇したときのためにマスクをしてきた。如何にも病人らしい格好だ。
もし何か聞かれても、低い声で気怠そうに話せば、病み上がりか病人だと思ってくれるだろう。

…まぁ、何で病人が自販機のカフェオレ買ってんだって話だけど。
その辺は、家族に見つからないように隠れて買いに来たんだとか何とか言えば済む話だし、話を切り上げる理由にもなる。一石二鳥だ。

門を出る前に一応辺りを見回して、知り合いらしい人影はないと確認しつつ。
目当ての自販機でカフェオレを買って、お釣りを手に取って。
またしても辺りを確認して、やっぱり誰もいないと確かめて、どうにか歩き始めたところで。

「ねえ」
背後から不意に声がした。――反射的に振り向いて、後悔した。

そこに立っていたのは小さな子供。見た感じ、六歳か七歳くらいの男の子だ。
だが雰囲気が妙だ。異様に肌が蒼白い。

――しまった。こいつ、霊か。
周りを気にしすぎていたせいで、つい引っかかってしまった。

俺は咄嗟に少年の後ろの電信柱の方まで視線をずらし、何も見なかったふりをして立ち去ろうとする。
「お兄さん」――尚も少年は声をかけてくる。悪いが無視だ、無視。

何も聞こえなかったふりをして、すたすたと歩く。ところが少年は、尚も俺に語りかけてきた。
「…そのお耳、すごいね。お顔までかくして、誰かとかくれんぼしてるの?」

尋ねられた内容が内容だったので、思わず足を止めてしまった。
くそっ、痛いとこ突かれた。フードの上に帽子までかぶってんのに、何で耳のことがわかるんだよ!!

「くすくす、やっぱりぼくのこと、みえてるんだね?」
「………っ」――こういうのは、返事をしたら負けだ。俺は苦し紛れの無視を決め込み、なるべく速足で家の門をくぐった。

家の門をくぐった途端、直前まで聞こえていた少年のものらしき笑い声がピタリと止んだ。
「あ、諒くんお帰り」――玄関で姉が待っていた。手に緑茶の入ったボトルを持っている。俺が自販機に行っている間に取ってきたのだろう。…で、俺が心配なので待っていたと。

「…姉さん、俺、マズったかも…」
早速、先ほどの少年のことを姉に相談した。


俺の話を聞いた姉は、すぐに父に話した方がいいと言った。父は、狐の耳のことで蔵を徹底捜索してくれている。案の定、使えそうな史料はなさそうとのことだったが、在宅してくれているだけでも運が良かった。
父は俺の話を聞いて、すぐにお祓いをしようと言ってくれた。…というのも、子どもの霊自体は珍しくないし、とりあえずお祓いをして様子を見ようということらしい。できれば、日が落ちる前に済ませてしまった方がいいらしいのだが。

一昨日にも、俺の狐耳のことで父にお祓いをしてもらったばかりだというのに、非常に申し訳ない気持ちだ。
そのことで父に頭を下げると、――昔は毎日やっていたのだから、特につらいということもない。気にするな、と言われた。今回のことは完全に俺のミスなので凹んでいたのだが、そう言ってもらえるととても嬉しいし、安心する。同じミスだけは繰り返さないようにしたいところだ。

そんなわけで急遽お祓いを受けた俺だったが、その結果。
あれ以来感じていた妙な視線? のようなものもなくなり、ほっと一安心。夕飯の席で、お騒がせしました…と皆に謝ったのだが、いずれも温かい反応が返ってきた。いや、一番肝心な悩みの種は、まだ俺達の頭を悩ませているのだが…。

お祓いだのなんだので中断になってしまっていた俺の勉強の件は、夕飯の後に持ち越された。
姉は――疲れているだろうから明日でもいいよ、と言ってくれたのだが、なんだか収まりが悪いのが気持ち悪いので、俺の方から改めてお願いをして、キリの良いところまで済ませてもらった。

「お疲れ様、諒くん」
「無理言ってごめんね、姉さん。ありがとう」

流石の姉も疲れたのか、うーんと伸びをして、右の拳で左肩を軽く叩いた。
「…うーん、ちょっと肩凝っちゃったかも…。それより、解りにくいところとか、なかった?」
「うーん、特には」

「そう、良かった。…もう遅いから、早くお風呂入らなきゃね」
「姉さん先にどうぞ」――狐耳の扱いにまだ慣れていないので、俺はどうしても時間がかかってしまうのだ。

「は~い。じゃあ、お先です~」――数日経ってそのことをよく理解している姉は、小さく笑うとすんなり風呂場に向かった。
「ごゆっくり」――何となく面白がられているような気がして、ほんの少しだけ苦笑を向ける。姉の性格上、からかわれないだけマシだとは思うが、初日の“かわいい”攻撃は流石に少しこたえた。

まだどことなく、くすくすと楽しそうな姉を見送る。結果的に一日中俺の勉強を見る羽目になったというのに、一体どこからそんな気力が湧くのだろうか。
俺にはよく分からないが、人の善い姉に無理を強いないようにしなければと気を引き締めた。――明日は勉強をなしにして、ゆっくり休むことにしよう。

風呂が空くのを待つ間、眠りに落ちてしまわないようにと適当な漫画を手に取る。
以前は雑誌で買ってすぐに読んでいたシリーズのものだが、次期当主になってから雑誌で追うのがつらくなったので、単行本を待つようになった。おかげで部屋に雑誌を積まなくなり多少スペースができたが、肝心の単行本の内容といえば、雑誌で読んでいて既に知っている話なのだから読んでも新鮮味はない。――これでは結局眠ってしまいそうだ。

何か他の気晴らしはないかと中途半端に読んだ漫画を棚に戻したとき、例の耳が何かを拾った。窓のわずかな隙間を風がひゅっと通り抜けたような、そんな音だった。
妙だと思い窓を確かめたが、きちんと鍵がかかっている。隙間風か何かだろうかと一瞬思ったが、この家は確か何代か前に手を入れているので、そこまで古い家でもない。

「諒くん、おまたせ。…どうかした?」
あれこれと原因を考えているうちに、姉が風呂から上がったらしい。いつもより少し早い気がするが、俺を気遣ってのことだろう。
「あ、おかえり。ちょっと気になったことがあって」

「…? どこか解らないところでもあった?」
「いや、そうじゃなくて。…なんか変な音がしたような気がしてさ。――たぶん俺の空耳だけど」

「そうなの?」
「うん。…なんかこう、隙間風みたいな」

「隙間風…? 私には、特に変な感じはしないけど」
「だよな。…風呂入ってくるよ。姉さん、先に休んでて」

「あっ、うん。…おやすみ」
「おやすみ」

気を取り直して、風呂場へ向かう。
この狐の耳は、余計な音まで拾ってしまうのかもしれない。気にしないようにすればいいと思っていたのだが、不意に妙な音を拾うとなると、やっぱり気になってしまう…。


狐耳は、あれから妙な音を拾うことはなかった。
おかげでぐっすりと眠ることができたのは助かったのだが…。

しかし、気にしなければどうということもないはずのこの耳が、俺の意思と関係なく音を拾うというのはどういうことなのか。
考えれば考えるほど、なにか意味があるような気がして、気になってしまう。

狐は何と言っていたっけ?
思い返してみても、「耳がよくなる」という意味のことしか言っていなかったよな…。

俺の意思とはまた違う、もっと別の何かが働いているような気がするのだが、一体何だろう。
考えたところで俺には解らないので、やっぱり事情を知っている狐に聞くのが、一番話が早いだろう。

先日話したときにイツデモドウゾと言っていたのだから、今から行ったって構わないのだろうが、流石に朝っぱらから家に呼ぶのは気が引ける。――こちらから訪ねるのが筋だろう。
手早く朝食を済ませて、両親に狐の社に行く許しをもらった。この耳のことを相談に行きたいと言うと、俺と同じような顔になって、渋々の許しが出たのだ。…ただし。

「ごめんね姉さん、ついて来てもらうことになっちゃって」
「ううん、気にしないで。特に予定もなかったから」

「でも、こんな朝から出かけるなんて気乗りしないだろ」
「いいよ、朝のお散歩だと思えば。――お社の近く、森みたいになってるからきっと気持ちいいよ」――家に籠りがちになっている俺の気晴らしにもなるだろうと、姉は喜んでついて来てくれるようだ。

「そ、そうなんだ…。」
うっかり口を滑らせそうになったが、俺は初めて狐の社に行くことになっている。本当は何度かこっそり訪ねているのだが、いずれも誰にもばれないように、狐面の力を借りて行ったのだ。――そのせいで、狐耳が生えるなんていう目に遭っているのだが。

「道案内は私に任せてね」
「う、うん…」

「じゃじゃんっ。ちゃんと、地図もあります」
「そっか…。」――姉は少し方向に疎いところがある。以前父に書いてもらった地図を大事に取っていたのだろう。誇らしげに取り出して、俺に見せてくれた。


るんるんと楽しそうな姉の腕を引き、二人で社に着いた。
「…なんか、思ったより小さいんだね」――如何にも初めて来ましたというようなコメントをわざとらしく漏らしながら、社への階段を上っていく。

「でもほら、景色は綺麗だよ」
「…まぁまぁだね」

「ふふ、またそんなこと言って」
「姉さんがいちいち大げさなんだよ」

「そんなことないもん。とっても綺麗だよ」
「はいはい。…あんまりはしゃぐと、あとでばてるよ」

「もうっ。…諒くんの方こそ最近外にあんまり出てないんだから、調子に乗ってるとばてちゃうよ」
「最近っていっても、ほんの二、三日のことだろ」

「だって、公園と、自動販売機に行ったくらいでしょ?」
「…ちぇ。公園に行ったとき、ちょっとくらい走っておくんだった」

ひどい言われようだが、事実なのでなにも言い返せない。
景色については、まぁこんなもんだろうという感想以外特にない。…口が裂けても言えないが、実は初めてでもないのだから、なおのことだった。

石段を登り、どうにか朱色をとどめている鳥居をくぐると、お参りもしていないのに、奥の森から赤い衣を着た女の姿をした狐が姿を現した。――なにやら険しい面持ちをしている。

「お狐さま…! おはようございます」
「おはよう二人とも。すまんが、話は後や」

「えっ」――姉は、決して機嫌がよさそうとは言えない狐の様子に焦りを感じたのか、俺の方をちらりと見た。
俺は、今のところ先祖の【陰陽師の生まれ変わり】だということになっているので、何かまずいことでもあったのかと気にしているようだ。

「…あの、何か…」――粗相でもしてしまいましたかと尋ねようとしたのだが、狐の言葉に遮られてしまった。
「出てきぃ、悪ガキ。かくれんぼはもう終いやで」

――まるでその言葉を嗤うかのように、くすくすと笑い声が谺した。
隣にいる姉が小さく悲鳴をあげ、俺の腕を掴む。

「この声って…!?」――あの声だ。俺につきまとった、霊の少年だ。
「諒くん、知ってるの…?」

「うん。俺に憑いてた奴だ」
「…そう…。まだ、いたんだね…」

『かくれんぼじゃないよ。鬼ごっこだよ』
谺していた声は狐の背後に落ちるように留まり、霊の少年が姿を見せた。驚いた狐が目を見開き、俺たちを庇うように立つ。
『…そっちのお兄ちゃんをつかまえようとしたらにげられちゃったから、お姉ちゃんと鬼ごっこしてるの。おばさん、よくぼくがわかったね』

「何やと!? 聞き捨てならんぞクソガキ!!」
――おばさん、と呼ばれた途端、狐の柳眉が跳ね上がった。
「ちっと脅かして追い払うだけにしといたろと思てたけど、気ぃ変わったわ。――生まれる前からやり直してこい!!!!」

少年の足元から、蒼い火柱が立った。
しかしその直後、少年の姿が弾けて消える。――同時に、またあの笑い声。…さっきよりも楽しそうに、渦を巻くように谺している。

『じゃあおばさん、ぼくと鬼ごっこしよう…?』
――その言葉だけを残して、少年は気配ごと消えた。

「え…」
「消えた…!」
呆然とする俺たちだったが、鋭く響いた狐の舌打ちに、少し気を取り直す。

「――ちっ。うちの鼻ァ舐めとったらあかんで…」
「…姉さん、俺から離れちゃだめだよ」
「うん、ありがとう」

そう言うと姉は、掴んでいた俺の腕を一度離し、何かの拍子で離れ離れになってしまわないように、こちらと腕を組んできた。
「…ごめんね。一緒に頑張ろう」
「…いや、これは俺のせいだよ。…気を付けて、つまずかないようにね」――こういうとき、何故か姉は一番に謝る。そもそも、少年に目を付けられるようなヘマをしたのは俺のほうなんだから、謝らなきゃならないのは俺なのに…。

「…諒。手ぇ貸してくれんか」
「は…、はい」――狐に名指しされたのでそちらを見ると、すさまじい気迫に満ちていた。…殺気と呼んでも差し支えないほどの、猛々しいものだ。

「ちょうどええわ。その耳で、何か聞こえたらうちに教えてくれ」
「はい、分かりました」

「…心配は要らん。あんたらには指一本触れさせへん」
狐がそう言い切るのが早いか、俺たちの周りを狐火の火の玉が舞った。日の光にも霞まないほど強い、蒼い焔だ。

――鬼さんこちら、手の鳴るほうへ。
少年の声が小さく聞こえた。

「こっちです!」
そう言って走り出すと、姉と狐がついてきた。手をたたく音だろうか、ぱんぱん、と乾いた音に引き寄せられて、森の奥へと向かう。

――やがて、小さな岩が目に留まった。
「何だ、あれ…」
「…岩、かな…? 小さいけど…」

「…。よう見ぃ」
狐に言われて目を凝らすと、うっすらと顔のようなものが見えてきた。
「…もしかして、地蔵ですか?」

「近い。けど、違う。…まぁ、もうニンゲンにとっては大差ないやろうけどなぁ」
そう言われつつ辺りを見回すと、不思議と周辺だけが、ほかと比べて少し木が少なく、わずかに森が開けていた。――とはいえ、ほんのわずかな違いだ。

「…うちを舐めたら痛い目に遭うて、子どものうちからようよう解らせてやらんと。…いつまでも悪ガキのまんまやったら、お地蔵さんかてお迎え来はらへんさかいなぁ」
「…。……、」――ほんの少し悼むような狐の言葉を聞きながら、俺は、わずかな音さえ聞き漏らすまいと耳を澄ませて辺りを見回した。

――かごめ かごめ
――かごの なかの とりは
――いつ いつ でやる

「…籠女のうたが聞こえます。あちこちから」――ふわふわと移動するせいで、場所が絞れない。
「いっちょまえに茶化してきおるな」

――よあけの ばんに
――つると かめが すべった

「うしろのしょうめん だあれ」――姉の声が、少年のそれと重なる。
背中を寒気が走り抜け、肌が粟立つ。…俺は即座に姉を見た。

「つかまえた」――狐は、既に動いていた。
姉の背後に伸ばした腕が、少年の首根っこをしっかりと掴んでいる。

『ざんねん』――姉の肩にあとほんの少しで届かなかった少年の指先は、狐火に焼かれたのか少し焦げている。
「…惜しかったなぁ。悪戯もほどほどにしぃや」

『…でも、おもしろかった。ありがとう、お兄ちゃん』
少年は、なぜか俺に向かってそう言うと、満足したのか、眩い光のなかに溶けて消えてしまった。

すると姉が、俺の方にふっと倒れこんできた。俺ごと倒れないように足に力を込める。――鈍った足が悲鳴を上げた。
「…、姉さん?」

「あ…ごめん、大丈夫だよ。なんか目が回っちゃって。諒くんは、怪我はない?」
「何ともないよ。…足は明日、筋肉痛かもしれないけど」

「あはは…、やっぱり、運動不足みたいね」
「…おおごとにならんで、よかったわ」

「ご迷惑をおかけしました」
「…ほんまに。まぁ、気ぃつけて帰り。宵夢のこと、よろしゅう頼むわ」

狐の見送りを背にして、俺たちは歩き出す。
朝日が町に反射して、きらきらと眩しい。――さっき目にした光とよく似ていた。

***

「あれ? 諒くん、お耳」
「え?」

「狐のお耳、なくなってるよ」
「えっ。あっ、ほんとだ!」

「よかったねぇ。これで明日、学校行けるね!」
「うん。ありがとう姉さん」

「ううん、私こそ。危なかったのに助けてくれてありがとう」
「…うん」

姉と弟は、仲良く連れ立って日常へと帰っていく。
「…相変わらず、目ぇつけられやすいんやなぁ、あんたは」
その背に向けて、私は小さく独りごちた。――そのはずだった。

『君こそ、相変わらずお節介なんだねぇ』
こたえる者のないはずの言葉が、いとも容易く拾い上げられた。――その姿は、硝子よりも薄い。

「…。しれっと出てくんなや」
『ふふ…。宵夢の身が危ないからと、あの子にわざわざ嘘を重ねて、耳まで貸すなんてねぇ』

「…、…」
――諒の身に起こったことは、例の面のせいではない。
ただ、何となく嫌な予感がしたので、私の耳を貸しただけだ。

諒ならば、異変に気付けば、私のところに来てくれる。そうすれば、何があっても守ってやれる。
実際、耳が生えたとすぐに私に言いに来た。――それでいいのだ。

手に負えないとわかったら、どうにかできそうな誰かに手を借りる。
そうやって少しでも、ひとりで抱え込むことがないように、育ってくれればいい。

『…大変だったろう。苦労をかけたね』
「…ふん。あんたもこないなとこうろつかんと、さっさと宵夢のとこ戻――」

そう言いかけた
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登場人物紹介

狐塚 諒

主人公。狐塚家長男。弓道部に所属していた高校生。鹿園はクラスメイトで、近頃なぜか二階堂に目をつけられている。

姉をよく手伝っていたが、実際のところ家に伝わっている伝承は全く信じていない。

狐塚 宵夢

狐塚家長女。高校生。委員会の仕事などを精力的にこなしている。

次期当主として厳しく育てられてきた。割と天然な性格でおっとりしている。

家に伝わる伝承を信じており、それどころかちょっぴりロマンチックだと思っている。

狐塚 彰文

宵夢と諒の父。現当主。

狐塚 千鶴

宵夢と諒の母。

鹿園 正巳

諒のクラスメイト。弓道部に所属している。

基本的にいつもテンションが高く、諒にうざがられている。

二階堂 郁馬

宵夢のクラスメイトで、弓道部部長。

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