第3章「文の長短と組み合わせをマスターしよう」
文字数 3,999文字
第3章のタイトルの「文」は、センテンス sentence のことです。マルを打つまでの一区切りのことです。
このコラボエッセイでは、「文」と書いたり「センテンス」と書いたりすると思います。どちらも同じ意味です。
この章の話題は2つあります。
1.ひとつひとつの文の長さに気を配ること。
2.それらの文がどのようにつながって文章になっていくか、その組み立てかたに気を配ること。
第2章のテーマは「リズム」でした。テンやマルをどのように使って文章のリズムを作るか、ということでした。
どこにマルを打つかということは、その文の長さをどうするか、ということですよね。
というお話です。
一文一文にすごく凝った表現を盛り込む作家さんの文章は、
「しょっちゅう立ちどまっては『ほら、ほめてほめて』と言っている感じがする」、ですって。^^
わかりやすく書きなさい、と子どもたちに言う先生、「無色透明な文体」とやらを押しつけてくる文章読本[とくほん]、文章の書き方についての意味不明なルールを頑固に守ろうとするジャーナリスト、「バン!バシッ!」系のサスペンスを書く小説家――ああいう人たちのせいで多くの人が頭に叩きこまれてしまったんです、「文[センテンス]は短いにかぎる」なんて考えかたを。
まあ、裁判にかけられて判決を待っている人なら、「刑期[センテンス]は短いにかぎる」って言うでしょうね。でも、文はちがうと思うよ。
Teachers trying to get kids to write understandably, textbooks of style with their notion of "transparent" style, journalists with their weird rules and superstitions, and bang-pow thriller writers--they've all helped fill a lot of heads with the notion that the only good sentence is a short sentence.
A convicted criminal might agree. I don't.
(『ル=グウィンの小説教室』第3章より)
中身を読まなくていいので、形だけ見てください。
つまり「文は短いほうがいい」って言ってる人たちの主張は、すごく長い文で書いて、
「そんなことない、長い文だっていいものだ」というご自分の主張は、短い文で書いてるんです。
こういうところがおちゃめなんだな、ル=グウィンさん!
物語でも詩でもなくて、説明の文章なのに、躍動感があって音楽的。
やっぱり……翻訳書で読んでもしかたないかもです。残念。
かわりに、前回も引いた文豪の日本語を見てみましょうか。
富士には、月見草がよく似合う。
「長い文は、ただ長ければいいというものではない」。
「朝起きて、それから歯をみがいて、それから朝ごはん食べて、それから会社行って、……」という、「それからそうして」系の文章は、たんに子どもっぽいだけ。
そういうふうにただ数珠つなぎになっているのじゃなくて、少し複雑に組み合わさった文章を書けること(そして読めること)が大切だ、という話です。
さっきの月見草の一文を例にとってみると……
まず、
「あの月見草は、よかった。」という、木で言えば《幹》があります。
そこに、
「三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し」(1)
「みじんもゆるがず」(2)
「けなげにすっくと立っていた」(3)
この3つが、「あの月見草」に乗っかっています。《枝》や《花》みたいなものですね。
さらに、
「なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい」(4)
これが(3)の「けなげに」に乗っかっています。(どれくらいけなげなのかというね)
「あの月見草」の上に、センテンスのほとんどの部分が乗っかってる!
それを、
「よかった。」
って一語だけでがっちり受けとめてる。
このアンバランスが逆にかっこいいんですね!
じゃ、練習問題、行ってみましょう。
200~300字の物語の文章を、15字前後の文を並べて書いてみましょう。
「断片禁止!」などの断片で書かずに、「断片で書かずに、ちゃんと文の形にしてください」のようにちゃんと文の形にしてください。
↑ル=グウィンさんが別の箇所で使っているジョークです。笑
課題2:
700字に達するまで、マルを打たずに1センテンスで書いてみてください。
(『ル=グウィンの小説教室』第3章より)
おすすめのアイデアとして、
問1は緊迫した、動きのある出来事。誰かが眠っている部屋に泥棒が忍びこむ、など。
問2は、おおぜいの登場人物が盛り上がってひとつになっていくようす、など。
だそうです。
謎ルールは「文は短いにかぎる」以外にもあるようで、そしてル=グウィンさんはそれについて言いたいことがあるようです。
この章の最後にちょっと(いわゆる)「毒を吐いて」います。^^
段落や文をできるだけ短くする、などという「ルール」を唱えるのは、「文学っぽい文を一文でも書いてしまったら破り捨てることにしている」なんて得意げに言ったりするタイプの作家であることが多いです。でもそういう人の書くミステリーやサスペンスってたいてい、「飾り気なし」「寡黙」を売りにした、いわゆるマッチョなスタイル。そっちのほうこそ自意識過剰のマンネリ文学だったりはしないのかな、なんて思うんですけれども。
I have found in several how-to-write books statements such as "Your novel should begin with a one-sentence paragraph," "No paragraph in a story should contain more than four sentences," and so on. Rubbish! [...]
"Rules" about keeping paragraphs and sentences short often come from the kind of writer who boasts, "If I write a sentence that sounds literary, I throw it out," but who writes his mysteries or thrillers in the stripped-down, tight-lipped, macho style--a self-consciously literary mannerism if there ever was one.
(同書同章)
この夏出た翻訳書だと、"Rubbish!" の部分が「ゴミか!」って訳されていて、びっくりしました。
若者言葉にそういうのがあるのでしょうか?
"rubbish" というのは、辞書の意味では「ゴミ」だけど、「あーくだらない」「あほくさ」という、ごくふつうの日常会話で使う言葉です。
ものおじせずに発言する行動の人でしたけれど、
でも、けっして「がさつ」な人ではないんですね。もともとお嬢さま育ちで。
いつもユーモラスで、軽やかで。
そして、ぜったいに「偉そう」な人ではありませんでした。
そういうのがいちばんお嫌いなかたでした。
ヒツジはたった一度お会いしただけですけど、ル=グウィンさんのたくさんあるエッセイ集の文章がみんなそんな感じです。
そういう人として、広く記憶されるといいなと思います……。
そう思って、引用する部分を訳しているヒツジです。
オンラインでは音読できないから(笑)第1章のは無理だけど、2章のと3章のをやってみようと思います。