第1話

文字数 1,997文字

家になんか帰りたくないけれど、帰る場所が他にあるわけじゃない。

親にはこどもの気持なんてわからないけれど、こどもは親の気持ちがわからないといけない。そうでないとこどもは生きていけない。
そういう幼少期をすごした。私は「こどもってそういうものだ」と信じて暮らしていたので、本当はそうでもないらしいことを大人になってから知って驚いた。
うちは普通の家のはずだった。平凡な家庭の平凡な親子。そのはずなのに、うちは問題だらけだった。これも大人になってから気付いたのだけれど、私の母には「こどもに共感できない」特性があって、それが原因の全てだった、という気がする。

ある子の家に暗いものがあると、周囲の子たちは目ざとくそれに気付く。何かあっても誰にも守ってもらえない子。そういう匂いをかぎ取るのかもしれない。それに気付かれてしまったらあとはもう毟られるだけだ。毟る側に回る子たちの家にも何か暗いものがあったのかもしれないが、彼らはとてもうまくそれを隠していたような気がする。つまり、隠せない子どもが「やられる側」になるわけだ。
そういうわけで、家だけでなく、学校にも私の居場所はなかった。

母は、私の学校からの帰りが少しでも遅れると、火が付いたように怒る人だった。だから帰り道にどこかに寄ることはできない。放課後の過ごし方にもうるさかった。母自身が知らない子と私が遊ぶことを本当に嫌った。誰かと遊んできたことを母に報告すれば、その子はどんな子なのかを根ほり葉ほり聞かれた。それで気に入らないところがあれば、もうその子とは遊ばないように言われた――。

それでもわたしはある時期、毎日、ほんの5分くらいだけ、ある場所に寄ってから帰っていた。ある友人に会うために。それは学校の先生からも「家庭はうるさく、本人は孤立していて色々と面倒くさい子」として嫌われていた小学校高学年の頃だったと思う。
通学路をすこし外れたところに遊歩道があったのだが、その脇に休憩用のベンチがしつらえてあった。その子はそこに毎日座っていた。私が前を通るたびに、何か言いたげな目で見つめてくるので、ある日話しかけてみた。
「どうしたの? 何か用?」
「別に」
すこしやり取りをして互いの名前を教え合うことができた。私は「亜子」、彼女は「心愛」。ここあ……もうその名前だけで母は彼女と関わることを許さないだろうという気がしたから、彼女のことは秘密にしようと決めた。

心愛とは、毎日少しだけ言葉を交わす関係になった。彼女も私と同じ年齢で、学校に通っているはずなのに、どうしてこんな時間にここで待っているのか分からなかった。ただ、彼女にも暗い何かがあるのだろうということは想像できた。私はその暗さに惹かれた。暗さを隠せない者同士は互いが気になってしまうのだと思う。

心愛の顔は思い出せない。思い出そうとしても脳に霧がかかったようになる。姿もまた思い出せず、佇まいや雰囲気だけが印象に残っている。まるで繊細な影のような少女。頭の中に直接響いてくるようなかすれた声。
雨の日も晴れの日も終業後は急いで学校を飛び出し、会ってひとことかふたこと言葉を交わす。ただそれだけのことに私は救われていた。それほどにあのころの私は孤独だったのだ。

心愛とのことは周囲に、特に母に対して私が初めて持った「秘密」になった。
その「秘密」が、「秘密」を持つことそのものが私に力をくれたのかもしれない。
心の中に「秘密」を持つことは心に「自由」を持つことだと私は気付いた。
心愛と会うようになってしばらくして私は中学を受験しようと覚悟を決めた。クラスの子たちと同じ学校には行きたくなかったからだ。母も賛成した。その理由はわたしの気持ちとは違ったけれど別によかった。
塾に入って懸命に勉強し、受かりそうな学校を選んで、受かった。

心愛にはそのことを卒業式の前日に報告した。遠い学校に行くことを。もう今までのようには会えないことを。
心愛はそれを黙って聞いていた。そして最後にこう尋ねてきた。
「それ、亜子が決めたのね」
「うん」
「そう……」
心愛は頷くと、スッとベンチから立ち上がった。
「じゃあね」
その時私は見たように思う。心愛の細い背中から翼が生えてそのまま彼女が空に舞いあがるのを。七分に開いた遊歩道の並木の桜がつぎつぎと風に煽られ散っていた……まるでその中に吸い込まれていくように。
空に浮かんだ心愛は一度だけこちらを見おろし、私をじっと見つめた。初めて心愛に声を掛けた時のことが思い出された。
「さよなら」
それを言ったのは心愛だったのか、それとも私だったのか。ともかくもそれは、心愛が私の世界からいなくなった瞬間だった。

そのあと私はどうにか生きて今に至る。
あれからもうかなりの時間が流れた。正直なところ当時のことは思い出したくない。けれど、それを、心愛のことを忘れてしまえば、私のあの時期は空っぽになってしまうのだ。
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