第1話

文字数 1,972文字

 深く息をはいて、メガネを外した。凝り固まった肩まわりをほぐそうと、あえてゆっくりと首を回す。顔が天井を向き始めると背中や肩甲骨のあたりに激痛が走った。完一人暮らしを始めてから時間がとれず、ユーチューブで肩甲骨はがしのストレッチを怠っていたかもしれない。痛みをこらえてゆっくりと顔を元の位置に戻す。
 目を開けると部屋は西日で溢れていた。横並びに大きな窓が二つあるところが気に入って決めたこの部屋は、南西向で西日が綺麗に部屋に入る。開け放たれたくすみブルーのカーテンの間から、はちみつ色の光が差し込む。
 在宅ワークに切り替わったあと、思いきって実家を出て正解だった。仕事が忙しいときは家事をする暇が惜しくて生活が乱れるが、納品が終わったあとのこれほどの開放感は一人暮らしだからこそ味わえるものだ。
 明日も仕事だけど。でも、明日がくるまで、今からなんだってできる。
なんて自由なの。
 立ち上がって、鼻歌をうたいながら冷蔵庫を開けると、一番上には梅酒が並んでいる。ビールは嫌いで梅酒が好きなのだ。いつもは缶のまま飲み干すが、今日は緋色の琉球グラスのコップに注いで、飲む。
 夕飯は、三日前に大量に作った肉じゃがだ。食欲がなく、肉を避けてじゃがいもと人参、絹さやばかり食べていたから、肉と玉ねぎしか残っていない。野菜室にはじゃがいもと玉ねぎしかなかった。
 じゃがいもと玉ねぎでなにか作るか。
 悩みながら、ひとまず洗濯物を取り込もうとベランダの窓を開けた。その途端、どこからかふわっと出汁の匂いがした。
「お味噌汁」
 そうだ、時間があるし、出汁から作るじゃがいもと玉ねぎのお味噌汁を作ろう。
 急いで洗濯物を取り込んで、スマホで出汁のとり方を調べる。その時、シュウからラインが入ったが通知を無視して計量カップで水を鍋に入れ、昆布を浸した。30分ほど浸して、そのあと火にかけて沸騰する直前まで煮出すらしい。
 昆布を浸している間、仕事の資料やパソコンを片付けて、机の上を食事ができる状態にし、久々に湯船のつかるために浴室掃除もした。それが終わると台所へ戻って炊飯器をセット、じゃがいもと玉ねぎも全て切っておく。そこまでやっても30分タイマーをかけたスマホが黙ったままだったから、ベッドに腰掛けてやっとシュウとのラインを開いた。
 当たり障りのない内容。次回会う日の予定とか、行きたい店の情報とか。了承と感謝を伝える文を当たり障りなく組み立てて、送信する。
 シュウに会えるのは楽しみだが、私はシュウに恋はしてなかった。
 一人暮らしすれば、変わると思ったんだけど。
 シュウのラインのアイコンを見つめる。シュウとは結婚を前提に付き合った。すぐにでも結婚したいと全力で相手探しをしたのに、シュウと付き合っている今、結婚に踏み切れていない。恋愛ではなく結婚がしたかったから、恋心はなくてもよい。問題は夫婦、家族になるために必要な結婚に踏み切れないことだ。
 家族になるために何が足りない?
上半身をベッドに投げ出すと、もう部屋にはちみつ色の粒子がなかった。小さな夜がひたりと忍び込んでいる。
 スマホのタイマーが鳴った。起き上がって、テレビをつける。部屋の明かりをつけ、ニュースに耳を傾けつつ、じゃがいもと玉ねぎのお味噌汁を作る。肉と玉葱だけ肉じゃが、ご飯、じゃがいもと玉ねぎのお味噌汁、キムチを全て器によそい、洒落たランチョンマットの上に並べると突如の雰囲気が登場した。思わず写真を撮ろうと思い、そんな自分の調子の良さが笑えた。
「いただきます」
 ワクワクしながらまずお味噌汁に口をつける。
「うん?」
 もう一口、確認するように口に含んだ。
 まずくはない、が、違う。実家のお味噌汁の味じゃない。
 その途端、蛇口から水が一気に流れ出るように、脳内で映像が溢れた。実家の自室、リビングでテレビを見る時に座る場所、犬のお気に入りの寝床……。
 瞬きをする。この部屋には私だけで、テレビからアナウンサーの声しかしない。湯気がたつお味噌汁は、相変わらず美味しそうに見える。
 もう一度、家の味との差異を見つけようとお味噌汁を飲む。その時シュウからのラインがきた。すぐに開き中身を確認する。
「……あは」
 届いたのは、写真だった。私に影響されて自炊を初めたばかりのシュウが送ってくれる料理の写真は、毎回変だ。今回も火を通す前の鍋の中身の写真である。
こちらも写真を撮って送ろうかと思ったが、やめた。
次こそ、納得いくお味噌汁を作ろう。うまくできたら、シュウにも食べてみてもらうのもいいかもしれない。お味噌汁の具で一番美味しいものはなにか、なんて話をしながら。
 緋色のグラスに残っていた梅酒をなめると、体と同じ温度になっていた。心地よく甘く喉を通り抜ける。鼻の奥で梅の香りを楽しみながら、シュウへの返事を打つ。
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